アナバスと神々の領域 【3】-前編-

舞桜

悪魔界

この日、ジェイは休日だった。

とは言え、常日頃からほとんど何もしていないと揶揄からかわれるジェイにとって、それはいささか心外ではあったが、王子であるが故に何に縛られる事無く、気になった救済メールが送られて来た地に赴いたりと自由な身である為、何を言われようがあまり反論はしていない。


アナバス星に仕える者達の中で、兵士達は週に三日の休日が与えられ、他の従事者には二日の休日が与えられている。

アナバスの兵士達の仕事は、主に救済メールのあった各星各地に出向く者と、常に星々を移動しながら悪魔討伐や警備にあたる者とで別れている。

前者はパープル・ナイトの管轄、後者はイエロー・ナイトの管轄であり、アナバス兵の任務の九十九%は、王族を守るものでは無い。

他星の兵士とは雲泥の差がある危険な任務故に、アナバス星の兵士は休日が多く設けられている。

また、能力ちからを持たない王族だが、ジェイだけは違う。

他星とは違い、アナバス星は唯一悪魔の居ない理想の星と言われているが、それは星全体に強大な結界が幾重にも張られており、悪魔の侵入を決して許さないからだ。

そしてその結界こそが、ジェイが張り巡らせたものである。


ニアルアース・ナイトとジェイの休日が被ることは無い。

全星最高位の騎士である彼らは週に一日しか休みを取らず、まれにニアルアース・ナイトの休日が被ることはあっても、ジェイが休みの日は必ず二人は揃って任務に就いている。また、彼らの休日がやむを得ず重なる時は、必ずジェイが二人の穴埋めをしている事は、アナバス城に仕える者達だけが知る事実だ。



ジェイは、侍従長が運んで来た軽い朝食を食べたあと、外出するために部屋一面に手持ちの服の画像を壁に表示させた。

その中から薄茶色の腰履きロング丈のバギーパンツに、ほんのり淡い薔薇そうび色の肩出しの長袖クロップトップをチョイスした。

着替える際、ジェイは一人勝ち誇ったような笑みを口端に浮かべた。

「 休日にまでバングルなんか着けてられっかよ!」

アナバス城に居る者全てが左手にめているバングルを外し、ベッド脇のチェストに置いた。

このチェストもベッド同様、シンプルな装飾品のみで縁取ふちどられ、フロアランプが取り付けられている。


ジェイは右のこぶしをぎゅっと握り締めた。

「 っしゃあ! 今日一日、バングルのことでイエローに文句は言わせねぇ!」

そして、両手を天井に向けて高く上げ、思い切り伸びをした。

へそ周りの滑らかな肌はより一層露出され、ジェイにとっては気持ちが良い。

「 あ〜、なんかすっげー開放感っ!」

このようなフェミニンな装いは、女性のようにしなやかな身体を持つジェイだからこそ似合い、またそれと同時に同性の男をも惑わす魅力を持つ。

ただ、本人が全く無自覚なだけに、非常に罪深い。


ジェイは城の誰にも出くわさないよう、部屋から直接テレポートして城外へ降り立った。

アナバス城は空中城塞であり、その名の通り真下には城下街が広がっている。

今日は雲一つない真っ青な空で、気候もちょうど良い。爽やかな風が身体をかすめていく。

あまりの心地良さに、ジェイは街を抜けたところにある、 " 芝生の丘 " と呼ばれる公園へ行こうと決めた。

「 あら、ジェッド様じゃないですか!」

青果店の女店主が声を掛けてきた。


さすが城下街というだけあり、青果店ではアナバス星各地で収穫されるしゅんの果物を全て取り扱っている。それはこの店に限らず、鮮魚店、精肉店、八百屋も同様だ。


一般的に小さな町や村だと、野菜と果物を一緒に販売しており、それぞれの地域によって青果店、もしくは八百屋のどちらかの名称で呼ばれている。

しかし各星の城下街ともなれば、取り扱う種類が膨大である為、果物だけを取り扱う店を青果店、野菜だけを取り扱う店を八百屋と、はっきり区別している。


だが、どの店にも商品自体は置いていない。常に新鮮な環境下にある農園や漁港などに商品はあり、モニターから選んで支払いを済ませると、自動的に購入者の登録住所へ瞬時に届く仕組みだ。

これはアナバス星に限らず、他の八惑星、つまり全世界の大都市が導入している、ごく当たり前のシステムだ。

また、特にどの星の城でも食材の全てを城下街で仕入れるため、購入した大量の食材を直接持ち帰らずに済むという画期的なシステムでもある。


「 おはよう、ガーナ」

ジェイがあどけない笑顔を見せると、ガーナと呼ばれた青果店の女店主は、

「 ちょっとお待ちくださいよ 」

と店の奥へ引っ込み、数分後にはオレンジ色のドリンクを持って戻ってきた。

「 今朝採れたばかりの果物3種のミックスジュースです 」

「 わぁ! ありがとう!」

ジェイは礼を言って受け取り、最初の一口をゆっくりと味わう。そして、パッと表情を輝かせた。

「 今日も美味しい! ガーナが考えた組み合わせのミックスジュース、いつもマジ美味うまいから好き!」

ジェイが美味しそうにゴクゴクと飲む姿を見ながら、ガーナはホホホと笑い、

「 やだよぉジェッド様、いつも褒めて頂いたら、調子に乗ってしまいますよ 」

片手をひらひらと振って目尻に皺を寄せた。


城下街を進んで行くと、至る所から声が掛かる。

「 王子! 即席でコロッケでも作りましょうか?」

精肉店の前を通れば、男店主がそう声を掛けてくる。

「 ううん、今日はいいや! さっき朝メシ食ったとこだからさ。ありがとう!」

店の店員や、すれ違う者全員に「 おはよう 」と声を掛けながら歩を進める。

「 キャア、ジェッド様! 可愛いらしい格好かっこしてますね!」

女性ファッションを扱う店の前に居た店員二人が黄色い声を上げる。

「 え、そう? 開放感のある服が好きだからな〜 」

答えたジェイは、二人の前で両手を上げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねて見せた。

「 そんな女性らしい服は、男性はまず着れませんから! ジェッド様しかお似合いにならないですよ!」

一人が言うともう一人は、

「 でもお気を付けくださいね? ただでさえお綺麗なんですから、城下街ここではまだ良いとしても、男性に刺激を与えてしまいますからね!?」

と、最もな注意を促した。

「 ? うん、大丈夫大丈夫!」

軽く返事をするジェイに、二人の女性店員は、

( 絶対分かってない! )

と、互いの目を見合わせた。



城下街を抜けたすぐ近くに、その緩やかな丘がある。全てが芝生で覆われており、家族連れや子供たちが駆け回りキャッキャッと楽しそうな笑い声が辺りを包んでいる。遊具などは一切無い、自然の遊び場だ。

ジェイはこの穏やかな場所が大好きだった。

休日にはよくここへ来て、子供たちの相手をすることも度々ある。

今日もジェイが公園へと足を踏み入れた瞬間、走り回っていた数人の子供たちが駆け寄って来た。どうやら鬼ごっこをしていたらしい。

「 ジェッド様だ〜っ!」

「 いっしょにあそぼうよ〜!」

ジェイが芝生に腰を下ろすと、子供たちは無邪気にジェイに抱きついて来る。

「 あはは、いつも元気だな!」

ジェイは集まった子供たち全員の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「 ジェッド様〜、かみがくしゃくしゃになっちゃうよぉ 」

文句を言いながらも嬉しそうな顔を見せる子供たちに、ジェイもアハハと笑みを零す。

「 ばーか、どうせお前ら、いつも帰る時には髪ぐしゃぐしゃだろ? ここで転げ回ってんだから 」

「 そうだけどー ……! いつも母ちゃんにおこられるんだぁ。『 服とかいっぱいよごして!』って 」

「 あはは、そりゃそうだろうな 」

言いながら、ジェイは真正面にいる子供のほっぺたに付いた土を、親指の腹でぐいとぬぐってやる。

「 だってもう顔だって汚してんじゃねーか。そりゃ母ちゃん、怒るって 」

それでもジェイに構って欲しいのか、キャッキャッと子供たちはジェイにじゃれて来る。

( 他星の子供たちも、悪魔に怯える事なくこんな風にのびのびと過ごせたら、どんなにか良いのにな …… )

ジェイがそう考えを巡らせた時だった。


ジェイの身体を鋭く突き刺すような、ゆがんだ強烈な邪気を感じ、そして気付けば公園のジェイの視線の先の木陰に、黒い影を潜ませたルトアミスが立っていた。


┄┄┄┄ っ!


ジェイは焦燥感を覚え、しかし、自分に懐いている子供たちに努めて穏やかな口調で告げた。

「 ごめんな、急用が出来た。また今度遊ぼうな?」

「 えぇーっ? いま会ったばかりなのに …… 」

しょんぼりと俯く子供たちに、ジェイはわずかに心を痛めたが、

「 ごめんな?」

再び謝ると、子供たちはジェイから離れ、周りに立って笑顔になった。

「 だいじょーぶ。またあそんでね!」

恐らく子供たちは母親から、ジェイの仕事だけは邪魔をしてはいけないと、キツく言われているのだろう。

王子様が相手をしてくれる時は遊んで貰いなさいと。

「 ごめんな、じゃあまたな!」

にっこりと微笑んだジェイは、次の瞬間には険しい表情に一変して、その場から姿を消していた。

子供たちの目にはそう映っただけなのだが、実際には素早くルトアミスの元に走り寄っただけに過ぎなかった。


「 まさか …… っ! なんで!?」

ジェイはルトアミスの正面に立ち疑問を投げ掛けながらも、アナバス星全体に張り続けている自身の結界に気を巡らせた。

張っている結界は生半可なものでは無い。ジェイの持てる能力ちから全てを使って張っている結界だ。それも、一つでは無い。幾重にも張り巡らせている。

何処かにほころびが生じたのか …… 否、それならばすぐに気が付くはずだ。

そんなジェイの懸念を他所に、ルトアミスはジェイの左頬をてのひらでそっと包み込んだ。

「 大丈夫だ。お前の結界には何の問題も無い 」

ならば、何故 …… そう言いたげなジェイの心を見透かしているかのように、ルトアミスはすぐに続けた。

「 どうしてもお前の顔が見たくなった。… だから、お前の結界を抜けてこの星に入ろうと何度も試みた 」

「 え?」

「 安心しろ。数十回ほど試して、ようやく成功した。この俺がかなり体力を消耗したんだ。お前の結界に綻びがある訳ではない 」

しかしジェイは納得がいかないのか、表情を曇らせた。

「 お前が何十回試そうが、結果的に俺の結界に入って来れたってことは …… もしかしたらファズだって他の最上悪魔だって、アナバスに入って来れるかもしれないってことだよな?」

「 いや、」

と即座に否定したルトアミスは、掌をジェイの頬から左手首へと移し、その内側を確認した。

そこには、一昨々日さきおとといルトアミスが付けたキスマークがうっすらと残っていた。

「 恐らくこれのせいだ 」

「 どういうこと?」

ジェイは困惑しつつも、不思議そうにルトアミスを見上げた。

「 これは俺が付けた跡、つまり、俺の気がお前の身体に僅かに残っているということだ 」

しかし、とルトアミスは複雑な笑みを浮かべた。

「 流石だな。これが消えるには個人差がかなりあるが、たった2日半でこんなにも薄くなるなんてな 」

「 よく分かんないけど、じゃあ、この跡があるから、お前は結界を抜けやすくなってたってこと?」

「 ああ、俺の気がアナバス内部にあるという事だからな。跡がまだもっと濃かったら、もう少しくらいは早く結界を通り抜けられたかもしれんな 」

そっか … 、とジェイは少し納得したようだった。

┄┄┄┄ だが。

「 でもルト、今後は絶対ここに入って来んなよ!? ただでさえ最上悪魔の気なんて読み取れないんだから、びっくりさせないでくれよ …… 」

と、ジェイは少し怒った口調でルトアミスを睨みつけた。



「 …… そそるな 」

ルトアミスが小さく呟く。

「 ん?」

ルトアミスの手が再び伸びて、ジェイの首筋から肩にかけて手を添えた。

なに? と言いたげな表情をするジェイの藍色の瞳を、ルトアミスはじっと見据えた。

「 お前がこんな露出の多い姿で人目に触れていると思うと、俺は気が気でならないが、同時にお前に心を掻き乱される 」

するとジェイはパッと表情を明るくして、

「 ああ、この服? へへっ、良いだろ? 開放感があって楽だし、気に入ってんだよな〜っ!」

万歳をするかのように両手を上げ、ジェイは城下街の時と同様に自慢気に軽く飛び跳ねた。

口端をヒクリと上げるルトアミスの心情を知らず、ジェイは彼に左手を差し出して見せた。

「 気付いてた!? 今日はバングルも付けてないんだぜ!」

ニヤニヤと笑うジェイに、ルトアミスは改めてそれに気付いた。

「 …… 良いのか? 外していればニアルアース・ナイトに怒られるんだろう 」

するとジェイは大きく胸を張った。

「 大丈夫! 俺、今日休みだからさ! 文句言われても、休日にまであんなの着けてられっかよ!」

「 休日? お前にもそんなものがあるのか 」

若干驚いた表情をしたルトアミスを、ジェイは見逃さなかった。

皆、一体自分を何だと思っているのだろうか。

そう文句の一つでも言ってやろうとした。


┄┄┄┄ が。


「 予定はあるのか?」

彼の一言に、ジェイは思わず動きを止めた。

そう言われてみれば、今までは特に休日だからといって、何かしら予定を立てたことは無い。

「 いや … なんも考えたこと無かった …… から、特に予定なんて…… 」

ジェイは改めて気付かされ、口篭くちごもる。

大抵は城下街を彷徨うろつき、この芝生の丘に来て子供たちの相手をしたり、ゴロゴロしたりして過ごしていた。

今まで何か予定を立てるという概念は微塵も無かった。

そんなジェイをじっと見ていたルトアミスは、

「 休日はずっとここから出ることは無かったのか 」

ジェイの考えを読んだかのように尋ねた。

「 うん、言われてみれば … そうだな。アナバスから出たことは無かった 」

「 なるほど。… お前は責任感も優しさも気遣いも全て持ち合わせている。だから無意識のうちにお前は、緊急事態が起きた時のためにアナバスに留まっているのかもしれんな 」

そう言われればそうかもしれない。

いつでも城に戻れるよう、こうして近くにいる。何かあれば、バングルがなくとも城内やアナバス星各地の異変を感じ取れるからだ。

とはいえ、今までそのような事態に陥った事は無いのだが。


「 なら、今日の休日は俺がもらおう 」

突然のルトアミスの言葉に、ジェイは一瞬何を言われたのか分からなかった。

「 予定は無いんだろう? なら、俺がお前の行きたい所へ連れて行ってやるが、どうだ?」

「 俺が行きたい所?」

「 そうだ。お前なら絶対に興味があるはずの場所だ。… アナバス星が気になるなら、ニアルアース・ナイトが居るのだから大丈夫だろう。スナイパーを相手に良くやっていた。たまにはお前も息抜きが必要だ 」


うーん …… としばらく考えていたジェイだが、

「 ありがとう、でも ……… 今回はちょっと遠慮しとく 」

と、少し余所余所よそよそしい態度を取った。


何故ならジェイにしてみれば、アナバス星へ侵入して来たルトアミスを、やはり警戒しなければならない、と感じたからだ。

何故ルトアミスがこんなにも自分に固執するのか。

まずそこから分かっていないジェイには、やはりルトアミスには、自分に近付き何か目論んでいるのではないかという、猜疑心がよぎった。

と同時に、ジェイは胸の奥に何か重い石のようなものがズシンと音を立てて落とされたような感覚を覚えた。

このよく分からない感情や、ルトアミスの本当の目的が何なのかという不安に囚われ、ジェイは一人になりたくなった。城に帰り、今日一日は自室にこもりたい気持ちに陥ったのだ。



しかし、いつもと違うジェイのその様子をじっと見ていたルトアミスは、

「 俺は …… やり過ぎたか?」

俯き、低い声でそう尋ねた。

「 え、なに?」

ジェイは慌てて笑顔で取り繕った。

ルトアミスが何を言ったのかは、本当に聞き取れなかった。ただ、警戒している事を勘付かれてはならないと思った。


だが、それは既に遅かったようだ。

ルトアミスはジェイの両腕をやんわりと掴み、僅かだが寂しそうな表情をしている。

いつも冷静で自信に満ち溢れているルトアミスのそのような表情を見るのは初めてで、ジェイは驚いて息を飲み、彼の自分に向ける瞳から目が離せなかった。

「 ジェイ、侵入してすまなかった。明らかにやり過ぎた。お前が絶対に警戒するだろう事すらも忘れるくらい、とにかくお前に会いたかった 」

ルトアミスは嘘を言ってはいない。

ジェイはそう感じた。

この謝罪は、ルトアミスの本心をさらした言葉だ。


「 でも … なんで。なんでアナバスに侵入してまで、俺に会いに? だいたい、俺がここに居るなんてなんで分かったんだ? どっか違う星に行ってるかもしれないだろ … ?」

僅かに狼狽えながらも、ジェイは疑問を口にしていた。

「 さっきも言っただろう。お前の左手首の俺の跡が、直感として伝わってきていた。お前がアナバスから出ていないと。その証拠に、俺が侵入したそのすぐ視線の先にお前がいた。だから、お前の結界を抜けることが出来たのも、これのお陰だと分かった 」

ルトアミスは再びジェイの左手首を持ち上げた。

しかし、ジェイはまだいまいち納得が出来ていないようで、少し鋭い眼差しをルトアミスに向けた。

「 今更なんだけどさ … 、なんでお前はこうまでして俺に会いに来るの? やっぱ目的があんじゃねぇの?」

するとルトアミスは少々呆あきれた顔をしてから、あざけるように笑った。

「 愚問だな、ジェイ。目的があるに決まっているだろう 」

「 え …… っ 」

ジェイは頭の中が真っ白になるのを感じた。

ジェイの中で、一瞬、時が止まった。



あまりにもルトアミスが優しくするから、油断していた? 騙されていた? 利用されていた?

最上悪魔を信用し過ぎてしまった? それも、悪魔界の双璧とまで称されるルトアミスを ……



瞬きもせずルトアミスの瞳から目が離せないでいるジェイに、ルトアミスはゆっくりと、丁寧に言葉をつむいだ。


「 お前と初めて会ったその日から、俺には、お前しか見えていない 」

分かるか? と言うように、ルトアミスは言葉を区切った。

恋愛や性に全く興味も知識も無いジェイには、少しずつ、言葉を選びながら伝えるしかない。

単純に、お前が好きだ、と伝えても、それは全く伝わっていないのも同然だ。

「 いいか、ジェイ。今回のことは完全に俺に落ち度がある。悪魔のいない星に、俺が入り込んだ。どれだけお前に警戒心を与えてしまうか、お前の気持ちを全く考えずに行動してしまった 」

ルトアミスはまた言葉を区切って、ジェイが真剣に話を聞いていることを確認した。


「 …… 俺の目的は、お前だけだ 」


その言葉に、ジェイは彼のその真意を量(はか)り兼ねて、複雑な表情を浮かべる。

ルトアミスはすぐに続けた。

「 勘違いするな。俺の目的は、 " アナバスの王子 " でも、 " 悪魔の天敵ジェッド・ホルクス " でもない。そんなものは、俺には全く興味がない 」

ルトアミスはジェイの右手を取り、そのまま自分の胸に当てた。ジェイの掌に、ルトアミスの心臓の鼓動が伝わる。

「 俺は、何も持たないお前自身が目的だ。お前がアナバスの王子でなくとも、能力など全く無くとも、お前そのものが欲しい。むしろ、お前が能力や地位など持っていない方が俺は嬉しかった。俺がいつでも自由にお前を守ることが出来るからだ 」

「 ルトアミス …… 」

「 俺は毎日でもお前に会いたい。だが、一昨々日の戦いでニアルアース・ナイトが傷付いた。お前が奴らを心配していると思ったからこそ、我慢していた。感覚的にも、お前がアナバス城にずっといることは分かっていたからな 」

そこまで言って、ルトアミスは小さく溜め息をついた。

「 だが、今日はもう限界だった。一昨々日に交わしたお前との口付けが忘れられない。俺に身を委ねてくれたことも、去り際にお前から口付けてくれたことも、まるで随分昔のことのように思えた。お前の顔を見ていないからだ。だから後先考えず、お前の結界を抜けてしまった 」

お前の顔が見たい、それだけの為に。


最後のルトアミスの言葉に、ジェイは大きく目を見開いた。

「 ジェイ。お前なら分かるだろう。俺が嘘や誤魔化しを言っているかどうか。だが、もし少しでも俺がお前を利用しようと企んでいると思うなら、このまま俺の心臓を破壊しろ 」


ジェイはふるふると大きくかぶりを振った。



この半年間、自分はルトアミスの何を見て来たんだろう。最上悪魔なのに、いつも優しく気遣ってくれる。

強引なところはあるけど、結局は自分に合わせて一緒に居てくれる。

そして、一緒にいると居心地が良い。とてもあたたかい。少しでもルトアミスに邪心があれば、この感覚は決して生まれないものだ。

逆に自分ばかりがルトアミスに甘えて、我儘を言っていたように思う。


「 ルト、ごめ …… 」

俯いて謝罪を口にしかけた時、その動作を止めるかのように、ルトアミスの左掌がジェイの喉元を優しく覆った。

自然に彼を見上げたジェイの唇を、ルトアミスは自分のそれで塞ぐ。

ジェイはそっと瞳を閉じて彼の口付けを受け入れた。


なんて優しい挨拶なんだろう …… 。

これが悪魔同士の挨拶だなんて、なんだか未だに信じられないな …… 。


そう考えているうちに、ルトアミスの唇が離れ、ジェイは瞳を開けた。

「 俺がお前の信用を失うような事をしたんだ。お前が謝ることじゃない 」

唇が触れ合うか触れ合わないかのところでささやくようにそう言われ、ジェイは途端に頬を赤く染めた。

( 俺 …… なんか変だ、この間から )

ジェイは自分の中で何が変わったのかは分からないが、ルトアミスの言動によって心が満たされたり沈んだりと、大きく揺れ動くようになっている事に戸惑った。


「 ジェイ、折角の休日だ、お前の力では行けない場所へ連れて行ってやる。…… 来るか?」

ルトアミスが再度問うと、ジェイはハッとルトアミスを見上げた。

「 あ … 、うん! でも、どこへ?」

ルトアミスはニヤリと笑った。

「 悪魔界だ 」



ジェイはルトアミスを連れてアナバスを抜け、そして今はルトアミスに連れられ、カジュデイル星の衛星であるザィヴァ星に来ていた。

アナバス星に張り巡らせている結界は一つではない。そのため、ジェイは自身の能力を柔らかいベールのような状態に引き伸ばした結界でルトアミスを覆い、アナバスを出てからはルトアミスの手によりザィヴァ星へ直接テレポートしたのだ。

ジェイが結界を張っている以上、この方法以外、アナバスの結界に全く影響を与えずルトアミスを連れ出すことは難しかった。


アナバス星全体を悪魔から守る為に張った結界だけは、絶対に歪みや綻びを与えてはならなかった。

もしそれが壊され悪魔がアナバス星に押し入って来た場合、アナバスに集約されている悪魔討伐機関が全て失われる危険性がおおいにある。そうなれば、今まで築き上げて来た悪魔対抗措置も全て無効にされてしまう為、アナバスだけでなく他の八惑星への悪魔討伐にも手が回らなくなる。

それはすなわち、人類が一方的に悪魔に喰われるだけの世界と化す事を意味している。




ザィヴァ星は、人も悪魔もいない活火山の星である。

見渡す限り至る所から流れ出す溶岩の川が縦横無尽に地を這い回っている。

次々と噴火が起こり、溢れるマグマからの溶岩流は絶えない。そのため、地表も大気も温度が下がらず、灼熱の川は固まることを知らない。

この灼熱の衛星は、かなり強い能力を持っていなくては決して入ることの出来ない星であり、ジェイも足を踏み入れたのは今回が初めてだった。


ルトアミスと五人の下僕しもべ、そしてジェイは、その様を上空から見下ろしていた。

「 久々の悪魔界ですね!」

一人の下僕が嬉しそうに言うと、

「 ルトアミス様、悪魔界では我らも少し羽を伸ばしてもよろしいでしょうか?」

と、もう一人もそう続けた。

ルトアミスはフッと笑みを浮かべた。

「 ああ、そうしろ。悪魔界でのことは城の連中にやってもらう 」


( この五人の下僕は、他の下僕とは少し雰囲気が違うな … 。確かスナイパーの時も、ルトと一緒にいた )


そんなことを考えていると、

「 ジェイ 」

呼ばれて、ジェイは隣りにいるルトアミスに目を向けた。

「 この真下にある噴火口から悪魔界に行く。だが、人界から悪魔界への次元を越えるには、人であるお前は相当な苦痛を伴う。なるべく早く次元と次元の狭間はざまを抜けるようにするが、とにかく俺にしがみついていろ 」

「 次元と次元の、狭間 …… 」

呟くように反芻するジェイに、後ろから女下僕が声を掛けてきた。

「 ジェッド・ホルクス、お前はルトアミス様に抱き抱えられていた方がいい 」

「 は!? なに馬鹿なこと … 」

狼狽うろたえ気味に後ろを振り返ると、金髪の長い髪を後頭部の高い位置でまとめた女下僕は、至極真面目な顔をしていた。

「 次元の狭間ではぐれると取り返しがつかない。逸れた場合、狭間からどこかへ飛ばされて二度と元の場所に戻って来る事は無い。そしてそのまま恐らく死を迎える事になる。後ろには我らもいるが、一番安全なのはルトアミス様の腕の内にいることだ。

それに、次元を越える時に吐血する可能性も高い。内臓が沸騰するような、破壊されるような感覚があるらしい。体中がきしみ激痛も伴うかもしれない。実際、私もそのような噂を聞いただけで、お前の体がどのような状態になるのかは分からないが … 。

だが、上級悪魔が悪魔界に人を連れて行こうとして、狭間での苦しみで死なせた例は少なくない。まぁ、お前はまず死に至ることはないだろうが、かなりの苦痛はあるはずだ 」

そう言われて、ジェイはムッと彼女を睨みつけた。

「 ふざけんなよ。俺だってか弱い人間だ 」


┄┄┄┄ 途端。


ブハッと下僕達は吹き出し、笑い出した。

「 怒るところはそこかよジェッド・ホルクス!」

「 なら尚更ルトアミス様に抱かれて行かねぇとなぁ! 」

「 苦しむのは本当だろうから、遠慮せずルトアミス様にお願いしろ 」

「 我らのことは気にするな、見ないフリをしてやる 」

「 いいか、ルトアミス様の胸の内で小さくなって抱きついていろ 」

口々に言いたいことを言われ、ジェイはグッと拳を握りしめた。

「 き、貴様ら …… っ 」


怒りに口を開いた瞬間、ジェイの身体はふわっとルトアミスに抱き抱えられていた。

左手にジェイを腰掛けさせ、右手でジェイの背中を覆っている。

「 ちょ …… っ、」

有無を言わさず急に抱き抱えられたルトアミスの両肩に、ジェイは落ちないようにそれぞれ手を置いて抗議しようとしたが、

「 確かにこいつらの言う通りだ。行くぞ、ジェイ。お前も俺にしっかりしがみついておけ 」

半ば揶揄からかうように笑いながら、ルトアミスは一気に噴火口へと急降下した。

「 わわわっ、急に行くなよ!!!」

ジェイはなんとかそれだけ抗議して、ルトアミスの首に両腕を回しその肩に顔を埋めた。


なんだかんだ可愛いヤツ。

あるじの後ろから続く下僕達は、ニヤニヤと互いに顔を見合わせた。


この十日近くで、ルトアミスとジェイの距離が縮まっていることは、下僕達も気付いていた。

自分たちの主がジェイに心を奪われ、手を出すことなく大切に扱ってきたのは、ずっと傍(そば)で見てきた。だからこそ、ジェイには少しでも主に特別な感情を持って欲しかったのだ。


人よりも遥かに欲の強い悪魔が、それを抑えてジェイのペースに合わせているのだ。それは生半可な事ではない。

並大抵では制御出来ないであろうジェイに対する肉欲は、悪魔はその本人と体を繋げる以外に、本当の意味でその欲を満たす事は出来ないのだ。

だが、それをすんでの所で強い精神力で抑え込んでいるルトアミスを、下僕達はただただ驚嘆し、見守る事しか出来なかった。

だからこそ、真剣にジェイを想うルトアミスの気持ちに、少しでも気付いて欲しかった。

無論、見ていてジェイがまだ主の気持ちに全く気付いていないことは明らかだが、ジェイが主の努力によって徐々に警戒心を解いていったように、ここ最近で更にまた心の変化がジェイに現れている事は薄々感じ取れる。

ジェイがルトアミスを心底信用し、身を委ねている光景は、下僕たちにとってはとても喜ばしいことだった。



マグマのたぎる噴火口へと物凄いスピードで突っ込んだ感覚は、あまりジェイには体感として伝わって来なかった。

自身でこの星の灼熱から身を守る能力をかけていた事もあるが、もしかしたらルトアミスが更に同じような能力をかけてくれているのかもしれないと、ジェイは思った。


ジェイは子供のようにルトアミスに抱かれていた。こうしていると、まだ幼かった頃、しょっちゅう父親に甘えていた事を思い出す。

( …… あの頃の俺は、とにかくぬくもりが欲しかった。俺を心から愛してくれる親父の、あの大きな手にずっと包まれていたくて、いつも甘えていたな …… )


そう思った次の瞬間、ジェイは忘れたくても忘れられない記憶が急によみがえり、強く唇を噛んだ。

この記憶だけは、なるべく心の奥深くにしまい込んでいたものだった。だが、ふとした拍子に、その時の光景が脳裏をかすめる事がある。

消したくても絶対に消えない、消せない過去。それを拭い去るためにも、常に明るく振舞っている。そして実際、アナバス城内の仲間たちと話していれば、それは滅多に顔を出すことは無くなって行った。

救済メールを見ては単独で様々な星に赴き、常に最善の方法を模索しながら動いていれば、過去のことなど頭をよぎりさえしない。

だが、今こうして思い出してしまったのは、ルトアミスの体温の心地良さと、彼の腕の中に包まれている事があまりにもジェイに安心感を与え、逆にそれがあだとなって、辛い過去が久方振りに顔を出してしまったのだ。


ルトアミスの首に回されたジェイの両腕や身体全体にぎゅっと力が入り、ひたいを強く肩に擦りつけるジェイの髪に、ルトアミスは優しく口付けを落とした。

「 辛いか。ちょうど今、次元の狭間に入った。少し辛抱しろ 」

自分を気遣う優しい言葉に、ジェイは思わず顔を上げた。あまりにも近くにルトアミスの顔があり、彼の目とは焦点が合わない。

少し身をひねりルトアミスの肩から顔を出すと、ルトアミスのすぐ後ろから下僕たちがついて来ており、ジェイは女下僕と目が合った。そして、ゆっくりと辺りを見回す。

「 ここが、次元の狭間?」

しがみついていた手をルトアミスの肩に置き、何も見えない暗闇へと目をらす。

ヒョウヒョウと、鞭のようにしなる風が幾重にも後方へと駆け抜けて行く。

「 ジェッド・ホルクス! ルトアミス様にしがみついていろ! 」

女下僕が慌てて声を上げる。

が、ジェイはにっこりと笑顔を見せた。

「 何も見えないけど、ここって突風が吹き荒れてるんだな! でも、風が気持ち良い!」

ジェイの呑気な言葉に、下僕たちを始め、ルトアミスも思わず表情を一変させた。

「 お前 …… 、体調はどうなんだ 」

「 え? なんともないけど?」


┄┄┄┄ 有り得ない。


悪魔達は驚愕した。

だが、そんな悪魔の胸中を他所に、ジェイは更に続けた。


「 ここって、まだ次元の狭間なわけ?」

「 …… そうだ。抜けるにはあと五分近くあるが … ジェイ、お前本当に、」

「 ん? 大丈夫だって。なんの違和感もないぜ?」

答えてから、ジェイは、あ!と声を上げた。

「 もしかしてルト、俺のこと騙した? 下僕達とグルになって、怖がらせようとしたんだろ! 」

だが、ルトアミスは険しい表情になり、その質問には答えなかった。

「 … とにかく捕まってろ 」

ルトアミスと密着しているルトアミスのその表情はジェイからは見えなかったが、明らかに後ろの下僕達の様子がおかしい事は見て取れた。



悪魔界と人界の結界の狭間で、体に何の異常も現れない人間がいるなど、噂ではまず聞いた事が無かった。必ずかなりの苦痛を訴え、失神する者もいる。

まだ失神する方が一番マシな症状だという。

ほとんどの人間は苦痛の酷さ故に気を失うことも出来ず、死に至る者の方が多いのだ。


( ジェイだからか? 全星最高の能力を持つジェイだから、耐えられるのか? )


確かにルトアミスが今までにおいて知る限りの事例では、 " 能力を持たない人間 " を悪魔界に連れて行こうとした悪魔達ばかりのものだ。

だが、それでも悪魔でもないジェイが全くの無症状というのは、ルトアミスも下僕達も充分に納得出来る材料にはならなかった。


とても信じられない、不可解な現象だった。




何も見えなかった暗闇に、少しずつ光が差し込むようになり、気付くとジェイの目の前には赤黒い空が広がっていた。

ルトアミスの腕の中から身を乗り出し眼下を見下ろすと、多数の民家らしいものが点在しており、一角には、市場のような密集地帯があることも分かった。その通りには多くの悪魔達が行き交っているが、どこか悪魔の気配とは異なる雰囲気がある。


「 ルト、ありがと。自分で浮く 」

そう言ってルトアミスの腕の中から飛び出そうとするジェイを、ルトアミスは慌てて抱き留(とど)めた。

「 馬鹿か! 悪魔界ここでお前の能力を使うな!」

ジェイが能力を使うことによって発生するその気は、悪魔界にいる多くの悪魔たちに、人が悪魔界にいることを知らしめるようなものだ。

もちろんジェイは常に気を消しているのだが、悪魔界にいる最上悪魔の下僕達なら、ジェイが使う能力から発せられる、悪魔とは違う気を察知される可能性は非常に高かった。


ルトアミスは掌に丸い輪を出現させ、それをジェイの左手人差し指に嵌めた。

それは指輪をモチーフにした " 能力封じ " と呼ばれる物であり、身に着けた相手の能力を無効にする代物だ。基本的にそれは、 " 能力封じ " を造り出した本人にしか外せない。


ルトアミスはジェイの気配を消し宙に浮かせてから、ジェイを解放した。

いつもはジェイ自身で自らの気配を消したり宙に浮いたりしていたのだが、ルトアミスの作り出した " 能力封じ " を嵌めた瞬間から、ジェイの能力は一切使えなくなったからだ。

ジェイの気配を消すのも、宙に浮かせるのも、全てルトアミスの能力によるものだ。


ジェイはまじまじとその指輪を見つめていた。

「 邪魔にはならないけど … これじゃ俺、自分の意思でほとんど何も出来ねーじゃん! 外せよ!」

不満を口にするジェイに、ルトアミスは小さく溜め息をついた。

「 お前の行動は危なっかしい。俺が管理しておかなければ、何をしでかすか分からないからな 」

「 はぁ? 何言ってんだよ。俺は子供じゃねぇんだぞ? 自分の身くらい自分で守れる!」

馬鹿にしてんのか、とルトアミスに悪態をつく。

「 だからそれが駄目だと言っている。能力を使ってみろ、悪魔界中に人であるお前の気が伝わって、格好の餌食になる。それに俺以外の最上悪魔の下僕達に、お前が誰かも特定される可能性も大いにあるんだぞ 」

「 特定されたって、返り討ちにしてやるし 」

ぷいとそっぽを向くジェイに、ルトアミスは大きく溜め息をついた。

「 … ここは悪魔界だ。悪魔の手引きが無ければ人界には戻れないんだぞ 」

「 だから何だよ 」

ムッと表情を歪めてジェイは腕組みをする。

「 いいかジェイ。悪魔界ここにいる最上悪魔の下僕達が、お前が悪魔界にいると各々のあるじに伝えたとする。もし何人もの最上悪魔が人界の下僕達を引き連れて来たらどうなる 」

「 戦うしかないと思う 」

いや、そんな単純な問題では無い、とルトアミスは胸中で呟き、もう何度目かになる溜め息をついた。


見兼ねた下僕の一人が、頭を抱えるルトアミスに代わって口を開いた。

「 ルトアミス様が仰る最悪の状況になった時、もちろん我らはお前を守る。だがな、ずっと人界でルトアミス様の御傍おそばに仕えさせて頂き、お前をよく知っているのは、我ら五人のみ。悪魔界でルトアミス様の城の留守を預かる下僕達の中には、当然お前に反感を抱く者も出てくるだろう 」

「 まわりくどいな、だから何なんだよ 」

折角悪魔界に着いたのに足止めをくらい、少々苛ついた口調になってしまうジェイ。

だが、それでも下僕は根気よく続けた。

「 つまり、何人かの最上悪魔が悪魔界ここに来て、万が一お前が連れ去られた場合、お前は一生人界には戻れなくなる。… 多くの悪魔は、お前の身体が目当てだからな 」

「 体?」

ジェイが首を傾げた時。

「 分かった 」

ルトアミスが低い声で呟くように言った。

ジェイがルトアミスに目をやると、

「 人界へ戻るぞ 」

ルトアミスはキッパリとそう告げた。


「 え 」

ジェイは驚いて、大きく目を見開いた。

ルトアミスの言葉は続く。

「 お前を悪魔界に連れて来たのは間違いだった。お前の認識が甘いのもあるが、それ以上にお前に対する俺の認識が甘かった。悪魔界ここでお前の身に何かあれば、それこそ取り返しがつかない 」

「 え、ちょ、」

動揺するジェイの腕を、ルトアミスは強引に掴んだ。

「 戻るぞ。安易な気持ちで連れて来た俺がどうかしていた 」

「 え、やだ! 待てよ!」

ジェイは慌ててルトアミスの手を振り払い、一気に彼から距離を取った。

「 指輪嵌めとく! 外せなんて二度と言わないからさ! なっ!? ルト、お願い!」

「 … それでも認識が甘い 」

ルトアミスは冷めた目でジェイを見据えた。

「 ジェイ、お前は今の自分の立場を分かっていないだろう 」

「 どういうこと?」

きょとんと瞳を丸くするジェイに、ルトアミスは敢えて言葉を選んで言った。

「 お前は今、俺に能力を封じられ、腕力でも俺には勝てない。それに俺の気分次第では悪魔界から出ることも叶わない。お前は完全に俺に命を握られているということだ 」

するとジェイはルトアミスの予想に反し、ふふっと小さく微笑んで見せた。

「 うん、分かってる。…… 今の俺はルトのものだから、ちゃんとお前の言うことを聞く。それでも、ダメ ……?」

そう言ってルトアミスに伺いを立てるように、ジェイは首を傾げて見上げる。


┄┄┄┄ っ!!!


ルトアミスはジェイのその言葉とその仕草に完全にノックアウトされ、ばっとジェイに背中を見せた。

( ル、ルトアミス様 …… )

そんな主の気持ちが分かる下僕達は、複雑な笑みを浮かべる他無かった。

如何にジェイが悪魔界に於いて危険な状態であるかを教えようとしたのだが、ここまで可愛らしい言葉を口にするとは、もはや誰が見ても反則でしかなかった。


「 ありがとう、ルトアミス 」

少し遠慮がちにそう言ったジェイに、ルトアミスはチラ、とジェイに視線だけを遣った。

不覚にもルトアミスは今、僅かに赤面していた。ルトアミスにはその自覚があり、ジェイにそんな自分を見せたくはなかった。

ジェイはトアミスの状態に気付くことなく、続けた。

「 … お前はさ、悪魔を信用するなって教えてくれてるんだろ? 俺を人界に帰す気が無い可能性も考えろってことだよな。

…… でも俺、ルトがアナバスに侵入はいって来た時、一瞬でもお前を警戒したことを後悔したんだ。お前はいつも、俺のことを心配してくれる。一緒にいるお前自身が、お前にすら気を許すなって、いつも忠告してくれる 」

ジェイはそこで言葉を区切り、そっとルトアミスの様子を窺ってから、言った。

「 それ、逆効果だからな 」

「 … どういう意味だ 」

やっと平常心を取り戻したルトアミスは、正面からジェイを見た。

ジェイは俯き、

「 お前が忠告すればするほど、俺はどんどんお前を信用していく。最上悪魔ルトアミスを、全面的に信用していく。俺は心から、お前の優しさを受け止めてる 」

そう言ってから、ジェイはアハハと照れ隠しに笑った。

「 なんてな! でも、そーゆーことだから。だから、ルト。ちゃんとお前の言うこと聞くから、悪魔界を見てみたい 」



こいつは俺の意図を正確にみ取っている。さっきまでは駄々をこねていた癖に、本当にアンバランスな奴だ。だが、こいつには本当にかなわないな …… 。


ルトアミスはもう一度大きく溜め息をついた。


( 敵わないと思う程に、自分はジェイに惚れているのだと、再認識させられる )


ルトアミスはそう胸の内で呟き、ジェイを人界に帰す事は諦め、改めて悪魔界について説明を始めた。

悪魔界ここは、昼はずっとこの空模様だ。晴れの日も雨の日もな。だから悪魔界の住人は、大気や時間の移り具合を敏感に察知する事が出来る 」

ふーん、とジェイは赤黒い空を見つめた。

雲は白に近いが、空自体が濃い血の色に黒を混ぜた、複雑なものだ。

そして、その目線の先には真っ黒な城が静かにそびえ立っていた。

「 ルト、ルト! あれは? いかにもな不気味な城がある!」

「 あれは俺の城だ 」

ルトアミスはフッと微笑を浮かべた。

「 え、すっごい! なんか、昔からある古風な感じ! 城内とかどうなってんの? 文明の力とか使ってなさそう!」

かなりテンションが上がっているのか、ジェイの瞳はキラキラと輝いている。

「 ああ。恐らくお前の城とは規模も内部構造も違うだろう。俺の城は俺の能力で造り上げた迷路みたいなものだからな 」

「 マジ!? 連れてってくれるんだよな?」

「 ああ。俺はこのまま城へ行きたいが … 」

するとジェイはあからさまにびっくりした表情になり、ルトアミスに近寄った。

「 や、でもさ … 」

と、ジェイは真下の市場のような場所を指差して見せた。

「 あそこ行ってみたい! 悪魔達が買い物してるように見えるから、市場なんじゃねぇの?」

「 … お前ならそう言うと思っていた 」

「 やったっ! じゃあ、あそこ行こっ! …… あれ?」

ジェイは喜びながらもキョロキョロとし、また何かに目を止めたようだった。

民家が並び、そして市場を挟んだそのすぐ近くに、巨大な森を発見したからだ。

「 ルト、あれは …… ? あのデッカイ森。なんか … 森の樹々きぎ特有の生気があまり感じられないのは、悪魔界だから?」

するとルトアミスの表情は一変して険しくなった。


「 ジェイ、あの森にだけは近付くな 」

「 え?」

ジェイはルトアミスを見上げ、その表情に驚いた。至極真剣な面持ちを携えていたからだ。

「 あの森は、森全体が結界で覆われている。結界を張った奴の目星はついてはいるが、正確には誰が張ったものかも分からない。それに、何の目的であの森が存在しているのかは、全く分かっていない。とにかく謎だらけの森だ 」

「 え、でも、お前なら破れるんだろ?」

「 いや … 。昔、近くまで行ってみたが、俺では恐らく破れない。ファズと協力しても無理だろうと結論付けてからは、無闇に近付かないようにしている 」

「 え? ファズって …… なんで?」

「 奴の城の近くにも、同じ森があるからだ。過去に足を踏み入れた上級悪魔でさえ、未だに出て来ないと報告を受けている。だから、絶対に近付くな 」

「 … 分かった ……… 」

ジェイは一瞬眉をひそめたが、ふと、指輪に気を取られたようだった。

「 どうした 」

「 うん、なんかちょっと痛くなってきた 」

言いながら、能力封じの指輪をさする。

ルトアミスがジェイの左手を取って指輪に触れると、指輪はサァッと霧状になって消えた。

「 少しキツかったか?」

指輪の跡がうっすらと赤くなっていたが、ジェイはそれを自分で処置した。

「 最初はなんとも無かったけど、途中から少しずつジンジンしてきて。でも、もう治したから大丈夫!」

「 そうか。なら、もしまた痛くなるようなら言え 」

ルトアミスはそう言って、新たな指輪を造り出しジェイの指に嵌めた。

「 うん、ありがと!」

ジェイはルトアミスに笑顔を向けた。


「 早く下に行こうぜ! 夜には人界に戻った方が良いのかもだけどさ、折角連れて来て貰ったんだし、もう一日くらいこっちに居たいとも考えて迷ってるんだよな〜。確か明日もアイツら二人、仕事だったと思うし 」

その言葉に、ルトアミスは思い出したかのように口を開いた。

「 ジェイ、言うのを忘れていたが、悪魔界ここと人界とでは、時間軸の歪みがある 」

「 そうなんだ?」

「 今ここにいる俺達は、人界より約一日ほど過去に来ていることになる。人界を基準にするとな 」

考え込むように視線を上に向けるジェイに、

「 空の色からは分からないだろうが、今、悪魔界は夕方だ。つまり、今の悪魔界は、人界では " 昨日の夕方 " になる。例えば悪魔界ここで明日の朝まで滞在したとしたら、人界に戻ればお前は " 休日の朝 " を人界(むこう)で迎えることになる 」

ルトアミスがそう説明すると、ジェイの表情は更に明るくなった。

「 じゃあさ、俺、悪魔界で一泊出来るってこと!? それに、明日の夜までこっちに居ても、人界だと俺の休日の夜って意味だよな!?」

「 そういう事になるな 」

ルトアミスの返事に、ジェイはグッと右手の拳を握りしめた。

「 やった! じゃあ明日の夜に人界に帰るっ! ルトの城に泊めてくれるんだろ?」

その言葉にルトアミスは苦笑した。

「 馬鹿か。それ以外にどこで寝るんだ。ここは悪魔界だぞ 」

「 やったっ! なんかめっちゃラッキー! 悪魔界が人界の過去の時間だなんて!」

悪魔界での滞在時間が伸びたことに歓喜して、ジェイは更に空高く飛び上がり、くるりと一回転した。

「 よしっ、ルト、下に行こうぜっ 」

突然急降下しようとするジェイに驚き、ルトアミスは慌ててまた自分の元でジェイを受け止めた。

「 馬鹿か! 勝手に行動するな!」

「 なんだよ、さっきからバカバカって!」

ジェイはふくれっ面になり、ルトアミスの肩に担ぎ上げられた体勢のまま、彼の背中をポカポカと叩いた。



「 ライラ!!!」

家の扉を勝手知ったる手つきで開けて入って来た友達に、キッチンにいたライラとライラの母は振り返った。

「 チーちゃん、ナグちゃん、どうしたの?」

三人とも同じ八歳の男の子で、常に一緒に遊んでいる友達だ。

チーちゃんと呼ばれた子供の頭には三本の角が生えており、ナグちゃんは見た目は人と全く変わらない姿だ。

ライラとその母親は、豹柄の耳と尻尾が生えているが、手足やそれ以外は人と同じ形状である。


「 ライラ、ルトアミス様が餌をつれてそこの通りを歩いてるってよ!」

「 ルトアミス様ほどの悪魔がどんな餌を持ち帰ったのか、見に行こうぜ!もう市場の通り、見物人であふれかえってるって!」


「 まぁ …… 」

と、ライラの母親はあわれみとも取れる表情を浮かべて、ライラと目を見合わせた。

先程からやけに外が騒々しいとは思っていたが、まさかそんな理由だったとは。

面白がる友人たちとは違う感情を持って、ライラと母親を含む四人は、すぐ近くの市場通りに出た。


┄┄┄┄ だが。


その光景は、噂に聞くような光景とは全く異なるものだった。

集まった大人たちは驚いた表情を浮かべ、隣りの者と何かささやき合っており、ライラの耳にたまたま飛び込んで来た言葉は、

「 まさか、精霊じゃないよな?」

という、有り得ないものだった。

「 前に行こうぜ!」

ナグちゃん、ことナグクの言葉に、ライラたち三人は大人の足元ををくぐり抜け、通りの先頭に出ることに成功した。


「 へー! さすがルトアミス様だよなぁ。だけど餌があんなにキレイな生き物だったなんて、知らなかったよな! 」

最初に言葉を発したのは、チーちゃん、ことチータだった。

「 どんなふうに食べるのかな … 。てかさ、あの餌バカじゃね? たぶん自分がこれから食べられること、分かってなさそうだぜ?」

ルトアミスやその下僕に聞こえないようコソコソと話す二人を他所に、ライラはあんなにも綺麗な人が食べられてしまうのかと、衝撃を受けた。



「 なぁ、ルトアミス …… 」

ジェイは思い切り不機嫌な思いを、隣りを歩く彼の名を呼ぶことで訴えた。

「 仕方がないだろう。こうなることは最初から分かっていた。だから直接城に行きたかったんだが 」

「 なんだよそれ。大体、なんでこんなにも悪魔 … いや、もしかしてみんな魔物か? が集まってるわけ?」

すると、後ろに続く女下僕が口を開いた。

「 集まってる連中は、皆お前を見る為にここにいる 」

「 俺を見に? … あれ、下僕一人足りなくない?」

振り返って追加で新しい疑問を投げ掛けるジェイに、女下僕は小さく吹き出した。

悪魔界に来てから、どんな些細な事や疑問に思った事をすぐに口にするジェイが面白かったからだ。

「 一人は先に城へ行った。ルトアミス様の帰界きかいを知らせに 」

ふーん、と頷きながら、ジェイは人集だかりではなく、魔物集(だか)りで全く見えない市場を見ようと背伸びをしてみたりした。



魔物とは、基本的に悪魔界に住む、人や悪魔とはまた異なる種族だ。

食料は悪魔界の果物、野菜、獣類など、人の生活とほぼ変わらず、悪魔のように人肉を食べる習慣は全く無い。

ただ、魔物特有の能力として、稀に商売にけた者が一部おり、人界と闇のルートを持っている魔物もいる。悪魔界の代物を人界で高値で売りさばく、もしくは人界の代物との物々交換も行う。

魔物の中にはそれら数種類の、次元を無視して人界と悪魔界を繋ぐ穴を掘れる者がいることは、人界でもアナバス兵達には一般的に知られている。

だが、闇市の摘発はなかなかに難しい。

売買されているもののほとんどは人体に影響の無いものだが、稀に人間同士の争いの為に、特別な薬物や毒物を取り引きする者も少なからず存在はしている。


こういった闇市の摘発もイエロー・ナイトの管轄部署だが、実際にしっかり摘発出来た事例は、まだ数少ない。

だが、魔物の摘発に悪魔は一切絡んで来ない為、処理は簡単だ。

捕まえた魔物をリストに加え、一切の能力を奪い、悪魔界に送り帰すだけだ。つまり、悪魔界へ帰れるだけの最低限の能力だけを残し、他の能力は全て奪い去る。そうして送り帰した魔物は、二度と人界には来れなくなる。



キョロキョロと市場に興味津々な様子のジェイに、ルトアミスは小さく言った。

「 大人しく、悲愴な顔をしていろ 」

「 は?」

一瞬ルトアミスを見上げかけたジェイだが、ふと斜め前方に果物が見え、

「 なぁなぁ、悪魔界の果物、俺が食べられるやつある? あれば買って行こっ! 食べたいっ 」

ジェイは嬉しそうにグイグイとルトアミスの袖を引っ張った。

本来なら無邪気なジェイの表情と行為に願いを叶えてやりたいのだが、今は駄目だ。

" 悪魔が人を連れて歩いている " 事には、意味があるからだ。先にジェイにはそれを説明しておけば良かったと、ルトアミスは後悔した。


「 あ、あの … っ! ルトアミス様っ!!!」


突如、ジェイ達の背後から子供の声がした。

魔物の子供、ライラだった。


周囲は途端にシーンと静まり返り、緊迫した空気がピンと張り詰めた様子は、能力封じの指輪を嵌めたジェイにも充分に伝わった。

「 ラ、ライラ! ば、馬鹿ぁっ!」

ジェイがそちらへ目を遣ると、ライラと呼ばれた子供の友達であろう、は、見るにもあからさまに真っ青な顔色をしており、涙目になっていた。

冷淡な表情で振り返り子供を見下ろすルトアミスに、ジェイは今のこの場の空気はルトアミスに起因するものだと理解した。


ライラは、手に一本の可愛い野花を握り締めていた。三色の淡い色が、グラデーション状に渦巻いた花びらを持つ、人界では見たことの無いものだった。

ライラはルトアミスに連れられて行くジェイを一目見た途端、すぐに家に戻り、花瓶から一本を抜き取り、気付けば市場通りに飛び出てルトアミスに声を掛けていたのだった。


「 そのきれいな人を、食べないであげてください!」

ライラの目からボロボロと涙が溢れ落ちる様に、ジェイは驚き目を見張った。

小さな体を全身震わせて、

「 ルトアミス様ぁ、… どうか、その人を …… 」

ライラがもう一度口にした言葉を言い終わらないうちに起こった次の出来事に、周囲の魔物たちは息を飲んで身を凍らせた。


餌がライラに近寄ったかと思うと、両膝を着き、両手でライラの頬を包み込んで涙をぬぐってやっていたからだ。

「 大丈夫、食べられないよ 」

とても優しい、澄み渡るような綺麗な声に、ライラはジェイを真っ直ぐに見つめた。

そしてジェイの行動によって、ライラからはルトアミスが見えなくなった。

「 で、でも …… お兄ちゃんは知らないだけで … 」

「 大丈夫。大丈夫だよ 」

ジェイの微笑みに、周りの魔物たちはゴクリと唾を飲んだ。

それは、最上悪魔ルトアミスの恐怖を一瞬でも忘れさせるほどの、見たこともない佳麗な笑顔だったからだ。


が、やはりそれは一瞬に過ぎなかった。

ルトアミスが恐ろしい表情で、ゆっくりとライラに向かって一歩を踏み出したからだ。

ルトアミスの動きを背後でなんとなく察したジェイは、ライラが握り締める花に目を移した。

「 これ、悪魔界の花? 俺にくれるの?」

「 うん。どこにでも咲いてるけど、きれいなんだよ 」

「 だな、本当に綺麗。人界には無い花だよ 」

「 本当?」

「 うん、ほんと。ありがとう 」

ジェイが立ち上がるのと同時に、ライラの横に母親が駆け寄って、抱き締めた。

明らかに目線はジェイの後ろに向けられている。

「 どうか、どうか、お許しください! この子はまだ分かっていないんです!」

立ち上がったジェイは、 " 怖い顔 " をしているルトアミスを振り返り、そっと正面から彼に寄り添った。両手をルトアミスの腰にやんわりと回し、彼の肩にコツンと額を預ける。

その行動に、魔物たちは更にまた目を疑った。


( この餌は、悪魔を … 最上悪魔ルトアミス様を、恐れていないのか!?)


「 花を貰っただけだって 」

ジェイの穏やかな言葉に、ルトアミスは眉根を寄せてギリ、と歯を食いしばる。

「 俺はこの世界では、お前だけのもの。…… そうだろ?」

何の説明も受けていないのに、ジェイの口からそのような言葉が出てくることに、下僕達は驚いた。

ルトアミスは小さく舌打ちをし、マントを翻した。ジェイは内心ホッと息をつくと、背後で縮こまっているライラと母親に柔らかく微笑んだ。



「 ルトアミス様、お帰りなさいませ!」

ルトアミスが真っ黒な分厚い城門に手を触れると、それは外から内に、ギシギシと音を立てて開いた。

広間全体には真っ赤な絨毯が敷かれており、その奥にはどこかへ繋がる薄暗い階段と、その脇にも真っ暗な廊下が何本も身を潜めていた。


ルトアミスを出迎える二十人程の下僕達。しかし、これはまだほんの一部で、出迎える権利がなく城内で働いている下僕や、悪魔界に散っている下僕達の数は膨大にいるのだろうと、ジェイは悪魔界へ来てほぼ確信していた。

ここ最近になって、下僕の間にもある程度の階級があるのだろうと察しがついたからだ。それは今回、人界からはたった五人の下僕しかついて来ていないという事も大きな判断基準になっていた。


ジェイはチラ、とルトアミスの様子を盗み見た。先程の市場の件で、ルトアミスはかなり機嫌が悪いようだ。


「 ルトアミス様、久々のご帰界に、我ら皆とても嬉しく思っております! しかもこれほどの上質な餌をお持ち帰りとは、さすがルトアミス様。いかが料理致しましょう?」

ルトアミスの前にうやうやしく進み出て来た男の言葉に、ジェイは彼の怒りの矛先がその下僕に行くのではと危惧した。

「 こいつは餌じゃない。客として丁重にもてなせ 」

しかし、ルトアミスはジェイの予想に反してそれだけを言い放ち、

「 ジェイ、ついて来い 」

とすぐにその場を立ち去った。

「 … あ、うん 」

呆然と立ち尽くす下僕を後目(しりめ)に、ジェイは慌ててルトアミスの後を追った。



「 な、なんと申された!? 俺の聞き間違いか?」

一方、エントランスに取り残された下僕達は動揺を隠せなかった。

ルトアミスが悪魔界に餌を連れて来たこと自体が初めてな上に、餌ではなく客だと言う。一体何がどうなっているのか、全く分からなかった。

「 よう、ザギ。久しぶりだ 」

女下僕が近付いて来て、フフンとせせら笑う。

「 ハッ、人界組が調子に乗りやがって。ここは悪魔界だ、ルトアミス様の留守を預かっている我らが取り仕切らせてもらうぞ 」

すると、人界組と呼ばれたその場に居る四人は、満面の笑みを浮かべた。

「 もちろんだ。我ら五人、悪魔界こっちでは羽を伸ばす許可を頂いているからな 」

「 気を付けろよ、ザギ。一つだけ忠告しておいてやる。先程のルトアミス様のお言葉、絶対に守らねば、例え " 城預り " の側近頭そっきんがしらであるお前でも、確実に殺されるぞ 」

ザギはピクリと片眉を吊り上げた。

「 なんだと?」

「 少しでも株を上げたいのなら、あの人間にはラプシュアンドリンクを出すと良い 」

「 ふざけるなクリスティナ! そこまで俺を馬鹿にしたいか! あんな高価な果実を餌に与えるなど、俺を陥れようとするにも程がある!」

しかし、女下僕クリスティナと、現在その場にいる人界組三人は、至極真顔だった。

その表情を見て、ザギはそれが真実である事を悟った。そこへ、クリスティナは更に付け加えた。

「 これは人界での " 側近頭 " である、私からの最大限の助言だ。あの者に対する言動はともかく、出す食事や飲み物にだけは特に注意しろ。それと、ここに居る間は、ルトアミス様も我らも人肉は喰べない。だからあの者の前で人肉など決して出すな。それを踏まえて、あいつには人が食べられる食材で最高に美味い料理を出すよう、城内の者達にキツく伝えておくんだな 」



城の中をうねうねと曲がる廊下により、様々な方向に歩かされだジェイがやっと辿り着いた部屋は、まさに豪華絢爛な造りの、ルトアミスの大きな部屋だった。

柱は概ね白が基調だが、至る所に黄金が散りばめられ、壁は深い赤、正にルトアミスの瞳の色のようだ。

そして大小様々な絵画が飾られ、天井からは、ジェイが両手を広げても足りないほどの大きなシャンデリアが、火を灯(とも)されてキラキラと輝いている。

テーブルとソファーの下に敷かれたラグは、獣の毛皮なのだろう、触り心地がとても良い。

ベッドはジェイが使用しているものとさほど大きさは変わらないが、バルダカンベッドになっており、薄い半透明のレースが四方ごとに束ねられている。


ジェイの至ってシンプルな部屋の内装とは似ても似つかない、寧ろ天と地ほどの差があった。

「 これじゃ、どっちが王族か分かんないな!」

可笑しそうに表情を緩ませたが、ジェイは思い直してもう一度口を開いた。

「 そっか、お前とファズは悪魔界の王みたいなもんだもんな! けど、悪魔がこんな煌(きら)びやかな部屋で寝てるとか、なんか違和感があるんだけど。… あれ? でも、悪魔って眠らないのに、こんなゴージャスベッドがあるとか、しかもお前に全然似合ってないし!」

若干興奮しながらふふふっと笑うジェイに、ルトアミスは低い声で言った。

「 この部屋は、今日初めて使う 」

「 えっ!? マジ? なんで?」

( お前が安眠出来るようにだろうが )

心内こころうちでそう呟いたルトアミスは、

「 …… もう黙ってろ 」

とだけ言い、今は話す気分じゃないことを暗に示唆した。つもりだった。


が、目の端に、テーブルの上に置かれたジェイが魔物の子供から貰った一輪の野花が映った。


少しは収まりかけていたルトアミスの怒りが、再び湧き上がって行く。

「 … まだそんな花を持っていたのか 」

ルトアミスの静かな怒りの声に、ジェイはマズいと内心焦った。

まだ市場での出来事が彼を不機嫌にさせているのに、この花は隠しておくべきだったのだ。だがジェイには、あの可愛い魔物の子供が、小さな体を震わせ命を懸けてでも手渡してくれたこの花を、例えラグの上であろうとぞんざいに扱う事は出来なかった。

だから部屋に入ってすぐ、テーブルの片隅に置いていたのだ。


しかし焦りを含んだジェイの口からつい漏れた言葉は、ジェイ自身でも想定していなかったものだった。

「 一輪挿しの花瓶とか、ない?」

ジェイはつい、ライラに手渡されてからずっと考えていたことを、ルトアミス本人に口を滑らせていた。下僕に聞こうと思っていたのにと後悔したのも、既に後の祭りだった。


案の定、ルトアミスはジェイに対して初めて激しい怒りを見せた。

「 こんな雑草など、悪魔界ここらではどこにでも咲いている!」


ローテーブルを挟んで互いになんとなく向かい合って座っていた。

ルトアミスはソファーに、ジェイはソファーにもたれるようにして直接ラグの上に座っていた。

なので、目の前でルトアミスが花を荒々しく掴み一瞬にして炭化させ、勢いよく立ち上がりテーブルを思い切り蹴り上げ吹き飛ばしたことに、ジェイは言葉もなく瞠目した。

何がそこまで彼を怒らせているのかも分からなかった。


「 ルトアミス様、どうなさいました!?」

凄まじい物音に驚いた下僕達数人が部屋に駆け込んで来る。

そして固まったままルトアミスを見上げているジェイを一瞥いちべつし、

「 この餌がなにか失礼なことを、」

「 黙って出て行け! 貴様らを呼んだ覚えは無い!」

下僕の言葉を遮り、彼らをも殺し兼ねない形相を向けるルトアミスに、

「 も、申し訳ございません!!!」

下僕達は慌てて部屋を飛び出て行った。

そんな彼らと廊下ですれ違ったクリスティナとザギは、互いに顔を見合わせた。

「 何があったんだ?」

ルトアミス用の飲み物と、ジェイ用のラプシュアンドリンクの乗ったトレイを片手の上に浮かせ、ザギは逃げて行った下僕達にしばらく目を向けていた。

クリスティナは肩で小さく息をついた。

「 あの者が魔物の子供に警戒心なく、気安く接したことが原因だ。だがそれ以前にルトアミス様はきっと、魔物達にすらあいつを見せたくは無かっただろうからな 」

「 は? どういう意味だ?」

クリスティナはシッと人差し指を唇に持っていった。

「 とりあえず我らはしばらくここで待機だ 」

「 ? 何故だ 」

ザギの問いにクリスティナは答えなかった。

恐らく、これからあるじとジェイの喧嘩が始まる。人界では常にルトアミスに付かず離れずの距離を保ち控えている彼女であるからこそ分かる。それ故にジェイの気性もだいぶ把握していたクリスティナの予想は、すぐに的中した。


「 な … っにするんだよ! あれはあの子が俺にくれた悪魔界の花だ! お前にとっちゃ珍しくなくても、俺は初めて見た! お前に怯えながらも俺にくれた大切な花だ!」

するとルトアミスの表情が一段と険しくなり、ジェイは思わず息を飲んだ。

次の瞬間には、ジェイの片腕は乱暴に持ち上げられ、ラグの中央に引き摺り倒されていた。間髪入れずにルトアミスはジェイの両肩を本気で押さえつけ、上から鋭い光を携えた目で見下ろしていた。

「 お前は悪魔界ここにいる限り、俺のものだと、はっきり言ったな 」

今までに無く凄みの効いた低い声に少なからず圧倒されたジェイだったが、すぐにルトアミスの目を睨み上げた。

「 だったら、なんだってんだよ! だいたいそれとこれとは今、話が 」

「 だったら今すぐ俺だけのものになれ 」

「 はぁ? … っ、た!」

両肩をますます強く押さえつけられ、ジェイは思わず声を漏らした。ジェイより一回りほど大きなルトアミスの手は、肩から腕の付け根にかけて置かれた、力加減無しの本気の拘束をしていた。

抵抗しようにも、肘を少し曲げようとしただけで痛みが走る。

「 だいたいっ、何に怒ってんだよ!? それだけでも教えろよ!」

ジェイの言葉に、ルトアミスは小さく舌打ちをした。確かにこれは八つ当たりでしかない。だが、とにかく何もかもが腹立たしかったのだ。



悪魔達がたまに餌である人間を連れて、悪魔界に帰って来る事がある。

主食が人肉でない魔物たちは、闇商人以外は悪魔界を出ることは無いが、悪魔は違う。常に人界に居て人肉をむさぼり喰っている。

悪魔界に餌を連れて帰界する悪魔のほとんどは、中級悪魔から上級悪魔の下位に属する者だ。

餌に首輪、手枷足枷を嵌め、恐らくは次元の狭間での苦痛を味わった餌の、ボロボロの体を引き摺り連れ回す。

意図的に魔物が多く住まう地域をそのように練り歩き、自分が如何に強い存在かを魔物達に見せつけるのだ。その後、ねぐらでゆっくりその餌を喰べる。


魔物達にとっては、人を見る機会はそれ以外には無く、その為、多くの魔物が興味本位で集まって来る。

そして少なからず悪魔に恐れを抱く魔物達は、人という餌を生け捕りにし、生きたまま次元の狭間を越えさせた英雄的存在として、更にその悪魔に畏敬の念を抱くようになる。つまり、死んだ餌を連れ帰っても意味は無いという事になる。

魔物によっては、その悪魔に餌との付け合せの食事や野菜などを届けたりし、その悪魔からの庇護を受けようとする者も少なくはない。

それもあって、悪魔界ではこのような習慣が定着しているのだ。

そしてその噂は魔物達にすぐに伝わる。その時に目にした餌の状態や、餌を連れた悪魔の、餌に対する扱いなどが事細かに伝わって来る。


だからこそ、今回のルトアミスの帰界は、魔物達にとっては異例中の異例だったのだ。

何しろルトアミスは悪魔界に於いて、誰しもがその名と容姿を知る最上悪魔の中でも頂点に立つ存在だ。そのルトアミスが、今までに餌を持ち帰って来たことは無く、また、その必要も皆無である。

どのような魔物も悪魔も寄せ付けない、とても冷たい空気を身に纏(まと)っている、漆黒の恐ろしい悪魔。

ルトアミスや他の最上悪魔が帰界する事はあまり無いが、帰界すれば滞在は最低でも平均三日と短い。その間、少しでも彼らに気に入られようと、ある程度の能力を持った女悪魔が、彼らを慰めようと城を訪れる。

だが、弱い能力しか持たない悪魔や能力すら持たない魔物は、最上悪魔の城になどとても恐ろしくて近付けない。


ところが、その最上悪魔ルトアミスが、今回の帰界では餌を連れて " 歩いて " 城へと入って行った。

いつもなら上空からすぐに城内へ入るのだろう、数日経ってから、どうやらルトアミスが帰界しているらしいとの噂が回ってくる程度だ。

ルトアミス城の近くで生活を営む魔物達ですら、容姿こそ知ってはいるが、彼を実際に目にした事は皆無に等しかった。歳を重ねた魔物達のみが、一度二度と見たことがある、そんなレベルだったのだ。


悪魔界各地で見られる餌の持ち帰りは、魔物達の間では実はよく聞く話だ。一人の悪魔が偶に餌の持ち帰りをしても、悪魔の数は多い。魔物からすれば、一人一人の悪魔の偶も、塵も積もれば何とやらで、集まれば結構な頻度となるからだ。


だが、初めてルトアミスによる餌の持ち帰りは、他の悪魔のそれとは全く異なっていた。

餌は、何の拘束もされていない。

身体のどこにも傷一つ無い。

悪魔に捕らえたという怯えや恐怖などの悲壮感なども皆無だった。

どころか、偶にルトアミスに話し掛けて笑顔を見せている。そして物珍しげにキョロキョロと辺りを見回すその餌は、今まで魔物達の間に回ってきた事のない、 " 精霊 " と呼ばれる類に属する者ではないかとさえ噂されたのだ。

言葉では表現出来ないほど、とにかく美しい餌だったからだ。

最上悪魔ルトアミスともなれば、こんなにも美しい餌が手に入るのか。そして、次元の狭間による影響すらも皆無なのか。

それほどまでに餌は肌艶も良く、健康的だった。そんな美しい餌を連れ帰ったという噂など、魔物達はこれまで一度たりとて聞いた事は無かった。


子供がルトアミスに意見した時も、恐らく見ていた魔物達のほとんどの大人も、その子供と似たような感情を持ち合わせていたであろう。

そして何より一番驚いたのは、餌が、自らの意思で子供に接し声を掛け微笑んだ事だ。

そんな自由が、餌に許される筈もない。

現に、餌を連れて自慢気に歩く悪魔の中には、殺さない程度になら、餌に石などを投げる行為を魔物達に許す者もいるくらいだ。

それによって苦しむ餌を見て、更に食欲がそそるそうだ。


だが、魔物達の思い違いでなければ、餌は子供をルトアミスから庇った、ように見えた。

冷酷な筈のルトアミスが子供と母親にゆっくりと近付いた時、餌は子供との話を終えて立ち上がり、あろうことかルトアミスに抱きつくようにして何かをささやいたのだ。

本来なら子供と言えどルトアミスはすぐに命を奪っていただろう。恐らく、母親が飛び出して来る前に。

しかし、彼はそうしなかった。

表情こそ冷徹で子供を見下ろしてはいたが、餌の行動によって、何もせずその場を去ったようにも見えた。他の悪魔のように、わざとあの餌を見せつける為に歩いて来たとは、到底思えなかった。

寧ろ、魔物達にさえも餌を罵倒したり傷付けるような行為は一切許さないという、静かな圧が辺りに漂っていたように感じたのだ。

噂と異なるこのような体験は、歳を経た魔物ですら初めての事だという。



「 馬鹿共が餌を連れて帰界するたびに、魔物は集まって来る。中には餌を更に恐怖に陥れる為に、どのように喰らうのか餌の前で賭けをする連中もいる。餌にナイフや石を投げ付ける輩もいる。勿論それは餌を連れて来た馬鹿の許可がいるがな 」

「 そうなんだ …… あんなにたくさんの魔物が集まって来るだなんて思ってもみなかったから … それで市場で何が売られてるか見えなかったんだな …… 」

納得し心底残念そうに呟いてから、ハッとジェイは我に返った。


「 じゃなくて!!! 俺はなんでお前がそんな怒ってんのかって聞いてんだよ! てか、離せよ! マジで痛いんだって!」

押さえ込まれたルトアミスの手から逃れようと、何とか身体を動かそうとするジェイだが、彼の両手はビクともしない。更にこれ以上力を込められたり、逆に抵抗したりすれば、肩の骨が外れるか、最悪の場合には骨が砕けてしまうだろう。

はぁ …… 、と小さく溜め息をついて、ジェイは身体中の力を抜いた。

こてん、と後頭部をラグに下ろし完全に力を抜く。能力封じの指輪を嵌めている上、骨を砕かれた場合、自分では治癒すら出来ないからだ。


ルトアミスは出来るだけ怒りを抑えるよう努め、眼下の王子を見据えた。

「 お前が行きたいと言うから市場へ行った。だが、魔物達の反応は俺の予想を遥かに上回っていた。お前の美しさに、誰しもが息を飲んで見惚れていた。

お前を蔑む野次が飛ぶ事もなく、逆にお前を喰べるなと訴える子供ガキまで居やがった。俺の所有物に口を出すなど、到底考えられない事だった。この俺の威厳すらも損なわせるお前の魅力には感嘆するが、お前を連れていただけで、たかが魔物どもに随分と舐められる羽目になった 」

最上悪魔であるルトアミスに逆らう者など居ない。魔物であれば、ましてやそうだ。

だが、今回は違った。

いくら子供であろうと、ルトアミスは自分に意見したあの子供が許せなかったのだ。しかも、他の魔物達からもその子供と同じ感情が漂ってきていた。


「 なんだよそれ。馬っ鹿じゃねぇの!? それって単なるお前のプライドの問題だろ? 俺がお前の餌だから、お前の所有物だから、俺に勝手に近付いて声を掛けた子供にすら腹が立ったって事だよな!? 俺がお前の許可無しにあの子供に声を掛けた事も気に食わないんだろ!? ガキみたいに嫉妬なんかして、一方的に怒ってんじゃねぇよ!」

ジェイから言われた言葉に、ルトアミスは己の顳顬こめかみに血管が浮き上がるのを感じた。だがジェイの言葉は正に的を得て図星だと、ルトアミス自身も理解はしていた。

だが、だからこそ余計に腹が立ったのだ。


「 …… もう一度言ってみろ 」

「 言う気にもならねぇよ。事実、俺は今お前の所有物でしかないんだしな! 今だって力で勝てないお前にじ伏せられてんのに、まだ何か不満な事でもあんのかよ!?」

下から真っ直ぐな瞳を向けられて、ルトアミスはギリ、と歯を食いしばった。

「 だいたい、俺は力だけでだって大抵の奴らには劣ったりしない! けど、流石にお前に押さえつけられたら俺でも振り解けない。お前が何をどう不満に思って、何に怯えているのかは知らねぇけど、どっちみち俺はお前から逃げられないんだよ!」


┄┄┄┄ 怯えている。


そう告げたジェイの言葉に、ルトアミスは僅かに眉をひそめた。


( そうだ、これはただの嫉妬だ。そして怯えだ。ジェイがいつ、どこぞの誰かに取られるか分からない、未知への不安だ。

お前を誰の目にもさらしたくない。お前は俺のものだと誇示こじして回りたいのに、俺はまだお前の何をも手に入れていない。

お前が何の能力も持たないただの無力な餌だったなら、お前の全てを手に入れられたのに。…… だが、逆にお前が " アナバスの王子 " だったからこそ、俺はお前と出逢えて、今の関係に至る事が出来ている … )


ルトアミスは、自身のそのもどかしい気持ちに対しても腹を立てていた。

だからこそ、今回の出来事に対しての何もかもが気に食わなかったのだ。


「 ジェイ、お前は悪魔界ここでは俺だけのものだ。自らももう何度も口にした。ならば今すぐ本当に俺のものになって貰う 」

いつもの穏やかなルトアミスとは違う、どこか余裕の無い凄みのある口調でそう言われ、ジェイは目を大きく見開いた。

「 え? 本当に …… って、なに … 」

訳が分からず呟いたが、鋭いジェイの感覚は、明らかに悪魔としての彼からの恐怖では無く、それ以外の何か得体の知れない身の危険を感じ取っていた。


┄┄┄┄ 次の瞬間。


「 …っぐ、ぅ!」

突然の激痛に小さくうめき声を上げて、ルトアミスは壁の端まで蹴り飛ばされていた。脇腹を押さえながら受け身を取り、痛みを堪えて顔を上げれば、微かに肩で息を整えて立ち上がったジェイの視線と絡み合った。

ルトアミスはそこでようやく、ジェイに隙をつかれ本気で蹴り飛ばされた事を、改めて理解した。


…… くそ、完全に油断していた。

ルトアミスは舌打ちした。

ジェイが、俺から逃げる …… !

ここまで来て、ジェイを失うのか!?

焦燥感に駆られ、気付けばルトアミスは大声を上げていた。

「 ジェイ!!! お前は一生俺に守られていろ! 俺の側で、俺の目の届く場所にいつも居れば良い! とにかくずっと側に居て、俺から離れるな! 俺は何があっても絶対にお前を守り抜く!」

予想外のルトアミスの言葉に、ジェイだけでなく、少し離れた廊下で息を潜めていたザギも心底驚いた。


こんな言葉をルトアミスから言われようものなら、女ならば最高の幸せを手に入れた事になる。あるじから一生守ってやると言われたその瞬間から、人生は激変するだろう。

しかし、ザギの今までの経験からしても、主がそんな言葉を口にするような魅惑的な女は見た事が無かった。そして今後も主がその言葉を言うような、主に釣り合うような女など現れないだろうと確信していた。

主のお眼鏡にかなうような女などいない。

どの女も、主に釣り合うだけの " モノ " を持っていない。

だからこそ、信じられなかった。

主自身が目の前の餌を相手に、その心を繋ぎ止めようと声を荒げた事が。

そして、そんな言葉を主に言わせるこの餌は、恐らくただ美しいだけの餌では無い。

一体この人間は主とどのように関わり合いを持ち、どのようにして主の心を射止めたのかと、ザギはただ動揺を隠せなかった。


┄┄┄┄ しかし。


「 ふざけんな!!!」

少しの間を置いて、ジェイはルトアミスを睨み付けた。

「 なんで俺がお前に守られなきゃなんねぇんだよ! 俺を馬鹿にすんのも大概にしろ!」

それだけ言い放ち、ジェイは勢いよく部屋を飛び出した。


とりあえず今は、ルトアミスから遠ざかっておきたかった。彼のほんの僅かな隙を突いて蹴りを入れられたのも、奇跡としか言いようがない。再び取り押さえられれば、次こそ絶対に逃れられない。そして、強引に何かをされていた。何をされるかは、想像もつかないが。

何故こうなったのかは分からない。だが、ルトアミスの怒りが完全に収まるまでは距離を取っていた方が良いと、ジェイは直感的に判断した。


素早くクリスティナが動く。

「 私はあの者を追う。ザギはルトアミス様を 」

「 マジかよ …… 」


小さく呟いたザギだったが、そこは城預りの側近頭だ。何食わぬ顔をして、部屋の開かれた扉をノックした。

「 ルトアミス様、お飲み物をお持ちしました。あの者にはラプシュアンを持って参りましたが …… 、入ってもよろしいでしょうか?」

「 …… ああ 」

部屋に足を踏み入れると、ソファーに背を寄り掛け、片膝を立てて前髪を握り締めるルトアミスがいた。項垂れて落ち込んでいるようにも見えるルトアミスには、普段の威厳など無かった。

クリスティナのような人界組とは違い、常にルトアミスの傍に仕えてはいないザギではあるが、主のこのような落胆した様子を見たのは初めてだった。

トレイを持ったまま、驚きを隠せずに立ち尽くすザギに、

「 ふ、ラプシュアンを使ったか。クリスティナに助言でも受けたか 」

ザギを一切見ることなく、ルトアミスは力なく嘲笑した。

「 … 大丈夫ですか?」

ザギの口からは無意識のうちに、主を心配する言葉が出ていた。

「 …… ああ。余計な気遣いは無用だ 」

「 申し訳ございません 」

即座に頭を下げ、ザギはルトアミスによって蹴飛ばされたであろうローテーブルを宙に浮かせて戻し、テーブルクロスを敷いた。

そこへトレイから飲み物を取り、静かに置く。


「 …… つ、!」

突然発せられたルトアミスの呻き声に、ザギは驚いて主に目を向けた。

ルトアミスは体勢を少し変えようとしたらしいが、脇腹近くに片手を添え、そっと息を整えていた。

「 ルトアミス様!?」

声を掛けると、大丈夫だと言わんばかりに手で制される。

「 今更になって、蹴られた時よりも激しい傷みが来ただけだ。先程までは頭に血がのぼっていたから、感覚も鈍っていたのかもしれんな 」

「 え?」

肋骨ろっこつが一本折れていた。今、完治させたが 」

ルトアミスの言葉に、ザギは一瞬理解が追いつかなかった。

そういえば、とザギは必要な記憶だけを手繰たぐり寄せる。クリスティナと息を潜めていた時に聞こえていた争う声と物音。

今思えば、主とあの人間は喧嘩をしていたのだ。

ルトアミスが " 悪魔と餌 " という関係では無く、対等な立場でジェイと付き合っている事を、ザギはこの時初めて認識した。

だが、喧嘩を聞いている限りでは、恐らくあの人間は主に組み伏せられていたようだった。それが今、人間は部屋を飛び出し、主は肋骨が折れていると言った。

…… 蹴られた!? 蹴られただと!?

誰が? ルトアミス様が …… !? あの餌に!? それも、肋骨が折れる程に!?

だが確かに、ルトアミス様の手から逃れるには、それくらいの力を出さなければ、

「 ジェイがここから飛び出しただろう。すれ違ったか 」

ザギの思考はルトアミスの言葉によって遮られた。

「 あ、ええ。クリスティナがすぐに追いましたが …… 」

「 そうか 」

と、ルトアミスは安堵の息を漏らした。



「 待て! おい、待てジェッド・ホルクス!!! 」

背後からクリスティナに呼び止められ、ジェイは加速を緩めて足を止めた。

が、ハッとクリスティナは表情を一変させ、

「 そこは駄目だ! 早く私の所に戻れ!」

と、慌ててジェイに指示を出す。

彼女の切羽詰まった様子を見て取り、ジェイは訳が分からないまま、とりあえずクリスティナの元へ移動した。


明らかにホッと息をつき、クリスティナは言った。

「 この城はルトアミス様のお能力(ちから)によって様々な罠や空間の歪みを造り出している。私が城門まで先導するから、ついて来い 」

「 城門? 」

いきなり何を言い出すのか、とジェイは目を丸くした。何もそこまでルトアミスと距離を取ろうとしている訳ではない。

「 お前が声を掛けた魔物の子供が、先程からずっと彷徨うろついている 」

「 え? 」

「 とりあえず私の権限で手出しをするなと通達はしたが、必ずしも殺されないという確約は出来ない。それをお前に伝えに来た 」

ふーん、とジェイはうなずいたまま、じっと彼女を見つめた。

クリスティナはそんなジェイに思わず頬を染めた。


主がジェイに想いを寄せて以来ほとんど意識したことは無かったが、よくよく考えてみれば、ジェイは全星一の美貌を持つ王子だ。

彼女は下僕であり、表立って行動することは無く、こんな至近距離で改まってジェイを見るのは初めてだった。

背もクリスティナより高く、男としての魅力もある。ジェイに熱を上げる人間達は、単純にジェイの容姿だけのとりこになっているのだろうが、悪魔は違う。

特にクリスティナは先日ジェイの強さを目の当たりにしたからか、美貌だけではなく充分過ぎる程の男らしさも感じていた。


だが、ルトアミスの前で無防備に甘えるジェイを見ていると、とても可愛らしいと思ってしまうのも事実だ。

ルトアミスの襟元を軽く握り締め、彼に至近距離で話し掛けるジェイや、ルトアミスの胸元に頭を寄せて穏やかな表情で身を預けるジェイは、さながら恋人のように見える時もある。

ルトアミスがジェイよりも背が高く、胸の内にすっぽりと抱える事が出来るのも、そう見える要因の一つであろう。

だが、男としてのジェイに見つめられて動揺しない者はいないだろうと、クリスティナはこの時改めて思った。

現に今、正に自分がその状態なのだから。


「 な、なんだ? ジェッド・ホルクス … 」

ジェイの視線に、らしくも無く高鳴る動悸を抑え、クリスティナは問うた。

「 … あんたの権限で、とは?」

あぁ、そういう事か、とクリスティナは納得した。

「 私はルトアミス様の下僕の中で五人いる側近の、側近頭だ。人界で常にルトアミス様と行動を共にさせて頂いている 」

すると、ジェイはにっこりと笑った。

「 そっか、ありがとう。魔物の子を守ってくれて。… もしかして相手が誰であっても、この城に近付く奴は有無を言わさず殺されるとか、そういう感じなのか?」

クリスティナはジェイの笑顔に見惚(みと)れてしまうのを避ける為、高速で城内を移動し始めた。

「 ああ、その通りだ。我らは魔物にも低俗な悪魔にも容赦は無い。例え子供でも、この城に近付くだけで敵と見做みなし殺す 」

まぁ … 、場合によって女は別だがな。

とりあえず今はそれは口にせず、一旦クリスティナの胸中に留めておいた。

「 さすが、最上悪魔は怖いな 」

そんな事は微塵も思っていなさそうなジェイの呟きに、クリスティナは思わず苦笑した。



「 暗くなる頃には戻って来い。私が殺される 」

城門を出る前に、クリスティナはそう告げた。

アハハ、と腹を抱えて笑ったジェイは、

「 分かってるって! あんたが殺されることは無いだろうけど、なんか今は俺が離れてた方が、きっとあいつの機嫌が直りやすいと思うから 」

と、複雑な笑みを浮かべた。

「 ……… すまないな 」

気が付けば、クリスティナは無意識のうちにそう言葉を発していた。

ジェイは小さく首を傾げた。

「 いや、なんだかお前が、常にルトアミス様を気にかけてくれているように思えてな 」


( 今、我が主の機嫌が悪いのは、明らかにお前に向けられた魔物の好意に嫉妬をしているだけなのだから )


「 それは当たり前だから気にすんなよ。俺はルトにかなり良くして貰ってるんだし、これだけずっと一緒にいたら、ルトの性格だって分かるし 」

「 それなら何故、」

咄嗟に疑問を投げかけようとして、クリスティナは慌てて口を閉じた。

「 え、なに?」

目を丸くしたジェイに、クリスティナは隠すように笑った。

「 いや、なんでもない。とりあえず、あまり遅くなるなよ 」

「 分かった、ありがと 」

クリスティナの能力で城門を開いて貰い、ジェイは外へ出て行った。


その背中に、クリスティナは小さく呟いた。

「 それなら何故 … 、お前はルトアミス様のお気持ちに気付かないんだ …… 」




ライラは1人、ルトアミスの城の門の近くを行ったり来たりしていた。

どうしても、ジェイの事が心配で心配でたまらなかった。

初めて人間を見たが、あんなにも美しい生き物だったなんて。それに、とても優しい瞳をしていた。魔物なんて初めて見たであろうに、笑顔で自ら近寄ってきて声を掛けてくれたのだ。

悪魔が人間を食べる事は当たり前だが、あんなにも美しい生き物を食べるだなんて、ライラには全く理解出来なかった。



悪魔の住処すみかには決して近付くなと、母親から強く言われて育ってきた。悪魔の強さに関係なく、少しでも悪魔に近付くような事があれば、何に利用され、殺され喰われるか分からないからだ。

悪魔界にいる悪魔は、魔物の子供を喰べることも多い。能力が弱く人界に行けなかったり、人界に行っても下級悪魔同士の縄張り争いや、人界の悪魔討伐兵に殺される危険がある。それならば悪魔界でずっと暮らし、闇市の魔物を頼り人肉を仕入れたり、魔物の子供の柔らかい肉を食べている方が余程マシだからだ。

また、たまに人界から帰ってくる悪魔は警戒心が強く、偶然近くを通り過ぎただけでも殺される場合がある。

悪魔界に城を構える最上悪魔だけがほとんど帰界はしないが、何かの拍子に鉢合わせ、機嫌が悪いとやはり殺される。だがそれでも他の悪魔に比べれば、能力の弱い悪魔や魔物には一切興味を示す事は無い。

だが、城に近付いたりその時の気分によって生命を奪われるのだから、魔物は結局全ての悪魔に怯えながら生活していると言っても過言では無い。



ライラは、引き止める母親を振り切って、ここへ来ていた。友達二人は、当然ながらに怯えて、それでも途中まではついて来てくれたものの、ルトアミスの黒い城が近くなるにつれ、逃げ帰ってしまった。

「 ライラ!」

ハァハァと息切れをしながらも、母親が追いついてきた。ライラの両腕をぎゅっと掴み、それから大切な存在を離さないとばかりに背中に両手を回された。

「 ライラ、帰りましょう 」

「 お母さん、でも、僕は …… 」

「 駄目よライラ。お母さんはあなたを失う訳にはいかないの! … お父さんに怒られてしまうわ 」

ライラの父親は、まだライラが幼い時に悪魔に殺されてしまった。腹を空かせた低俗な悪魔達に。


その所為せいもあってか、ライラと母親は、何処かで悪魔が餌を連れ帰って来たと耳にする度に、心を痛めた。

その点、他の魔物達は悪魔への恐怖心よりも好奇心が勝り、餌を見に行くと共にその悪魔をたたえるのだ。少しでもその悪魔に顔を覚えてもらい、殺されないように。もちろんそれは悪魔からしてみれば無意味な行動なのだが、魔物達も生きて行く為にそれほど必死なのだ。



ギ、ギギ … と重厚な金属がゆっくりと開く音が聞こえ、ライラの母親は咄嗟にライラに覆いかぶさり少しでも身を小さく屈(かが)めた。

しかし、周囲に群生している草はどの種も短いものばかりであり、それらを避けながらも、城から出て来たと思われる足音は、真っ直ぐにライラ達に向かってくる。

もちろんこの足音の主はジェイなのだが、本来のジェイなら敵地や戦闘時では一切足音を立てない。今はライラとその母親に対して、いきなり声を掛けて驚かさないようにする為の配慮だった。


「 おいおいおい、一体どうなってんだこりゃあ …… 」

ジェイから僅か十メートルの上空に、二人の低俗悪魔がいた。

" 低俗悪魔 " とは、ジェイが悪魔界に来てすぐに自分の心内で勝手に命名した悪魔達の事で、人界にすら来ることが出来ない下級悪魔以下の悪魔達のことを指す。


「 あのルトアミスが餌を連れて来たって聞いて様子を見に来てみりゃ …… 喰いもんに丁度いい魔物の子供ガキがいて …… 更に城から餌が出て来やがったぜ!」

「 すっげー高級な餌じゃねぇか! すぐに喰うには惜しいな!」

「 餌のくせに、普通に悪魔界に溶け込んでるじゃねぇか。これから喰われるってのに、喪失感や絶望感がこの餌の表情からは窺えないぜ?」

「 ルトアミスから何も知らされてないのかもしれねーけど、人である事自体が悪魔の餌だとも知らない、低脳馬鹿なのかもな?」

二人してガハハハと笑う。


聞こえてんだよ …

ジェイはヒクりと口端を上げた。

いくら能力封じの指輪を嵌めていようが、悪魔界にいる低俗悪魔たちの弱い気配などすぐに感じ取れる。そして当然ながら魔物たちの気配は全て感じ取れている。


ジェイはその低俗悪魔二人の会話に、何故だか自分をあざけられた以外の別の怒りが込み上げた事に気付いた。

だがその怒りが何処から来ているのかは、ジェイ自身も分からない。

そしてその時、もう一つの微かな気配があることに、偶然ではあったが気付いた。



ジェイはガクガクと震える魔物の親子の元に、そっと両膝を着いた。

「 こんな危ない所に来たら駄目ですよ 」

穏やかなジェイの声に、母親はハッと顔を上げ、ライラは途端にジェイの腕の中へ飛び込んだ。

「 お兄ちゃんっ!?」

そして、すぐに顔を上げて、

「 まだ喰べられてなかったんだね! 良かったぁ!」

直球の言葉を投げかけ、両目に涙をにじませている。

ジェイは苦笑しながらも、ライラの頭をそっと撫でた。

「 俺を心配して来てくれたんだって? ありがとう 」

「 うん! それに、ルトアミス様にお兄ちゃんを喰べないでって、もう一度おねがいしたくて!」

そう意気込むライラの額を、ジェイはコツンと人差し指で弾いた。

「 こら。ルトアミスは最上悪魔だぞ? そこらに居る低俗な悪魔よりは話が通じるけど、自分が連れて来た俺をどうするかは、あいつが決めることだ。口を出したら、確実に殺されるぞ? 」

「 そ、そんなぁ … 」

「 俺は大丈夫だから、もうルトアミスに近付いたらダメだからな?」

ジェイの言葉に堪えられなくなったのか、ライラはボロボロと涙を流し始めた。

ジェイは、ポンポンと背中を軽く叩いてやりながら、言葉を失って固まっている母親に声を掛けた。

「 初めまして。ジェイと言います 」

とても柔らかな笑顔と雰囲気をまとっているジェイに挨拶をされて、彼女はようやく状況を理解したようだった。


ライラの母親は改めて戸惑っていた。

ジェイが今まで噂に聞いてきた " 人界から持ち帰った餌 " とは、程遠く掛け離れていることに。

本来なら、ライラは市場通りでジェイに駆け寄った時点で殺されていたはずだ。だが、そうならなかったのは、ジェイが居たからではないのか。

そして、ルトアミスが近付こうと歩を進めた時も、ルトアミスの元に寄り彼の怒りを収めてくれたのではないだろうか。

餌を拘束する事もなく、痛めつけることもなく、むしろ思うがままに歩かせていた。ライラが餌に駆け寄った事を許した、餌がそれに受け答えした事も許した。今までの多くの噂話ですら、そのような事例は一切聞いたことが無い。

そしてジェイが今、ライラへと言った言葉。


ルトアミスを呼び捨てにしていた。

悪魔に関する知識が深そうなこと。

そして、どこかルトアミスの名を親しみを込めて呼んでいるような口調。


ライラの母親は、そう受け止めていた。


「 あっ、私はアイラと申します。市場通りでは、もしやこの子を守って下さったのでは …… ?」

「 え? どういう意味ですか?」

ジェイはきょとんと目を丸くして、逆に聞き返す。すると母親アイラは、慌てて恥ずかしそうに笑った。

「 いえ、なんでもないんです 」

( そうね、勘違いかもしれない。喰べられてしまう人に、そんな余裕は無いもの。知らされていないだけなのかもしれないけれど … )

そう思い直してから、アイラはまた気付く。

( では、今は? いくらなんでも、何故勝手に出て来れたのかしら?)

「 あの、お城から出て来られたのは、何かご用事でも …… ?」

再度尋ねると、ジェイから返ってきた答えに、魔物親子は驚きを隠せなかった。

「 ルトアミスが教えてくれたんです。市場通りで花をくれた子が、俺の身を案じて城の前に来ていると 」

「 え!?」

「 だからもう一度、俺を喰べる為に悪魔界に連れて来たのでは無いことを伝えて来いと、送り出してくれました 」

ジェイの微笑みに、アイラもライラも驚きのあまり言葉を失った。


ただそれだけの為に、最上悪魔が人を外に出すなんて、とアイラは思った。

でも、きっとどこかに見張りの下僕悪魔が居るのだろうと彼女は推測した。


「 暗くなるまでには帰らないといけないのですが、それまでご自宅にお邪魔させて頂いても良いですか?」

ジェイはライラを立ち上がらせ服に付いた土を払ってやり、自分も立ち上がりながら膝下を払いつつ、アイラにそう尋ねてみた。

折角の機会に、悪魔界で穏やかに暮らす魔物の生活に触れてみたかったのだ。

「 えっ!?」

明らかに狼狽ろうばいするアイラに、

「 やっぱり、ご迷惑でしょうか … ?」

ジェイは少しがっかりした。

「 いえ、そういう訳ではないのですが …… ルトアミス様がどう思われるか ……… 」

アイラの尻すぼみになる言葉に、ジェイは、ああ、と察した。


この母親は鋭い。

やはり、市場通りで見せたルトアミスの激昴げきこうが、自分に話し掛けたライラへの嫉妬から来るものだと、僅かながらに気付いている。

いや、寧ろその場に居た魔物全員が気付いていたのかもしれない。ルトアミスが連れて来た自分は、悪魔界ではルトアミスの所有物、つまり餌であり、誰にも手出しをされたくなかったのだろう。

まさか子供に話し掛けられただけであんなに怒るとは、全くの予想外だったが。


ジェイはアイラに再び笑顔を向けた。

「 大丈夫です。暗くなるまでに戻れば、何処へ行って来ても良いとルトアミスから許可を貰っているので 」



ルトアミスが教えてくれた通り、夕方だというのに赤黒い空の色は変わらない。だが、夜になると真っ暗になるというのが嘘のように、現在は全く変化は見られなかった。


( 急に暗くなるのか? だとしたらびっくりだけど … まぁ、タイミングはアイラさんかライラに教えて貰えば良いか … )


ジェイはライラと手を繋ぎ、嬉しそうにいろいろな話をしてくる言葉ににこにこと相槌をうちながらも、後ろからずっとついてくる低俗悪魔を鬱陶しく思っていた。

きっと普段はライラの村は平穏なのだろう。近くにルトアミスの城があるからか、低俗悪魔が魔物の子供を襲ったことは無いのだろう。それは、ジェイを見に来ていた魔物達から、ルトアミスに対する畏怖こそ感じはすれど、日々の暮らしで不安を感じている様子は見られなかったからだ。


だが、今は違う。

ジェイという人間が無防備に歩いていることで、馬鹿な悪魔は襲って来るかもしれない。ジェイにとってそれは構わないのだが、魔物親子の前で彼らを殺す行為は見せたくなかった。

ルトアミスの城を離れてだいぶ経つ。そろそろ低俗悪魔は襲って来るだろう。案の定、空中では、低俗悪魔達がそのような会話をしている。

ジェイは魔物親子に悟られないよう、小さく溜め息をついた。そして、

「 もうかなり城から離れましたね 」

ジェイはそう言いながら後ろを振り返り、斜め遥か上空に自然と視線を遣った。ジェイ達から十メートルほどしか離れていない低俗悪魔とは違う、もう一つうっすらと感じていた、かなり上空の気配に向けてだ。


┄┄┄┄ この馬鹿共を殺せ。

魔物親子に気付かれないよう。俺はこの親子の前で殺る気は無い ┄┄┄┄


上空から見守っていた人界組側近のグァバは驚愕きょうがくした。

ごく自然に穏やかな視線を自分に向けて来たジェイにもそうだが、同時に、その表情とは相反する言葉が頭の中に直接響いたからだ。

それは明らかにジェイの声であり、グァバはその無感情で低い声におののいた。

ジェイにはルトアミスの能力封じの指輪が嵌められており、今はテレパシーなど使える筈がない。だが、明らかにジェイはその思念を送り込んできたのだ。

ジェイはグァバの反応を見て、確実に自分の意思が伝わったと感じ取ったのか、すぐに目を逸らしライラに笑いかける。

グァバはごくりと生唾を飲んだ。

つい先日、上級悪魔スナイパーと交戦した時と今のジェイ、そして主の前で見せる警戒心の無いジェイは、まるで別人のようだ。

とりあえずグァバはジェイの言葉に従い、ジェイについて来ていた低俗悪魔を一瞬にして自分の結界内に閉じ込め、その体を長剣で細かく切り刻んだ。

低俗悪魔達は、自分の身に何が起きたのかも分からないまま、絶命した。



ライラの家の外観は、人界ではまず見ることの出来ない、ぐにゃぐにゃと様々な方向にじ曲がった家だった。

家と言うよりも、まるで細長い塔のようで、ところどころに丸い出窓が突き出している。

素材は聞いてもよく分からないだろうから、ジェイは敢えて聞かなかったが、手触りは飴を少しばかり柔らかくしたようなもので、それでいて外壁に若干掌に力を込めてみれば、逆に弾力があり押し戻された。

中に入ると、ライラの友人と思われる二人の魔物の子供が居た。一緒に帰って来たジェイを見て、大きな目を見開いて硬直している。

市場通りでジェイに近付いたライラを、潤んだ目で止めようと声を上げていた子供達だと、ジェイはすぐに思い出した。

「 こんにちは 」

ジェイは二人の前にかがんでその子らに挨拶をしてから、家の天井までを見上げた。

ぐにゃぐにゃと曲がった箇所に小さな部屋と出窓がある。そうか、出窓の場所が部屋だったんだなとジェイは納得する。

その部屋に行き着くまでには梯子はしごがかけてあったが、どうも使用感がほとんど無い。

そして今入って来た場所にはキッチンとテーブルがあり、恐らくここで食事を取り、就寝は上の幾つかある部屋の何処かで取るのだろう。


魔物達の村に着いた時、ジェイはたくさん立ち並ぶ家々を見渡した。家を造っている素材は同じように見えたが、どの家の形も奇妙で、同じ形のものは一つとして無かった。

魔物は、人とは違って姿形がバラバラである。

ライラとアイラには耳と尻尾があり、ひょうのように、ある程度の高さまでの木々になら飛び移れそうだ。

友人だろう一人には鬼のような角が、もう一人は人と変わらぬ姿だ。つまり、魔物の個々の特徴によって、家の形や内部構造が違うのだろうと、ジェイは結論付けた。



人界では魔物の情報はほとんど得られていない。たまに見かけるのは、薄暗い路地で何か品物を売っている魔物だ。

俗に " 闇市の魔物 " と総称されており、彼らが売る中で一つだけ突出して有名なものが、魔石と呼ばれる原石だ。


魔石は悪魔界でしか採れない宝石であり、悪魔界に於いても希少なものであるらしい。それ故、原石のまま売っているか、不純物が混じっていてもアクセサリーに加工されたもの、この二種類が売られている。逆に、不純物の混じっていない魔石は見たことがない。

それでも人界の様々な星の王族達が、大金を払ってでもこぞって手に入れたがる代物である。

だが、魔物はアナバス警備兵に見つかれば、すぐに悪魔界に逃げ帰ってしまう。

特に人に害を及ぼす訳ではないので、アナバス兵達も魔物より悪魔被害の巡回を優先するよう、イエロー・ナイトから指示を受けている。


( 面白いな )


ジェイは純粋な好奇心でそう思った。

貴重な魔物たちの生態が分かっただけでも、ジェイにとっては充分、悪魔界に連れて来て貰った甲斐があった。

もちろん最初からそんな事を目的として悪魔界に来た訳では無い。

だから自分だけが持つ情報として、胸に収めておけばいい。悪魔が人を悪魔界に連れて来る事も含めて。

そうジェイは思った。


「 どうぞ、お掛けくださいね 」

アイラに勧められてジェイは手近な椅子に腰掛けたが、その材質もこの家の外壁と似たような素材で、硬過ぎず柔らか過ぎず、座り心地の良いものであった。

「 何か飲み物をと思ったのですが、何を差し上げれば良いのか …… 」

困惑するアイラに、ジェイは、

「 お構いなく。人が口に出来るものは限られていると思うので … でも、ありがとうございます 」

と断る他無かった。

実際は少し喉が乾いていたのだが、こればかりはルトアミスの城で出して貰うものしか口に出来ないと、ジェイ自身も分かっていた。


「 ねぇねぇお兄ちゃん! ルトアミス様に喰べられないって、ほんと? ルトアミス様を信じてもいいの?」

ジェイの座るすぐ横のテーブルに立って、ライラはまだ不安そうにジェイの顔を覗き込んでくる。

ジェイはテーブルに両手を置いて組み、その上に顔を乗せてライラの目線と合わせた。

「 大丈夫だよ。あいつは悪魔界を見せるために俺を連れて来てくれただけだから 」

すると、少し遠巻きにジェイを見ていたチータが、

「 そんなのウソだね!」

とジェイの言葉を跳ね除けた。

「 そうだぜ、あんたルトアミス様の恐ろしさを分かってないんだ!」

ナグクもそう言ってチータに賛同する。

「 やっぱり、ルトアミスは魔物から見ても恐ろしい存在なんだ?」

ジェイが尋ねると、ナグクもジェイに近寄って来て、ライラの隣りに並ぶ。

そして、半ば自慢げに答えた。

「 あったりまえだろぉ〜!? ルトアミス様はな、怖いけど、強さのしょーちょーなんだからなっ!」

「 そっか 」

ジェイは何故か自分が褒められたような嬉しい気持ちになり、目を細めて笑顔で相槌を打った。

「 お兄ちゃん、ナグちゃんはね、しょうらい、ルトアミス様のしもべになるのが夢なんだよ!」

ライラの言葉に、ナグクは嬉しそうにふんぞり返った。

「 オレは父ちゃんが悪魔で、母ちゃんが魔物なんだぜ! 父ちゃんが言うには、オレは悪魔の血をついでるって!」

「 へぇ、そーゆー組み合わせもあるんだ? そっかー、じゃあ、将来が楽しみだな。今からいっぱい訓練しなきゃな!」

ナグクはジェイの言葉に気を良くしたのか、

「 オレの名前はナグクってゆーんだ! お前は人間だけど、特別にナグクって呼ぶのをゆるしてやるぜ!」

「 あはは、ありがとうナグク 」

すると、ナグクとライラの間を割って、チータもテーブルに必死でしがみついて来た。

「 オレはチータだ! あんた、名前は?」

「 俺はジェイ。呼び捨てで構わないから 」

ジェイが言うと、ナグクもチータも、両腕を胸の前で組んで、プィッと顔を背けた。

「 あったりまえだろっ! 人間なんてただ喰われて終わりの弱い餌なんだからな!」

子供二人から罵られたが、人とは魔物からも " 餌 " としての概念でしか捉えられていない事を、はっきりとジェイは認識した。

「 お兄ちゃん、ボクもジェイって呼んでもいい?」

控え目なライラの言葉に、ジェイはもちろん、と答えて頭に手をやった。

「 確か、ライラだったよな?」

「 うんっ!」

名前を呼んでやるとライラは嬉しそうに笑った。


その後、ライラ達に手を引かれて市場に連れて行ってもらい、ナグクとチータが、ジェイが質問する品物について得意気に説明をしてくれた。そんなジェイの姿を再び見ることになった魔物たちの表情は、もはや驚きの色が隠せていなかった。


子供たちとたわむれていた為か、気付いた時には辺りは真っ暗になっていた。

「 そろそろ帰るよ 」

ジェイがそう言うと、あからさまにライラの表情が曇った。

「 ジェイ … 、危なくなったら、逃げてきて!」

そう言うライラに、ナグクとチータが、

「 無茶言うなって、無理だろ 」

「 ルトアミス様だぜ? ジェイみたいな弱っちい人間が逃げれるかよ!」

と、ジェイ本人を目の前にして言うものだから、ジェイは可笑しくて思わずアハハと笑った。

( 子供が良い意味でも悪い意味でも純粋なのは、人も魔物も変わらないな )

予想外にも餌本人であるジェイが笑った事で、ライラは目を丸くし、ナグクとチータは半ば呆れたような表情をしていた。当然、ジェイは食べられると思っているからだろう。

だが、ジェイはライラを不安にさせてはいけないと思い、目の高さが同じようになるようにしゃがみ込んだ。

「 ライラ、俺は明日の夜には人界に帰るんだ。だから、ルトアミスを説得出来たら、帰る前にライラの家に寄るよ 」

その言葉に、三人の子供たちは息を飲み、理解した。

ジェイは明日の夜に喰べられるんだ、と。


┄┄┄┄ しかし。


立ち上がったジェイが突然、

「 すまない、ちょっと遅くなった。待たせたな 」

そう口にすると、ジェイの背後に側近グァバが音も無く姿を現した。

ライラ達はギョッとして思わず三人で互いの腕にしがみつき、しかしそれでも体の震えは止まらない様子を見せた。

「 いや、まだ大丈夫だろ。日が暮れて間もない 」

ライラ達には全く興味を示さず、グァバは穏やかな口調でそう答えた。

「 そうか。市場に夢中になってたから、いつ暗くなったのか気付かなかったから 」

ライラ達は、ルトアミスの下僕と普通に言葉を交わすジェイを不思議に思いながらも、目の前に急に現れた下僕が怖くて仕方がなかった。

夕方の市場通りでルトアミスと下僕達を見た以外は、こんなにも間近で最上悪魔の下僕を見たことは無かった。

普段からよく見かける悪魔などが足元にも及ばない、桁外れの強さを持つ悪魔だ。ライラ達には一切興味を示さない。

ジェイは怯える三人に視線を落として、

「 じゃあな。今日はありがとう 」

と、にっこりと微笑んだ。

普通に徒歩で、下僕と肩を並べて歩き出すジェイの後ろ姿に、三人とも、ただただ訳が分からず顔を見合わせた。



「 お前は恐ろしいヤツだ 」

ポツリと呟くように言った側近グァバに、ジェイは彼に目を遣った。

「 そして人使いも荒い 」

続けられた言葉に、ジェイはアハハと軽く笑った。心当たりは一つしか無い。

「 仕方ないだろ? あんな可愛い魔物の前で悪魔を殺すなんてしてみろ、怖がらせるだけだ。あんたが居てくれて助かった、ありがとう 」

「 俺の名はグァバだ。こっそり守っているつもりが、まさかバレていたとはな、びっくりだわ 」

「 あー、それは偶然。低俗悪魔の斜め上空に姿を消さずにいたからさ、たまたま気付いただけで。人界でだって、どの最上悪魔の下僕の気配もあまり感じ取れないんだから、今なんかこの指輪があるから、ほんとマジでまぐれ 」

そう言いながら、ジェイはルトアミスに嵌められた指輪をまじまじと見つめ、そっと反対側の指でそれをさすった。

自身の能力を封じる為に嵌められたものを、とても大事なものを扱うようなその仕草と共に、 グァバには、心做こころなしかジェイの瞳が柔らかく微笑んでいるように思えた。


それにしても、とグァバは言った。

「 帰城する時に、何故姿を現して付き添えと、念を飛ばして来た? 」

実はジェイは、自分がライラたちと市場に居る時にもずっと、上空でグァバが待機している事に気付いていた。

最初に気付いた時とは違い、市場に居る時のグァバは姿を消していたが、ジェイには直感で彼が居ると分かっていた。


人界組の側近は、悪魔界こちらでは特に " 仕事 " は無いと話していた。そのグァバが近くにいるという事は、ルトアミスの命令ではなく、恐らくクリスティナたちの判断で、ジェイに万が一トラブルが起きないよう守護に就いてくれているのだと理解した。ましてや、能力封じを着けているのだから、尚更だ。

「 ルトの城に戻る時、敢えてお前 … ガバと戻った方が、低俗・下級悪魔たちに見せつけられるだろうと思って。本当に俺が餌で、逃げないように側近が見張っていると思わせた方が良いんだろ?」

現に、ライラたちと市場に出てからは、低俗悪魔や下級悪魔が数十人、ジェイを見ていた。

ただ、グァバが姿を現した時点で逃げて行ったが。

「 ガバじゃない、グァバだ。なるほどな、そういう意図があったか 」

「 まぁ … 、もう今は一人もいないけど、所詮ヤツらは低俗。ガバがいたらまず近寄って来ないし、俺たちがこうやって話している内容も聞こえないしな 」

「 なるほどな 」

ジェッド・ホルクスは、自分に寄ってくる悪魔どもを、主の餌だと見せしめる為に俺を使って牽制したということか … 。

「 そう言えばさ、」

とジェイは違う話題を振った。

「 悪魔界に来た時、ルトは空から城に行くとか言ってたけど、やっぱ地上の城門以外に、出入口があるわけ?」

真っ黒な城だけにパッと見では分からないが、近付いてよく見れば、城の至る所に洞穴のようなものがある。

ジェイはその存在に気付いていた。


「 そうだ。我らが城のどこからでも出入り出来るようになっている。最も、我らにしか通り抜けられないシールドが張られてある 」

ふーん、とジェイは頷いて、目の前に迫った城の上空を指差す。

「 じゃあ、いっぱい開いてる洞窟みたいなとこが、全部その出入口ってわけ?」

「 そうだ 」

いくらシールドを張っているとは言え、結構隙だらけなんだな、とジェイは思った。

「 シールドって言うからには、人界の隠家アジトみたいに、ルトアミスが結界を張ってるものじゃないみたいだな 」

「 ああ。ルトアミス様はほとんど人界にられるしな。このシールドは、悪魔界の城預りの側近五人と人界組側近五人にしか解けない暗号で張った、能力を伴わない機械的なシールドだ。つまり、側近の意思で何処の出入口を開閉するかを決められるし、他の下僕達は我らが解放している出入口を自由に通過出来る 」

グァバの説明を受け、ジェイは本当に自分の城とは造りが全然違うなと、改めて感心した。



城に入るとすぐに、クリスティナが出迎えてくれた。

「 ルトは? 怒りは収まった?」

ジェイは真っ先に尋ねた。

クリスティナは少し複雑な表情をしたが、

「 ルトアミス様はお出掛けになられた。お前が城を出てからすぐに 」

と、答えた。

「 え …… 」

明らかにショックを受けて眉を寄せたジェイの横から、

「 どちらに?」

とグァバが続けて尋ねる。

「 " ザザンの崖 " だ 」

グァバは驚いて目を丸くした。

「 それはまさか …… 」

「 ああ、そうだ 」

クリスティナはにっこりと微笑んだ。

側近二人のやり取りの意味が分からず、ただルトアミスが出掛けたという事実を受け止めるしかないジェイに、クリスティナはあっけらかんと言った。

「 大丈夫だ、ジェッド・ホルクス。ご機嫌は直っている 」

「 でも … 、あいつ、俺を置いて ……… 」

「 大丈夫だ、私たちがいるだろう。ただ、恐らくお戻りは深夜前後になるだろうな 」

その時、近くの部屋から、やたらと笑顔の残り三人の側近達が顔を出した。

「 帰って来たか〜、まァこっち来て飯食うぞー!」



あるじが不在ということもあってか、グァバを含む人界組の三人は酒を大っぴらに飲み、ジェイがいる手前、目の前には人肉以外のご馳走が並べられている。

部屋のテーブルと椅子は奥に適当に積み上げられ、磨かれた床にじかに座り込み盛り上がっている。料理の盛られた皿の下にのみ、白いクロスが敷かれてあった。

クリスティナと、アズという二人は嗜(たしな)む程度に酒を飲んでいた。

部屋の扉は全開なので、外を行き交う城預りの下僕たちは、地位の高い人界組側近五人にもてなされているジェイに、面白くなさそうな視線を投げ掛けてくる。

「 食べないのか?」

ジェイを気遣うようにクリスティナが声を掛ける。

ジェイは胡座あぐらを組んでずっと俯いたまま、飲み物の入ったグラスを両手で握りしめていた。

( ルトアミスは、俺に愛想を尽かしたのだろうか。いつもあいつの言うことを聞かず、それも今は悪魔界に来ているというのに、俺はワガママばっかり言って …… )


ジェイは帰城したら、一番にルトアミスに謝ろうと思っていた。悪魔界の何をも知らない癖に、勝手な行動を取った事を謝らなければ、と。

なのに、ルトアミスはジェイを置いて出掛けたという。

自分はこんなにも弱い人間だっただろうか。

ジェイは自分自身に問いかける。

それとも単に、悪魔界にいるから心細くなっているだけなのか … 。

ルトアミスがそばに居ない。

それだけの事が、ただただ不安だった。

今までこんな感情は誰にも持った事がない。

城預りの下僕達が敬意を表して頭を下げる、クリスティナ筆頭の人界側近五人が自分の世話を焼いてくれていても尚、ルトアミスの不在はジェイの心に大きな影を落とした。


側近アズは、クリスティナの言葉にも反応を示さないジェイの為に、適当に食べ物を見繕って、その皿を強引にジェイの前に突き出した。

「 食え食え、悪魔界ここでしか味わえないものばかりだぞ! それに夜中に腹が減る 」

グイグイと皿を押し付けられて、ジェイは一瞬上目遣いにアズに目を向けただけで、皿は受け取ったものの、またすぐに俯いてしまった。

隣りからクリスティナがジェイが握りしめていたグラスを取り、無理矢理フォークを持たせる。

普段なら異世界の料理には必ず目を輝かせるジェイだが、今は半ば事務作業のように少しずつ料理を口に運ぶのみだった。

当然、味など分からなかった。



「 ジェッド・ホルクス、そろそろ部屋に戻って休むか?」

クリスティナが声を掛けると、ジェイはあまり減っていない料理を残した皿を置いて、ゆっくりと立ち上がった。

「 … ルトは今日はもう戻らないんだろ?」

「 そうだな。急なご用事が入られたから 」

「 じゃあもう … 戻って寝ようかな。あ、俺一人では戻れないんだっけ?」

「 私がまた先導するから、ついて来い 」

「 …… 悪いな 」

すると、その様子を見ていた側近達が、

「 明日お前が起きた時にはお戻りになってるから、落ち込むなってぇ!」

とカラカラと笑う為、ジェイはあからさまに狼狽した。

「 べっ、別に落ち込んでる訳じゃ ……!」

慌てて否定したが、やはり誰が見ても今のジェイは元気がない。

ジェイ自身にもその自覚はある。

「 … うん、ありがと。迷惑かけてごめん 」

ジェイはすぐに態度を一変させ、四人に謝った。

四人は最初驚いて目を見開いたが、すぐに笑顔になった。

「 我らに気ィ遣うなぁ、俺たちは悪魔界こっちではルトアミス様から何のめいも受けてねえ!俺たちが勝手にやってることだからよ!」

「 ありがとう 」

再びジェイはお礼を言って、クリスティナと共に部屋を出た。



トボトボと後ろからついて来るジェイをチラっと見たクリスティナは、

「 そんな状態で私について来れるのか?」

と、揶揄うような口調だが少しかつを入れるように問いかけた。

ハッとジェイは顔を上げたが、ムッとクリスティナを睨みつける。

「 舐めんなよ 」

するとクリスティナは表情を柔らかくし、小さく微笑んだ。

そして、ゆっくりと一歩ずつ、城の奥に進み始める。

「 なら、大丈夫だな。必ず私が足を置いた場所だけを踏んでついて来てくれ 」

言われて、彼女がやんわりと元気付けてくれたようにも思えたが、それと同時に疑問も湧き上がった。

「 外に出る時より、厳しいんだな。城の構造って、一パターンだけじゃないんだ?」

「 当たり前だろう。中に入る方が複雑だし、城にかけられたルトアミス様のお能力ちからで、からくりは常に変動している 」

「 え、でも、初めてこの城に入った時は、特になんとも …… 。確かにいろんな方向に廊下を歩いたけど 」

「 ああ、ルトアミス様がお前の為に一時的に仕掛けを最大限にまでゆるめておられたからな。今からお前が戻るあの部屋は、この城の中で一番安全な場所だが、逆にお前は一人では外に出られない 」

それを初めて聞いて、ジェイは

「 え …… それって、俺、軟禁状態なんじゃ 」

思わず呟いた。


クリスティナはふふっと小さく吹き出し、

「 確かに、そうなるな 」

と、後ろからついて来るジェイを振り返った。

そんな彼女の笑顔に、ジェイはふと気付いたかのように、

「 そういえば、まだあんたの名前、聞いてなかったよな?」

と、問い掛けた。

「 あぁ、名乗ってなかったかもしれない。私はクリスティナという。人界に戻っても、特に我ら五人には気軽に接してくれると嬉しい。後の四人は、アズ、 レイナーク、グァバ、カイルと言う。今後は恐らく人界でもお前と接する機会が増えると、我らは予想しているんだ。と言うより、その機会が増えれば嬉しいと我らは思っている。だから、すぐに顔と名前が一致するようになるだろう 」

「 大丈夫、俺、人を覚えるのは得意中の得意だ 」

彼女の言葉に、ジェイは何故か嬉しい感情が込み上げ、気付けばそう答えて微笑んでいた。


今まではルトアミスとの個人の付き合いでしかなかったし、ジェイ自身も当然それで良いと思っていた。

だが、今回悪魔界に来て、人界の下僕たちがジェイを受け入れてくれていた事を知った。

そして今のクリスティナの言葉は、これからも自分がルトアミスの側に居ても良いのかもしれないと思わせてくれたからだ。

「 ありがとう、クリスティナ 」

「 えっ? いや、別に! お前には主の命を救って貰った恩もあるしな!」

思わずクリスティナは僅かに頬を染めて、ジェイから目を逸らした。


( 人間どもが騒ぐのも、主が一目惚れなさったのも、今更ながらよく分かる …… 。ジェッド・ホルクスの笑顔は、破壊力があり過ぎる。この、清純無垢な性格も合わせて … )



しばらくは互いに沈黙したまま、ゆっくりと城内を進んでいた。

クリスティナは、なんとなくジェイに話したいことがあった。話したところで、鈍いジェイにはクリスティナの意図や願いは気付かれないだろうから、主に迷惑をかけるものではないと判断したからだ。

この場所を越えれば、後は部屋までは普通に並んで会話が出来る。その時に話そう。

クリスティナがそう思っていた時。

「 … ここは、なんだ …… !?」

背後からかなり緊張したようなジェイの言葉が聞こえ、クリスティナはハッとジェイを振り返った。

そこは、部屋に続く廊下の中で一番危険な場所だった。


ジェイはその場所に足を踏み入れた瞬間、ゾクリと全身が粟立つのが分かった。

そこは平坦な廊下ではなく、下には膨大な闇が広がる空間が、格子状になった廊下から覗いている。下に目を向けたジェイは、何故か早く目を逸らさなければと思い、前を行くクリスティナの背中に目を上げた。

目を上げる時に、チラ、と目の端で暗闇が動いた気がした。そして一気に身体中に悪寒が走った。


「 ジェッド・ホルクス! 早くこっちに!」

クリスティナに言われるまでも無く、ジェイは早急にその場所を抜け、クリスティナの元に飛び移った。

ジェイの額からは今までにかいたことのない冷や汗が一筋伝っていた。

( なんだ!? 今の … おぞましい気配は …… )

ただの闇では無かった。

なんと表現して良いか分からない程、とにかく引き摺り込まれれば二度と這い上がって来れそうにない、" 生きた闇 " がそこには蠢いていた。

得体が知れない。

人界には恐らくいないであろう、" 生きた闇 " 。

「 すまない、ジェッド・ホルクス。ここは素早く通り抜ければならない所なのに、考え事をしてしまっていた 」

「 アレは、何なんだ … ?」

尋ねると、クリスティナは腕組みをし、首をひねった。

「 千万無量の … 人界にはまず無い未曾有みぞうの闇の集合体だ。それら一つ一つにルトアミス様が命を与えたモノ。と言っても、私もお前に上手く説明するのは難しい 」

ジェイはゴクリと生唾を飲んだ。

確かにあんなおぞましい気配を、人界では感じたことが無い。

「 あ … 、そう言えば 」

と、ジェイはふと思い出した。

「 ルトと喧嘩して部屋を出た時、クリスティナが引き止めてくれたのが確かここだったよな 」

「 そうだ。ここがあの部屋に通じる最後の仕掛けで、最も危険な場所だ。なにしろ、ルトアミス様以外、我らさえ飲み込まれる可能性があるからな 」

それを聞いて、ジェイは改めてルトアミスの恐ろしさを少し理解したような気がした。自分を心から慕い付き従う下僕にすら容赦がないとは。

ルトアミスがジェイに見せる優しさの方が、彼の素顔のほんの一面にしか過ぎないのだろうと、ジェイは思った。


「 行こう、ジェッド・ホルクス。ちょっと話がしたい 」

呆然と立ち尽くすジェイに、クリスティナは促すように声を掛けた。




部屋に戻ると、ルトアミスと喧嘩をした痕跡は一切無くなっており、初めて足を踏み入れた時と同様に綺麗に整えられていた。

ジェイとクリスティナは向かい合ってソファーに腰掛けた。

「 話って?」

ジェイが訝しげな表情で尋ねてくるので、クリスティナは小さく笑った。

「 単に、私の昔話に付き合って貰おうと思った。

私の親友だった者の話だ。聞いてくれるか?」

問われ、ジェイは特に断る理由も無いため、頷いた。



「 私の親友の名はクレアという。彼女も、人界での側近だった。ただ、私達と大きく違う点は、クレアは別の意味でルトアミス様を心からお慕いしていたところだ。

もちろん、クレアの能力は強かったし、側近としてお仕えするにあたって、私情を挟むことは一切なく、優秀な側近だった 」

「 えっと、つまり …… クレアってやつは、ルトアミスの事が好きだったってこと?」

純粋なジェイの問い掛けに、クリスティナはにっこりと微笑んだ。

「 そうだ。彼女はずっとルトアミス様に恋をしていた。

もちろん、ルトアミス様の前では一切その素振りは見せなかったが、私の前では、あからさまに嬉しそうにしていた。

飲み物をお渡しした時に、偶然にも手が触れたとか、何かの折にルトアミス様が小さく笑ってくれたとか。頬を染めて可愛いらしい報告をしてくるものだから、私も他の四人もクレアの気持ちに温かく包まれるようで、心地良かった。

クレアがそのように純粋にルトアミス様をお慕いしていたのは、恐らく下僕だったからだろうな …… 」

「 ん? 下僕だったからって? どーゆー意味だよ 」

ジェイが、さっぱり意味が分からない、と疑問を口にした時、閉めていた扉がノックされ、

「 クリスティナ様、飲み物をお持ちしました 」

と、城預りの下僕の声がした。

「 あぁ、ありがとう 」

中に入って来たのは女下僕で、チラ、とジェイを見てからは、淡々とトレイから持って来たものをテーブルに置いていく。

まず小さな白のテーブルクロスを敷き、ティーポットが二つと、伏せられた四客のカップが置かれた。そして二つのティーポットをそれぞれ掌で指し、

「 こちらがティタール、こちらはソロンのハーブティーです。お疲れが取れるかと思います 」

最後にさりげなく一言告げて、一礼をする。

「 ありがとう 」

今度はクリスティナではなく、ジェイが礼を述べた。

ジェイを見て途端に頬を染めた女下僕は、クリスティナにもう一度一礼し、そそくさと部屋を出て行った。

彼女が出て行くなり、きゃーっと何人かの女達の黄色い悲鳴が上がった。どうやら扉の前で数人の女下僕達が息を潜めて様子を伺っていたらしい。

「 か、かっこよかった!」

「 綺麗なお声よね!」

「 次があったら、私の番よ!」

などと言いながら、その声は遠ざかって行く。

ジェイとクリスティナは互いに目を見合わせたかと思うと、どちらからともなく苦笑した。

「 何だよ、アレ 」

「 ふふっ、さすがジェッド・ホルクス。悪魔界でも凄いな 」

「 何がだよ 」

「 ま、あの調子なら問題は無いと思うが、… どちらを飲む?」

クリスティナに促されて、ジェイは、

「 何とかのハーブティー 」

と答えた。

「 ソロンと言う名のハーブだ 」

言いながらクリスティナはティーポットからカップにほんの僅かだけ注ぎ入れ、ジェイには渡さず自身が口に含んだ。

「 クリスティナ?」

目を見張るジェイの前で、クリスティナは味わうように口に含んでいたが、こくりと飲み込んだ。

「 大丈夫だな、何も混入されてはいない 」

「 え、毒味!?」

思わず小さな声を上げたジェイを、逆に不思議そうに見遣ったクリスティナは、手にしていたカップを熱湯洗浄するかのように、片手をカップの上にかざしていた。カップはシュウシュウと音を立てて、湯気を上げた。

「 当たり前だろう。城預りの者達はお前を知らない。城預りの側近頭には釘を刺しておいたが、ルトアミス様が特別扱いをする " 餌 " を、良く思わない者は必ずいるだろうからな 」

クリスティナはそのカップに改めてハーブティーを並々と注ぎ、ジェイの前に置いた。

続けてクリスティナはティタールでも同様の所作で試し、洗浄した空のカップをジェイの前に置く。

「 ティタールを飲む時はこのカップを使え。私が毒味をした時に使ったカップ自体にも、毒が塗られた痕跡はない。熱湯洗浄もしたから、安全だ。他のカップは念の為、部屋を出る時に私が持って行く 」

「 分かった 」

ジェイは言葉にこそ出さなかったが、自分の身の回りで起きるかもしれないあらゆる危険を、ここまで取り除いてくれる人界組の側近達に心から感謝した。そしてそれと同時に、如何に自分が迂闊な行動ばかり取っていたかを思い、再び落ち込んだ。


「 中断したが、私の話を聞いてくれるか?」

ハッとジェイは我に返った。

「 あ、ああ、ごめん、」

ジェイは自分の気持ちを誤魔化すように、ハーブティーを一口啜った。

「 どこまで聞いたっけ?」

「 クレアが純粋にルトアミス様をお慕い出来たのは、下僕だったからだろうと言ったら、お前にどういう意味だと尋ねられたところまでだな 」

「 そうだった、思い出した。… で、どういう意味?」

「 お前も知っているように、我ら下僕は、自分の命を投げ出してでもおまもりしたいと思える、生涯ただ一人の最上悪魔に仕える。

だが、一般の悪魔は違う。如何に他の悪魔より優位に立つか、如何に他の悪魔を利用して己の能力を高めるか、とにかく自分を中心に物事を考える。

だから、稀に人界で女悪魔に遭遇すると、ほとんどの女はルトアミス様に抱いて欲しいとう。

今回悪魔界に戻られた途端、お前は知らないだろうが、既に何人かの女がこの城を訪れている。上手く行けばルトアミス様の寵愛を受ける立場となり、後ろ盾が出来る。そうなれば、他の悪魔より優位に立てる。

それが叶わなくとも、ルトアミス様の子を宿せば、ルトアミス様に目をかけて頂けるかもしれない、またはその子供が絶大な能力を持って産まれるかもしれない。

女はそれを求めてルトアミス様に抱かれたいと自らやって来る。

それに、ルトアミス様はあのご容姿だろう? それもあって、抱かれたいと集まる女は後を絶たないんだ 」

クスクスと嘲るように笑うクリスティナに、ジェイは半ば放心状態になっていた。

クリスティナが一旦言葉を区切った為、ジェイはあまり理解出来なかった内容を整理しようと、辿々たどたどしく口を開いた。

「 女悪魔が抱かれに来るって …… なんで抱いただけで寵愛? とか、子供って話にまで飛躍するわけ?」

「 え?」

クリスティナは目を丸くして、目の前のジェイの藍色の瞳を真っ直ぐに見つめた。


しばらく二人の間には沈黙が流れた。


「 えっと、」

とクリスティナが戸惑ったような言葉を発するのと、

「 抱くって、抱きしめるって意味だろ?」

と、きょとんとした表情でジェイが再び疑問を口にしたのは、ほぼ同時だった。


有り得ない、とクリスティナは口元を覆った。

ジェイが無知な事は知っていたが、更に追い打ちを掛けられた気分になった。

が、ここはジェイの為にも、そして今後の主の為にも、しっかり説明をしておかなければならないと、クリスティナは思った。

ジェイの受け取り方に問題はあるが、少なくともルトアミスとジェイの親密度は急速に高まっている。

そしてジェイ本人が気付いていないだけで、ジェイの心にもルトアミスに対する何らかの変化が起きている事が、見ていて分かるからだ。


「 ジェッド・ホルクス。まず、 " 抱く" と " 抱きしめる " は、全く意味が違う 」

「 え、そうなのか?」

「 " 抱きしめる " が、お前が思っている言葉の意味で、つまり言葉の通り。だが、 " 抱く" の意味は、男女の交わり、つまりセックスをするという意味だ 」

それを聞いて、ジェイの顔は一瞬にしてぶわっと赤くなった。

そのような反応は、普通女の方がするものなんだが、とクリスティナは思ったが、もはやジェイに限っては仕方がない。

「 女悪魔は皆、ルトアミス様とセックスをしたいと、やって来る。ルトアミス様と体を重ね、もしルトアミス様が自分に惚れてくれたら、つまりルトアミス様の " 特別 " になれたなら、ルトアミス様に守って貰える。

これがルトアミス様に寵愛されるという意味だ。それと、ルトアミス様に精子を注がれる事で、能力の強い子供を産めるかもしれない 」


「 え、でも、さ … 」

と、ジェイは茹蛸ゆでだこ状態になりながらも、

「 そーゆーのって、愛し合ってるからこそする行為なんじゃねえの? 子供作ったりってのは特にだよな。ルトは、そーゆーことをやってるわけ? 何人もの女悪魔を一度に愛せるってことかよ?」

そう問い掛けた。

だが、流石にこれにはクリスティナの方が疑問を抱く番だった。

「 いや … 、特に男は愛など無くとも、性処理として女を抱くだろう? お前だって男だ、王族であるお前には、お前の欲が溜まったりした時の為に、城内の女にそのような役目の者がいるだろう 」

すると、ジェイは余計に混乱したようだった。

目の前のハーブティーを一気に飲み干すと、ソファーのクッションを両手に抱きかかえた。


「 あのさ、欲が溜まるとか、そのような役目の女とか、全く意味が分からないんだけど …… 。マジでそれってどーゆー事だ?」

「 え 」

クリスティナは大きく目を見開いた。

ジェイの発言が余りにも衝撃的過ぎて、クリスティナの方も理解が追いつかない。

「 え、えっ!? まさか、まさかジェッド・ホルクス、お前、抜いた事も無い、とか?」

「 抜くって何を 」

先程からジェイにとっては分からない単語だらけで、少しムッとした目線をクリスティナに向ける。

「 主語が無いと何を抜くのか分かんねぇだろ 」

途端、頬を赤らめたのはクリスティナの方だった。

さすがにこれ以上この説明に関しては、自分には無理だとクリスティナは思った。

「 い、いや! この話はとりあえず止めよう。ニアルアース・ナイトにでも教えて貰った方が良い!まぁ、なんだ、とにかく、私はルトアミス様にセックスを請う女が山程いるということが言いたかっただけだ!」

急に慌てて話を逸らすクリスティナに若干訝しげな表情をしたジェイだったが、

「 えっと … 、じゃあつまり、ルトアミスには愛し合ってる女悪魔がたくさんいるって事が結論なんだな 」

と、半ば棒読みで呟いた。

と同時に、ジェイは自ら発した言葉なのに、胸の奥がズシッと痛んだ気がして、視線を落とした。


「 いや、そうじゃない! 決してそれは無い 」

すぐ様否定したクリスティナに、ジェイは顔を上げた。

「 悪魔の世界は非情だ。ルトアミス様はお前にはお優しい。お仕えしている我らも驚く程に。だから、お前がどう受け止めるかは分からないが、ルトアミス様は逆に、寄ってくる女どもを利用して欲を吐き出されている。

そこに愛情の欠片など全く無い。ルトアミス様にとって女はそういう扱いでしかなく、セックスを終えた後の女は用済みだ。子を宿されても面倒でしかない。だから、抱いた女はその場ですぐに殺す。今まで一度も、一人の女に執着された事など無い 」

「 ………… 」

衝撃のあまり、ジェイは言葉が出なかった。

互いに愛があるからそのような行為をすると思っていた事が否定され、しかも行為が終われば殺すという言葉に、ジェイはまたも自分の知らないルトアミスの恐ろしさを垣間見た気がした。


「 だが、」

と続けたクリスティナの瞳には、先程までとは違い、僅かにだが影が落ちていた。

「 クレアはそれを承知で、ルトアミス様に恋をしていた。他の女悪魔と違い、ただただ純粋にルトアミス様に焦がれていた。クレアは私にしかその気持ちを話していなかったが、私以外の側近達も自然と気付いていて、結局は皆で見守っていた。…… だから、今から思えば、もしかしたらルトアミス様もクレアの気持ちにお気付きだったかもしれない 」

ジェイは無言でクリスティナの話の続きを待った。


純粋に、ルトアミスを好き …………


ただその言葉は、何故かジェイの胸に響いた。


「 だが、クレアは命に関わる病に侵された。進行性の早いもので、他人に伝染る病では無かったが、彼女は側近をかれた。それにより、私達ほどルトアミス様のお傍に仕えることは叶わなくなった。この城に居る治療専門のバサ殿からは、持って二ヶ月だと、余命宣告を受けていた。

それから一ヶ月程して、クレアは私に言った。

ルトアミス様に抱かれたいと。ルトアミス様に群がる女悪魔のように、自分も抱かれたいと。

その為にルトアミス様に想いを伝えたいのだと言って来たんだ 」

ジェイはクリスティナの言葉に驚き、悲しげな表情を見せた。

「 で、も …… ルトアミスは、その、行為をした女悪魔は殺すって …… 」

「 そうだ。本来あの御方は、非常に冷酷だ。その対象が、御自身の下僕であったとしても。

だから、私は止めた。いくら余命宣告されているからとはいえ、やめて欲しいと言った。

だがクレアは、どうせ死ぬなら、ずっと恋をしてきたルトアミス様に抱かれ、女としての悦びを知った後に、ルトアミス様の手にかかって死にたいと 」

ジェイは、こんなにも綺麗な心を持つ悪魔がいるのかと、心底驚いた。偏見かもしれないが、悪魔は純粋で綺麗な心など持ち合わせていないと思っていたからだ。

人の中にも醜さ、卑劣さ、嫉妬、憎悪、他人を蹴落とす事など厭わないなど、多くの負の感情があるのだから、悪魔なら当然そのような感情しか持っていないと思っていた。

だがクレアが綺麗だったのは、彼女が下僕という特殊な悪魔だったという事が大半を占めているのかもしれないと、ジェイは先程のクリスティナの言葉から判断した。


( 俺だって、そんな純粋で綺麗な感情なんか持ったことも、経験したこともないのに …… )



「 それから数日後、恐れ多くもルトアミス様に喧嘩を売ってきた上級悪魔十人前後が居てな。もちろんルトアミス様が傷を負うような事は無かったが、数が多かったせいで、少し隠家アジトでお休みになられた事があった。

そこにクレアが声を掛けてきた。

ルトアミス様に気持ちをお伝えするのは、今しかないと。だから、一人で中に入らせて欲しいと。クレアは元側近で、病を患ったから下僕になっただけだ。だから彼女が中に入る事は何の問題も無い。

だが我らはやはり、クレアがルトアミス様に殺されるのは見たくなかった。例えそれが彼女の望みだとしても。

だから側近皆でクレアを説得した。

けれど …… 結局、折れたのは側近頭である私だったんだ。何故なら同じ女として、そして親友として、クレアの気持ちが痛いほど理解出来ていたから 」



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「 失礼します、ルトアミス様 」

声を掛けてから、クレアは約一ヶ月振りに隠家の中に足を踏み入れた。

あるじの姿を探して壁を曲がると、ルトアミスは奥の部屋の肘掛椅子にゆったりと座って、目を閉じていた。

クレアはルトアミスが休んでいる姿を見て、静かに俯いた。疲れている主に、己の身勝手な感情だけでここに入って来た事を恥じた。

自分はもう側近でも何でも無い。

ならば、こんな浅ましい願いを主にぶつけるよりは、余命僅かの病を患った自分を殺さず、命尽きるまで下僕として置いてくれている主に感謝すべきではないのか。それだけで充分なのではないのか …… 。

例えそれが、主が手を汚さずとも死に行く運命の自分だから、単に放置されているのだとしても。

下僕として遠くからでも主の姿を見る事が出来るだけでも、自分に与えられた幸せだと思わねばならない。

クレアは震える唇を噛み締め、そっと、恋い慕い続けてきたルトアミスに背を向けた。


「 どうした。何か用があったから来たのではないのか 」

自分の背中に静かに紡がれた言葉に、ハッとクレアは振り返った。

ルトアミスは肩肘に頬を預け、その深紅の瞳で真っ直ぐにクレアを見ていた。

「 ル、ルトアミス様 ……… 」

( あぁ …… ルトアミス様が私を見てくださった。声を掛けてくださった )

クレアにとってはただそれだけのルトアミスの行為が嬉しく、両手で服の胸元を握り締め、気付けば両目から涙が零れ落ちていた。

「 お休みのところ、立ち入りまして …… 、申し訳、ございません 」

涙がぽたぽたと足元を濡らして行く中、クレアは途切れ途切れに謝罪の言葉をなんとか口にした。

クレアのその様子に、ルトアミスは顔をしかめた。

「 … 体調はどうなんだ。クリスティナを呼ぶ 」

「 っ、違います!」

クレアの否定の言葉に、ルトアミスは立ち上がったまま動きを止めた。

「 ルトアミス様 …… 」

クレアはルトアミスを見上げた。

「 恐れながら、厚かましくも … ルトアミス様に、お願いがございます。クリスティナ達に止められましたが、強引に入って参りました …… 。ですから、クリスティナ達を罰することは、どうか。罰するなら私を、」

そこまで言ったところで、ルトアミスは大きく溜め息をついてクレアの言葉を遮った。

「 願いとはなんだ 」

ルトアミスの問い掛けに、クレアはその場にひれ伏した。迷いなどとうに消え失せていた。

「 ルトアミス様、どうか、私を抱いてください。側近という立場を賜りながら …… ずっと、ずっとお慕いしておりました 」

途端、ルトアミスの表情が俄(にわか)に険しくなった。

「 クレア、自分が何を言っているのか分かっているのか 」

ルトアミスの言葉は、先程より冷たい口調へと変わっていた。

「 …… はい。ずっとお慕いしておりました。病を患って、側近を解かれた時 …… 一番に頭に浮かんだのは、浅ましくも、ルトアミス様にこの身を抱いて欲しいという、長年の想いでした。

そのあとは、どうかルトアミス様の手で直接、私の命を奪ってください。それが、今の私の唯一の願いです 」

はっきりとした口調で言い切ったクレアを一瞥し、ルトアミスは再び椅子に身を委ねた。

そして半ば呆れたようにクレアを見下ろし、溜め息をついた。

「 … 俺はお前がこんなに愚かな女だとは知らずに、側近の位置に据えていたのだな 」

冷たく注がれたルトアミスの言葉に、クレアは青ざめた。

ここに来て、最期の最期になって、側近として仕えていた自分を否定された。自分では充分に仕えていたつもりだった。恋心を胸の奥底にしまい込んで、立派に仕えていた、つもりだった。

「 も、申し訳、ございません … 」

クレアは再度ひれ伏すしか無かった。

これではもう、なにもかもが絶望的だ。


抱いてすら、貰えない。

命すら、奪って貰えない。

言い寄る数々の女悪魔達より、主にとって私の存在価値は薄かったのだ …… 。


また、ぱたぱたと涙が落ちた。


「 お前は、今、何を考えている。お前は最期に、俺の尊厳をけがすつもりか 」

「 え?」

予想外の言葉に顔を上げたクレアの目に映ったルトアミスは、やはり険しく厳しい表情をしていた。

「 お前を抱けだと? よくもそんな事が言えたものだな。本当に俺を恋慕っているというなら、何故そんな事が言える。俺の感情は無視か。お前をそこらの馬鹿な女どもと同様に扱えと言うのか。単なる性処理の道具にお前を貶めろと言っているのか!」

クレアは怒りの向こう側にあるルトアミスの優しさを胸いっぱいに受け止めた。

主が、ずっと慕ってきたルトアミスが、今、自分の愚行を指摘し、その悲しみを怒りに変えている。

クレアは嗚咽が漏れそうになり、片手で口元を覆いながらも、再びひれ伏した。


( 私は … ルトアミス様に少しでも気にかけて頂ける存在であったのだ …… 嬉しい、嬉しい、嬉しい )


クレアから流れ落ちる涙は、とどまることを知らない。

気付けば、ひれ伏しているクレアのすぐ前に、ルトアミスが片膝を着いていた。

「 悪いが、俺はお前を抱けない 」

その言葉に、クレアは顔を上げた。

すぐ目の前に、ルトアミスの顔があった。

クレアはふわりと微笑んだ。

「 はい 」

クレアの返事に満足したのか、ルトアミスは小さく笑みを浮かべた。

「 お前は俺の大切な側近だ。俺を好きだと言うなら、例え一日でも、一秒でも長く生きろ。少しでも長く俺に仕えろ。… 分かったな?」

ルトアミスの表情も口調も、クレアが仕えて来た中で見た、一番優しいものだった。

クレアが返事をしようとした時、ルトアミスに軽く両肩を掴まれ、気付けば額にそっと口付けられていた。

「 お前の気持ちに応えてやれるのは、これくらいしか出来ない。許せ 」

驚いて目を見開くクレアに、ルトアミスの口調はその行動とは相反し、再び静かなものへと戻っていた。



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「 な、なんだよそれ! ルトのやつ、カッコつけ過ぎじゃねぇの?」

それまで話に聞き入っていたジェイは、思わず声を大きく張り上げていた。

ふふふ、とクリスティナが笑う。

「 でも、クレアからこの話を聞いた時、私も嬉しかった。ルトアミス様が我ら下僕のことをどう思っていらっしゃるのか、よく分かったから 」

そしてそれから二日後に、クレアは亡くなったと、続けた。

「 ルトも、クレアの事が好きだったのかもな … 」

ジェイが何気無しに呟くと、クリスティナは目を細めた。

「 気になるか?」

「 え? そりゃ、うん … まぁ …… 」

曖昧に言葉を濁すジェイから目を逸らし、クリスティナは言った。

「 残念ながら、それは無かったと思う。… もしルトアミス様がクレアを特別な意味でお好きでいらしたのなら、きっとクレアを抱いてらっしゃったと思う。

それに、それよりもまず、クレアを死なせない方法を、あらゆる手段を使ってでも探し出そうとされたはずだ。バサ殿の診断が如何に的確かをご承知の上でも、だ。

けれど額に口付け、これでしか応えられないと仰ったのだから、それが事実なんだろう 」

そっか、とジェイは頷いた。

( クレアはきっと、本当に綺麗な悪魔だったんだろうな…… )

純粋に、ジェイはそう思った。


「 ルトアミス様とお前が出会ったのは、それから約一年後だ。そしてその瞬間から、ルトアミス様は変わられた。( お前の前でだけは )表情がとても穏やかになられた。

私は、ジェッド・ホルクス、願わくばお前にクレアの気持ちを継いで欲しいと思っている。お前に見せるルトアミス様のお顔を拝見していると、お前には常にルトアミス様のお側に居て欲しいとさえ思ってしまうんだ 」

お前は我らの天敵なのにな、とクリスティナは自嘲した。

「 ルトの変化と、クレアの気持ち … ?」

首を傾げるジェイに、クリスティナは穏やかな口調で言った。

「 我らはお前に、ルトアミス様の全ての想いを受け止めて欲しいと願っている。ルトアミス様が初めて見つけた宝物だから。一瞬にしてルトアミス様の心を縫い止めた宝物だからな 」

最後は曖昧な表現で伝えるしか無かった。

当の本人であるルトアミスが、ジェイにまだ気持ちを伝えていない。心身共に無垢過ぎるジェイに合わせて、大切にしているルトアミスの心を、下僕の口からジェイに気付かせてしまう訳にはいかないのだ。




シャワーの準備をする。この部屋は初めて使うから、身を清めるものを持って来る。

クリスティナはそう言って、未使用のカップ二客を手に取り部屋を後にした。

ふぅ … 、とジェイは溜め息を漏らした。

途端に、どっと疲れが押し寄せて来た。


( 早くシャワーを浴びて、横になろう。あまりにも環境の違う場所に来たから、気付かないうちに精神も体力もすり減らしてたのかもしれない … 。けど、明日の朝にはルトに会えるから、体調も楽になるだろうな )


ジェイがぼんやりとそう考えていたら、すぐにクリスティナが戻って来て、液体の入ったボトルを三本手渡した。

「 これで身を清めてくれ。今着ているものは、後でレイナークが回収にくるから、まとめて置いててくれて構わない。洗って乾いた状態で明日渡せる 」

そして、更にジェイの手の上に柔らかな肌心地のシャツが乗せられた。

「 夜着にはこれを。すまないがお前に合いそうなズボンは探せなかったが、このシャツはルトアミス様のもので大きいから、全く問題ないだろう 」

「 あ、うん。なんか、いろいろありがとう。… お休み、クリスティナ 」

礼を言うと、クリスティナは微笑んで部屋を去って行った。


シャワーを浴びて用意されたシャツを着て、ジェイはベッドに身を沈ませた。

着ていた服と一緒に下着も出した事は当然だったが、よくよく考えれば替えのものなんて持ち合わせておらず、クリスティナもそこまで気が回らなかっただろうと、ジェイは思った。

実際、シャツの一番下のボタンまできっちり締めていれば特に問題は無かった。


結局、クリスティナが最後に何を伝えようとしていたのか、ジェイはあまり理解出来てはいなかった。

クレアの気持ちは、純粋にルトアミスを好きだったという想いだ。だが、それをジェイに知らされたところで、どうすれば良いのか分からない。

それに、ルトアミスの気持ちがどこにあるのかなんて分からない。

ただ人界の下僕達が、自分とルトアミスが一緒にいる事を、利害など関係なく望んでいるのだろうという事だけは、ジェイにも理解出来た。

( クレア …… 話を聞いているだけで、およそ悪魔には似つかわしく無い心の持ち主だった。一度、会ってみたかったな …… )

そんなことを考えながら、ジェイはゆっくりと深い眠りに落ちていった。




ルトアミスが部屋に戻ったのは、予定よりも遥かに遅く、日付が変わり午前二時を回った辺りだった。

バルダカンベッドの薄いレースの合間から、ジェイが小さく身を丸めて横になっている様子が見えた。

そっと覗くと、ジェイはルトアミスの大きな長袖シャツに身を包み、首に近いボタンを二つほど外した無防備な姿で、小さな寝息を立てている。

袖からはジェイの細い指先が見えるか見えないかの状態だ。

身体を小さく折り曲げて寝ているため、シャツの裾から、際どい部分まであらわになっている下肢に、どうしてもつい目が行ってしまう。

何故シャツしか着ていないのだ、といささか疑問には思ったが、特に気にも留めなかった。

薄いシャツ一枚である為、隠れた腰のくびれから尻の丸みまでが強調され、本当に男とは思えない、滑らかな曲線を描いてる。


┄┄┄┄ 触れたい。


ルトアミスの手は、無意識のうちにジェイの身体へと伸びていた。

悪魔であるルトアミスがこれほど近くに居ても起きないのは、余程ジェイが彼に気を許している証拠だ。もしこれが下僕だったとしたら、ジェイは下僕が部屋に近付いてきた時点で目を覚ますだろう。

" 悪魔の天敵 " とまで言われ畏怖されている " ジェッド・ホルクス " が、自分にそこまで気を許してくれていると思うと、ルトアミスは自惚れても良いのかとさえ思ってしまう。そしてそう思う機会が徐々に増えているような気すらしているのも事実だ。


ルトアミスは自身も片肘を着いてベッドに横になり、そっとジェイの背中から腹部へと空いた腕を回し、やんわりと抱きしめた。ジェイのうなじに顔を埋めると、果実のように甘く、そして瑞々みずみずしい清流のような香りがした。

それは恐らくジェイに与えられたボディソープやシャンプー等の香りであり、女悪魔が男をさりげなく誘う時に使用するものだと、ルトアミスはすぐに認識した。


クリスティナめ ………

やられた、と側近頭の余計な " お膳立て " を恨めしく思ったのも束の間で、ルトアミスはジェイの首筋に唇を落とし、自分の印を刻んだ。


「 ルト … くすぐったい …… 」

気付けばジェイが自分の腕の中でくすくすと笑っていた。

「 まさか、起きていたのか?」

首筋から耳へと息を吹きかけるように尋ねると、ジェイは穏やかな表情を崩すことなく瞳を閉じたまま、小さく口を動かした。

恐らくジェイの意識は、大半が夢の中にあるのだろう。

「 お前が … 抱きしめて、きたとき。あんなこと … 、嫌でも目が覚める … 」

あんなこととは口付けたことだろうか、それに目覚めてはいないだろうと苦笑しながら、ルトアミスはジェイの真上に体をずらした。

するとジェイは体勢をそのままに、ぼんやりとまぶたを持ち上げたが、今にも消え入りそうな、小さく舌足らずな口調で言った。

「 ごめん …… 待ってる、つもり、けど …… シャワー、浴びたら … 眠くなって ……… 」

ジェイはルトアミスによって束の間起きただけで、またうとうとと深い眠りの中に沈んでいく。

ジェイの寝顔を見るのは、当然ながら初めてだった。

( こんなにも無防備な寝顔を、俺に見せてくれるのか )

本当に警戒心を解いているジェイのその姿を目の当たりにすると、ルトアミスの理性は飛びそうになる。だが、多少はいいだろう。ルトアミスはそう思った。

再び小さな寝息を立て始めたジェイの喉元に顔を埋め、自分の印を残す。

「 ん … 」

ジェイが小さな可愛い声を出すものだから、つい、ルトアミスに出来心が芽生えた。

それは本当に小さな、心の隙間に僅かに芽生えただけのものだった。


ルトアミスは自分の真下で眠るジェイの柔らかな髪を優しく撫でた。そしてそのまま下へ下へとゆっくりとジェイの身体に片手を滑らせ、下肢をくの字に膝を折り曲げているジェイの、尻の丸みに辿り着いた。


その瞬間、ルトアミスはガバッと上体を起こした。

ジェイは、下着を身に着けていなかった。手に触れたのはシャツ以外、何も身に付けていない滑らかな感触だった。

ルトアミスはまさかと瞠目どうもくした。

駄目だと自制心を働かせつつも、心と体は相反してしまう。

そっとジェイが纏うシャツを腰までまくると、絹のような双丘がルトアミスの目に焼き付いた。気付けば理性よりも先に、手は丸みに合わせてそれを撫でていた。

白く柔らかで、それでいて張りのあるしっとりとした双丘が掌に馴染む。

「 んん …… っ 」

腰を弓なりに反らせ、ジェイの吐息が漏れる。

「 ぁ、あ ………… 」

その声にルトアミスは表情を崩すことなく、起きる様子の無いジェイの両膝裏に優しく手を回し体勢を仰向けに変えた。

そして、そのままゆっくりとジェイの両膝を左右に割り開く。

シャツは自然と捲れ、あられもない体勢をいられたジェイの恥部全てが、ルトアミスの目の前にさらけ出された。


それはとても婉然えんぜんたる様だった。いやらしいという表現ではなく、ただただ美しい身体だった。造りは同じであるのに、とても同性の身体だとは思えなかった。

元々ジェイの体毛は女性よりも薄い。薄いというレベルを越し、女性から羨ましがられるほどに滑らかな素肌だ。

神が " 美 " を追求する中で、余分なものを全て取り除いて創られた人間がジェイなのではないかと、そう思わずにはいわれないばかりの美しさである。

想いを寄せるジェイの恥部には男としてかなり興味があり、いつか必ず手に入れ、身体の隅々を余すことなく見て舐め回してやりたいと思っていた。

そのよこしまな感情や欲を抑え続けているルトアミスの眼前に、思いもよらぬタイミングで暴いてしまったジェイの全てが露わになっている。その秘部の隅々から目が離せなかったのは、男としてもはや当然でしかなかった。


「 … ん、苦し …… 」

ジェイの唇から寝言のように小さく言葉が発せられ、僅かに上体をよじった。

ルトアミスがしばらく両膝を持ち上げていた事により、その体勢に圧迫感を感じたのだろう。無言でそっと足を下ろしてやる。

だが、ルトアミスはこの好機を逃すつもりは毛頭無かった。一度ベッドを降り、ソファーからクッションを二つ手にして戻ると、ジェイの脚の間で胡座を組んだ。

ジェイを起こさぬようゆっくりと両足を持ち上げて腰を浮かせ、クッションの上にゆったりと乗せる。

とりわけ秘部に近い箇所にもう一つのクッションを重ねると、ジェイの身体に比較的負担が少ない体勢で、ルトアミスの目の前にジェイの一糸纏わぬ秘部をさらす事が出来る。


今までのジェイの言動から女性経験は無いと容易に推測する事が出来、経験がある事により湧き上がるであろう嫉妬にはさいなまれずに済む。ジェイの全ての初めてを、ルトアミスは自身の手で教え込みたかったからだ。


ピクンとジェイの両足が小さく震え、

「 …… は、」

と、その唇から吐息が漏れた。

ルトアミスがジェイの内腿から顔を上げてその表情を見ると、まだ眠りから覚醒はしていない虚ろな瞳がうっすらと開き、与えられた快感に少しの動揺が見て取れた。

ルトアミスは身を起こし、そんなジェイを気遣うようなふりをして、わざと耳元で囁いた。

「 どうした?」

「 ん … 、ルト ……… ?」

ルトアミスの予想通り、ジェイは耳元にかかった彼の息に、更にびくっと少し反応を示した。

それでもまだ、まどろみの中からは抜け出せていないようだ。ジェイは深い夢の中にいる感覚なのか、耳元から顔を上げ自分を真上から見下ろすルトアミスを、ぼんやりと見つめている。下肢が広げられはだけられている事にも気付いていない。

「 …… ルト、なに、してるの 」

睡魔と戦いながら、何とか言葉を紡ぐジェイの様子を、ルトアミスは純粋に可愛いと思った。

ジェイの右頬に手をやり、

「 食事をしようとしていた 」

ジェイを完全に起こしてしまわないよう、囁くように答える。ジェイの頬を包み、自然な流れで首筋、鎖骨へと手を這わせた。

「 食事 ……… ごはん?」

「 ああ。… お前は寝てていい。眠いだろう?」

「 うん 」

子供のように答えて、ジェイはそのまま瞳を閉じた。

たまらなく愛らしいその様に、ルトアミスは唇に軽く口付けを落とした。

「 … ジェイ、寝ていて良いが、きっと体が気持ち良くなる。だが気にするな。安心して夢の中にいろ 」

「 うん …… ありがと … 」

「 気持ち良くても、夢の中だ。その快感に身を委ねて、声も何も我慢する必要はない。分かったな?」

「 うん …… 」

ジェイは何回もうつらうつらしながら、偶(たま)に瞳を開けた。その瞳に、ルトアミスは穏やかな笑みを浮かべる。

「 寝ているのに邪魔をして悪かった。… 食事が終わるまで、…… 少し我慢してくれ 」

「 うん … 」

ルトアミスの笑顔につられたのか、ジェイも無垢な微笑みを向けてから、再び深い眠りの中に落ちていった。


ルトアミスの言葉は、軽い暗示に近いようなものだった。もちろん、能力など全く伴わない、言葉だけのものだ。

ほとんど夢の中にいるジェイに、もしかしたらこの言葉が届くかもしれないと、淡い期待を持って何度も口にしただけだった。

能力など使わず、暗示をかけるように繰り返し言葉を囁いただけで、ジェイが簡単にそれに掛かるとは更々思ってはいない。

だがそれでも、ルトアミスは試してみたかった。



「 ん … っ、……… ぁ … 、ぁ …」

気持ちが良いのか、吐息と共に小さな声も漏れ始めている。同時に、ルトアミスの与える刺激にびくんと喉を反らせたり、力なく足を閉じようともしてくる。

だが、ジェイの身体の中央にはルトアミスが居るため、ジェイは足を閉じる事が叶わず、腰だけがゆらゆらと淫らに揺れた。

その様がまたひどく官能的で、ルトアミスは目を細めた。

ルトアミスが与える刺激はとても優しく、敢えて緩慢な動きにしているにも関わらず、ジェイにはかなりの快感があるらしい。


自慰すらあまりしていないのか。


「 ぁあ …… 、ふ … っ 」

はぁはぁとジェイが息を吐く間隔が短くなっている。

女性経験が無く、自慰すらまともにしていないとしたら、すぐに絶頂を迎えるだろう。

ジェイの頬は既に真っ赤に上気しており、吐息とも喘ぎとも取れる声を小さくあげ、羞恥の為かせり上がる快感の為か、薄く色付いた唇は小さく開かれたままだ。

それでもその快感にあらがうように、顔の向きを左右に変えたり、偶にシーツをきゅっと握ったりしている。閉じようとする膝は、ジェイの意思とは関係なく勝手にわななき震え続けていた。


「 あ … っ、」

びくんとジェイの腰が小さく跳ねた。

「 あ、ぁ … 、や …… っ、… ル、ト …… ルトアミス …… っ 」

ジェイは熱に浮かされたように、小さくだが声をあげた。嫌々と頭を左右に振り、両膝は力なくルトアミスの体を挟んでいる。両手は身体の中心で自身を咥えるルトアミスの頭を少しでも離そうとしているのか、弱々しい力ではあるが彼の頭に乗せていた。

「 ルト …… 、ルト ………… っ 」

無意識であろう、自分をたかぶらせている悪魔の名を何度も呼びながら、ジェイの身体はびくんびくんと大きく痙攣し、ルトアミスの口の中に精を放っていた。


ルトアミスは再びジェイの内腿に顔を埋め、際どい箇所に強く唇で跡を付けた。

ルトアミスはジェイの両足をそっと閉じてやり、シャツを整えた。

起こさないように両膝を抱えて腰を浮かせ、クッションを抜き取る。本来の用途とは違う意味で使われたそれすら、艶めかしい。


気付けばジェイの閉じられた片方の瞳から、一筋の涙が伝っていた。ルトアミスはジェイの髪を撫でるように指に絡め、その涙を口付けで受け止めた。

「 …… 愛している 」

無意識のうちに、ルトアミスの口をついて、その言葉が囁かれた。

そしてその言葉を発した自分自身に、ルトアミスは心底驚いた。


元々、悪魔の間には本物の愛などほとんど存在しない。悪魔間の対立は激しく、例え相手に少し好意を抱いたとしても、何かしらの利用価値が無ければ、ずっと一緒に居る事などはまず無い。

だが、ルトアミスに言い寄るほとんどの女は、ルトアミスの強い能力を受け継ぐ子供が欲しいという目的と、容姿に優れた彼の心を独占し常に一緒に居たいという、悪魔にしては異例の感情を持ち合わせているようだ。

ルトアミスにとっては女から寄せられるその感情など煩わしいだけであったが、まさか自分が誰かを愛する事になるとは、夢にも思っていなかった。


ルトアミスは、安定した寝息を立て始めたジェイの頭をこれまで以上に優しく撫でた。

「 俺は、お前を心から愛している 」

その言葉を、ルトアミスは自身の心にもしっかりと刻み込むかのように、はっきりとジェイに告げた。

そして、何度も柔らかな髪を手でほぐし、無防備に眠るジェイの整った目鼻立ちにしばらく見入っていた。


達する時のジェイは、熱に浮かされた譫言うわごとのように、何度もルトアミスの名を呼んだ。

性行為こそしてはいないが、それでもジェイが自分を求めてくれていたようにルトアミスは感じた。まさか絶頂を迎える際に自分の名を呼ぶなど、全く想定外の出来事だったからだ。


期待しても良いのか?

お前は俺の言葉通り起きなかった。俺の言葉だったから、暗示のような効力があったのか?

もしそうだったとすれば、お前の心に少しでも俺の存在があると、自惚れていいか?


ルトアミスはジェイの額にそっと口付け、心の中で問い掛けた。どうか、ジェイが少しでも自分に気持ちを向けてくれるよう、願いながら。

掛け布団をジェイの腰までかけてやり、ルトアミスは部屋を後にした。


そしてその後、ルトアミスは別室にて朝まで立て続けに三人の女を抱いた。ジェイに向けたルトアミスのたかぶりは、なかなか収まる事を知らなかった。



翌朝、目を覚ましたジェイは、部屋にルトアミスが居ない事に首を傾げた。

確か昨夜は先に寝てしまって、気付いたらルトアミスに背中から抱きつかれいて、少し言葉を交わしたように思う。そしてまたすぐに眠ってしまったのではなかったか。

今晩には人界に帰るのに、悪魔界こっちに来てからルトアミスとろくに話せておらず、何処へも案内して貰っていない。


( ルトと口論したあと、ちゃんと会って喋れてないからな …… )


そう考えると、ジェイの胸は小さな針が刺さったかのように、チク、と痛んだ。半日も経っていないのに悪魔界にいるというだけで、ジェイの心境はかなり変化していた。

僅かな寂しさがジェイの胸中をぎった。

人界にいる時は二〜三日会わなくても何とも思わなかったのに。

今はただ、ルトアミスに会いたかった。

折角悪魔界に居るのに、肝心のルトアミスと一緒に居られない時間があるとは、全く思っていなかった。

寧ろ、ずっと行動を共に出来ると思い込んでいたのだ。



…… だからかな。


と、ジェイはシャツの胸元を握り締めた。



ルトアミスの夢を見た。

ふわふわと心地よい、温かな夢だ。



ルトアミスとジェイは互いに向かい合って立っていた。

だが、二人の間には大きくひび割れた黒い地面が、ぱっくりと大きく口を開けていた。それは一度落ちてしまえば戻って来れない、どこまでも続く深い闇のように見えた。

そして、それを客観的に見ているもう一人の自分がいる。ぐるりと見回してみると、ルトアミスと向かい合う夢の中の自分の周りは、驚くほど真っ白な世界が広がっていた。

白一色の世界で限りが無く、更に物質と言えるものすらも何一つ存在していない。

存在するのはルトアミスと夢の中の自分、そして二人の間に在る、黒く深い崖のような闇だけが、唯一不釣り合いな場所としてえぐれているのみだ。


夢の中の自分とルトアミスは、互いに微笑んでいる。まるで足下の闇など存在しないかのように、幸せな空気が辺りを包んでいる。

夢の中の自分が何かを言おうと口を開きかけた時、それよりも僅かに早く、ルトアミスが何か言葉を口にした。彼が何を言ったのか、客観的に見ているジェイには聞こえなかった。


( 何も聞こえなかったのに、心も身体も何故か気持ちいい …… )


ジェイが感じた心が反映したかのように、その言葉を受けた夢の中の自分は、とびきりの笑顔を浮かべ、ルトアミスに向かって真っ直ぐに駆け出していた。

気付けば、二人の足下には闇など無かった。真っ白で綺麗な空間だけが、二人の間には広がっていた。


夢の中の自分は裸足で、真っ白い薄布のワンピースのようなものを着ていて、それはルトアミスに駆け寄り抱きつくと、ふわりと大きく風に揺れた。


( あぁ … なんだろう、とても気持ちがいい。気持ちが良くて、変な感じ …… 。それなのに、身体が変になってしまうような気持ちよさが止まらない … )


漆黒のルトアミスも優しく両手を差し伸べ、夢の中の自分の身体を抱き寄せた。抱きとめた彼の胸元に顔をうずめ、ルトアミスは夢の中の自分の首筋に顔を埋める。

その瞬間、客観的にその光景を見ていたジェイの身体に変化が起き、今までに感じた事の無い強烈な快感が襲った。肩で息を整え、思わず自分自身の身体を強く抱きしめた。

ルト、ルト …… !

心の中で強くルトアミスを求め、両腕で力いっぱい自身を抱きしめながら上気した顔を上げると、夢の中の自分がルトアミスの腕の中からこちらを見ている事に気が付いた。

そして、ジェイと目が合った瞬間、夢の中の自分は穏やかに、とても柔らかな眼差まなざしで真っ直ぐに微笑みかけてきたのだ。

とても幸せだと言わんばかりの夢の中の自分に、ジェイの心も身体も幸福に満ち溢れていく。そんなあたたかな、心身共にとても気持ちの良い不思議な夢だった。



( ルトが抱きしめてくれた時、どうして起きられなかったんだろう。あの時、俺がちゃんと起きていたら、たくさん喋れたのに …… )


ジェイがベッドの上でぼんやりしていると、恐らく人界組の誰かであろう側近の気配が近付いて来た。

「 起きてるかー、ジェッド・ホルクス〜 」

ジェイの返事を待たずに入って来た側近レイナークは、綺麗に折り畳まれたジェイの服を両手で持ち、ベッドサイドに近付いて来た。

「 お前の服、洗って乾燥まで出来てるから、ここに置いておくぞ?」

「 あ、ありがとう。… ルトは?」

「 あー ……… 」

と、レイナークは難しそうな顔をして、ポリポリと頭を搔いた。

「 今、城預りのヤツらから、ご不在期間に悪魔界で起きたことの報告諸々をお聞きになられているな … 」

「 … そっか、忙しいんだな 」

単に遊びに来ただけの、俺とは違って …… 。


だったら、とジェイは思った。

( 俺も悪魔界こっちで " 仕事 " をしよう )


「 あんたはもしかして、レイナークって名前?」

不意にジェイに尋ねられ、

「 あ? あァ、そうだが?」

と答えながらも、不思議そうにジェイを見遣った。

「 昨日、クリスティナから名前を聞いてたから。… それで、ルトはまだまだ体が空きそうにないんだよな?」

「 あぁ、… どうもそうなりそうな気配だ。クリスティナも城預りからの報告内容の共有として参加しているしな 」

どうやら、会議のようなものをしているらしい事をジェイは把握した。

何かあったんだろうか … 。

一瞬そんな考えがぎったが、ジェイに何も告げられていないという事は、悪魔間の抗争などか何かで、それでもジェイの身に危険が迫ることは無いのであろう。


「 じゃあ俺、またライラのとこに行ってくる。城に居たってする事無いし 」

「 ライラって、あの魔物のガキか?」

「 そう。ここで退屈してるよりは、アイツらと遊んでる方が楽しいからな 」

無邪気に笑うジェイに、さすがにレイナークはいい顔をしなかった。

「 … どうもお前の噂が広がって、下級悪魔どもが集まり始めていると聞いた。それに、あまりそのガキに構っていると、ルトアミス様も …… 」

「 だーいじょーぶだって! それに、城にずっと居たんじゃ、折角悪魔界に来た意味ないし。いつ体が空くかも分からないルトをここで待ってるだけってのは、流石に息が詰まる 」

確かにジェイは誰かが先導しなければ、この部屋から出る事すらままならないのだ。

「 まぁ …… それは気の毒だとは思うがよぉ … 」

「 だろ? だから、城門まで先導してくれよ! なっ!?」

「 まぁ… 仕方ねーなー 」

ジェイの勢いに押されて、レイナークは頷いた。

「 あ、でも 」

と、レイナークがジェイが振り返った時、ちょうど扉がノックされ、部屋に食事が運ばれてきた。

「 とりあえず顔洗って飯食え! 昨夜もほとんど食べてねーんだから 」

「 あ、うん 」

ぱたぱたと洗面所に駆けていく後ろ姿を見て、レイナークはやれやれと肩を竦めた。

そしてその間に、運ばれてきた肉を使ったサラダとスープ、パニーニのようなパン二つを全て毒味をしていった。

そのうちジェイが昨日の服を着て戻って来て、急いで食べ始める。

「 いやいや、もっとゆっくり …… 」

「 でも今夜人界に帰りたいから、早く行って、ちょっと遊んで挨拶して、こっちに戻って来る。だから時間が惜しいんだよな 」

言いかけたレイナークの言葉を遮り、ジェイはガツガツと朝食を掻き込んだ。


その様子をさりげなく見ていたレイナークだったが、ふと、ジェイの首筋に鬱血痕を見つけた。彼からは見えなかったが、喉元にも内腿にもある。

喉元のそれはジェイが顔を上げない限り他人から見える事は無いが、少なくとも首筋の鬱血痕にレイナークは動揺した。

跡を残したのはもちろんルトアミスしかいないのだが、レイナークはそれをジェイに告げるかどうかで悩んだ。

だが、答えはすぐに出た。

何故なら、ジェイにキスマークの意味を説明する必要性が生じそれが面倒なのと、今のジェイには跡を消す能力が無いこと、だが、その跡を城預りの下僕や下級悪魔達が見れば、少なくとも牽制になるだろうと判断したからだ。

つまりレイナークが出した結論は、 " 何も見なかった " 、というものだった。



ジェイは城門を出て、レイナークを振り返った。

「 夜までには戻るからってルトに伝えてくれよ。… でももしルトが忙しくて今夜人界に戻れないなら、側近の誰かに人界まで連れてって欲しいって伝えてみてくれないか?」

「 了解した。だが、本当になるべく早く戻れよ? 実は俺もこのあと招集を受けている。もしかしたら人界組の俺達も、今すぐにはお前の護りに就けないかもしれねぇ 」

レイナークの言葉に、ジェイは苦笑した。

「 心配してくれるのはありがたいけど。能力が使えない俺は下級悪魔にすら劣るとでも?」

「 ハッ、それは無いな 」

レイナークも笑い、しかしそれでも、

「 気を付けろ、早く戻れよ 」

そう念を押して、彼は城内に戻って行った。



側近レイナークを見送り、ジェイはくるりと城に背を向けて歩き出した。

ニッと口元に微笑を浮かべる。

( 側近の護衛がないとは、好都合だな )

ジェイは少し早足で歩き始めた。

早速、後方だけでなく、あらゆる方角から低俗・下級悪魔達がついて来る。その数は城を離れる距離と共に増していく。

( 低俗な馬鹿どもが増えているのは本当らしいな … 。確かに、昨日の十倍ぐらいには増えているか … )

そう思って、ジェイは一旦足を止めた。


ジェイは少しだけ遠くなった後ろの城をチラっと振り返り、そして村のある方向に目を遣ってから、両膝に手をつく。そしてホッと溜め息をついた。

それからゆっくりと走り出し、背後の城を振り返って両膝に手をつく。その動作を何回か続けていた時。

「 お前がルトアミスに連れて来られた人間だな?」

そう言いながら上空から降りて来た一人の低俗悪魔がいた。

やはりジェイは昨日同様、何故かムッと苛立ちを覚えた。が、その感情は心の奥へとしまい込み、悪魔から一歩後退った。

「 あなたも、悪魔、ですか?」

怯えた口調で低俗悪魔の目を見る。

すると一瞬の間に、周囲にいた悪魔や遠巻きに見ていた悪魔達が、一斉にジェイの周りを取り囲んでいた。

ハッと息を飲んで怯えるジェイに、ニヤニヤと悪魔達は下卑た笑みを浮かべた。

「 ルトアミスの城から逃げるなんて、凄いじゃぁないか! オレが人界に戻してやるから、一旦オレについて来いよぉ 」

「 いや、俺が人界に送ってやるから!」

そのうちジェイの周りに集まっていた悪魔達は、いつの間にか全員がジェイの目の前で言い争いを始めていた。

自分が自分がと喧嘩を始めるのを、ジェイはただただ眺めていた。喧嘩をしている間にさっさと抜けがけして自分を喰えばいいのに、なんなんだコイツらはとあきれつつ、ジェイは周囲の気配を慎重に探っていた。

能力封じを嵌めていても、下級悪魔の " 気 " までは感じ取れる。問題は近くに中級悪魔が居ないかどうかだ。ほとんどの中級悪魔は人界にいる筈だが、今回のルトアミスのように悪魔界に帰って来ていて、自分に目を付けているかもしれない。

ただ、中級悪魔にもなってくると、恐らくジェイの顔を知らない者は少ないだろう。だが、もし万が一ジェイがアナバスの王子だと気付かない中級悪魔が近くに居るなら、すぐに襲って来るはずだ。

かなり遠方の距離まで気配を探り、他に自分の様子を窺っている " 気 " が無いかを確認したあと、ジェイは目の前で喧嘩を繰り広げる低俗悪魔達を見渡した。


ジェイは左足で軽く跳び上がると、右半身を捻じり、右膝に反動を付け加えるように折り曲げた。

何が起きたのかとジェイの動きに注目した低俗悪魔達の体は、ジェイが大きく伸ばして振り切った右足によって、まるでレーザーで切られたかのような綺麗な形で、腹部から上下二つに別れていた。

トン、と軽やかにその反動で左に一回転して地に足を着けたジェイは、降り立った場所からひらりと背を仰け反らせ宙を舞い、悪魔達から後退した。

その刹那、ジェイの目の前には彼らの血が飛び散っていた。

「 ………… なっ 」

余りにも一瞬の出来事で、真っ二つにされた悪魔達は未だ自分の身に何が起こったのか分からないようだった。


ジェイはにっこりと笑った。

まるで何事も無かったかのように。

「 俺はただ、お前らの体に触れないように、くうを斬っただけだ。足を振り切る速さで真空を作り出しただけだから、切れ口も綺麗だし、血も少し遅れて飛び散る。痛みも遅れて来るだろうけど、その前にお前らは死ぬから安心しろ。生憎この服は気に入ってるから、たかが雑魚悪魔の血で汚したくなかった。悪いな 」

それだけ言って、ジェイは明らかに魔物の村とは違う方向へと再び駆け出した。

後には、十数人の低俗悪魔の死体が転がっていた。



ジェイは十分前後走った所で、思わず足を止めた。そこには、予期せぬ先客が居たからだ。

「 ライラ、チータ、ナグク!?」

子供達はキャッキャッと無邪気に走り回っている。どうやら鬼ごっこをしているようだった。

( やっぱり子供は、種族を越えて可愛らしいもんだな … )

思わずそんな微笑みを浮かべたジェイだったが、すぐ様ハッと我に返った。


此処は市場の裏手にある場所、つまりあと少し離れた場所には、ルトアミスから注意を受けた謎の森が不気味に生い茂っているのだ。

「 ジェイ!!!」

ライラがジェイの呼び声に気付き駆け寄って来て、ジェイの片脚にしがみつく。ナグクとチータも駆け寄って来て、

「 え、あんた、また城から出て来て … 大丈夫なのかよ?」

逆に心配そうにナグクが尋ねる。

その言葉にジェイはハァ … 、と小さく溜め息をつき、

「 アイツは久々に悪魔界に帰って来たから、下僕からの報告やらなんやらで、忙しいみたいでさ。昨日、あれから城に帰って一度も会話してねーんだよ。折角連れて来て貰ったのに、俺、早く寝ちゃったしな〜 」

思わず子供達を相手にポロッと本音が口をついて出てしまう。

まるで独り言のように呟いて赤黒い空を見上げるジェイに、子供達はなんとも言えない表情を浮かべた。

「 あ、てゆーか三人とも、あまりこの近くには来ないよう、お父さんお母さんから何も言われてないのか?」

ジェイの思いがけない問いに、三人は驚いたような顔をして、互いの目を見合わせた。

「 ジェイ、どうして知ってるの … ?」

ライラの呟きに答える事なく、

「 駄目だろ? それに此処はライラの家からは少し距離もある。悪魔にだって注意しないと … 」

ジェイが途中まで言った時。

フン、とチータが鼻を鳴らした。

「 ジェイには関係ないし! それにオレたち、よくここで遊んでる! てな訳でぇ、」

と、チータは思い切りジェイの腰を叩いた。

「 ターッチ!!! ジェイが鬼だかんなーっ!」

チータの大きな声に、ジェイの脚に抱きついていたライラもキャーッと笑顔になって走り出す。

「 あ、こら!」

三人に叫びつつも、ジェイは近くに下級悪魔の気を幾つか確認していた。


チッと小さく舌打ちする。

狙いが自分であるならまだいい。だが、もし狙いが魔物の子供の肉だとしたら … 。

瞬時にその考えを巡らせ、ジェイは表情を引き締めた。

その可能性は決して低くない。

側近達の話だと、ジェイがルトアミスの餌だと既にある程度は知れ渡っているようであり、それならば先程の低俗悪魔のようにわざわざジェイに手を出そうとする程、下級悪魔は馬鹿では無いだろう。

だとしたら、確実に狙っているのは …… 。


ジェイは咄嗟に駆け出し、右腕でライラとナグクを拾い上げ抱えた。

「 えっ?」

突然視界が変わってびっくりした二人の子供達は互いに何が起きたか分からない状態で唖然としていたが、次に目に入ったのは、ジェイにタッチして真っ先に逃げ出したチータの姿だった。


「 わっ!」

突然目の前に現れた障害物にぶつかり、チータは大きく後ろに転がり尻もちをついた。

「 チ、チーちゃん逃げてぇっ!」

「 チータ逃げろぉ!」

ライラとナグクが全身から絞り出すように大声を上げた。

何事かと顔を上げたチータの眼前には、不気味に笑う下級悪魔の姿があった。その瞬間、大きな口がチータを覆い、ノコギリのような歯が正にチータを飲み込み噛み砕かんとしていた。

「 … っ!」

チータは恐怖に身動き一つ出来ず、呼吸も引き攣り声が出ない。


ジェイは咄嗟に判断した、つもりだった。

こんな僅かな距離にいる下級悪魔など、方法など選ばずとも瞬殺出来る。しかし、そうなれば目の前で血飛沫を上げて死ぬ下級悪魔の姿は、子供達の脳裏に焼き付きトラウマになる可能性が高い。

だとすれば手段は一つ。

ジェイは空いている左手でチータの脇腹を抱え上げ、素早く横の茂みに転がった。

「!?」

チータを正に喰わんとしていた下級悪魔の視界から、その子供が消えた。

そして下級悪魔は、自分の横に生い茂る森に目を移した。

そこには、鬱蒼と茂った森だけが在り、魔物の子供達もルトアミスの餌であろう人間の姿も消えていた。



ジェイの目に映る視界が一変した。

鮮やかな緑が生い茂る、ただただ美しい樹林。木漏れ日の差す木々を見上げれば、折り重なる枝葉の間からは青空が見える。


┄┄┄┄ しまった!


ジェイは苦々しい表情を浮かべ、子供達を降ろして立ち上がった。

確かにジェイの目的地はこの森だった。




だが、ただ唯一の誤算は、魔物の子供達を巻き込んでしまった事だった。





┄┄┄┄ つづく ┄┄┄┄

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アナバスと神々の領域 【3】-前編- 舞桜 @MA-I

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