第2話 落ち着け。昨日、何してたっけ

 日高秋人は机に突っ伏したまま目を覚ました。アパートの東向きの窓からは、朝日が差し込んでいる。

(あ……いけね、寝ちゃったのか)

 顔を上げると、開きっぱなしの本のページと頬がぺりぺりと音を立ててはがれた。

 秋人は一つ大きなあくびをする。それから首と肩をぐるぐると回した。

 アパートは六畳一間の小さな部屋で、乱雑に本が積まれている。テレビ、AV機器、ベッドなど大学生の生活に必要なものは一揃いある。部屋の隅にはスキー板もあった。

「そういえば今年はスキーに行かなかったなあ……」

 埃っぽくなっている板を眺めて秋人はつぶやいた。少し不純な動機で始めたスキーだが、その動機を失ってからは所属していたサークルにも顔を出さず、スキーも行かなくなっていた。

 秋人は読んでいた本を脇にどける。『ナノカーボン複合素材の工学制御技術』という本だ。来年になれば、所属する研究室を決めなくてはならない。どの研究室に所属するかという選択権は、成績の上位者から与えられる。秋人はどうしても希望を通したかったから、サークルから遠ざかったのはむしろ良かったのかもしれない。

「とりあえず、今日は休みだし……寝なおすか」

 秋人はもう一度あくびをし、手早く上着とズボンを脱ぐ。それからベッドにもぐりこんだ。

「!!!??」

 一瞬後、声にならない悲鳴をあげて、秋人はベッドから飛び出した。

(だ、だ、誰か寝てる!)

 改めてベッドを見ると、確かに人の形に盛り上がっている。そっと覗き込むと、そこにはかわいい寝顔をした一〇歳くらいの少女がいた。

 秋人に見覚えはなかった。近所は学生街で、小さな子供はほとんど見かけない。親戚にしても、近くに住んでいるわけでもないし、大体そんな年齢の子供はいない。

 秋人は少女を起こそうと布団をめくり、それから慌てて元に戻した。

(は、裸だ……)

 なんだか変な汗が浮いてくるのを感じながら、秋人はさっきまで座っていた椅子にどさりと腰を落とした。犯罪、という二文字がぐるぐると頭の中を回りだした。

(待て、待て待て。落ち着けよ。落ち着け。昨日、何してたっけ)

 こめかみを押さえながら、秋人は記憶の糸を手繰りだした。

(図書館で本を借りるまでは、いいよな……)


 夕方、図書館で本を借り、それから秋人は掲示板を見に行った。連絡事項は通常、ネット上の掲示板かメール連絡によって行われるが、数論Ⅱの足立教授だけが未だに構内の掲示板で追試などの連絡事項を貼りだすためだ。

 掲示板にはサークル勧誘やバイト、怪しげな活動の紙ばかりで、数論Ⅱの掲示物はない。秋人が無駄足を踏んだことにがっくりしていると、肩をたたかれた。

「よう、数論の確認か?」

「夏朗」

 少し「充分な」体つきの男は、綿貫夏朗だ。秋人と同じマクロ宇宙工学科の同級で、秋人が国立宇宙工科大学に入学して最初に出来た友人だった。

 秋人は何か特別な趣味があるというわけでもなく、かといって友人が少ないわけでもない。なんでも適当にうまくやる、いわゆる器用貧乏だ。それに対し、夏朗はネットとアニメとゲームに特化したオタクだった。合わなく見える二人だが、お互いそういったタイプの友人を持たなかったせいか、二年になった今ではすっかり親友だった。

 夏朗も掲示板を見渡す。

「まだ出てないな。ったく、最先端の大学とは思えん。掲示板なんぞ未だに使うとは」

 秋人は肩をすくめた。講義を受けている学生のほとんどが思っていることだ。

「ところで秋人、この後ヒマか?」

「特に予定はないな」

「飲みに行くか、バイト代が入ったんだ」

 秋人はうなずいた。「おごりか?」

 夏朗はちっちっちっ、と指を振った。

「残念。今月は某アニメのBOXが出る」

「割り勘か」

「オレは死に金は使わん主義だ」

「死に金扱いするなよ」

 二人は笑いながら街へ出た。二人ともそこそこ飲めるが、残念ながら酒の味はわからない。安く済ませられるチェーンの適当な居酒屋を選んで、店に入った。

 お通しとビールが出てきたところで乾杯する。

「ところで夏朗、単位は大丈夫なのか? 最近見かけないことも多いけど」

「大丈夫だ。たいていの教授はネットに資料を流してくれてるし、過去のレポートの電子データも流れてる。出席をチェックする講義は最低限だけ出てる。完璧だね」

「で、あとはバイトと趣味か」

「本当はもう少しバイトの時間を増やしたいんだが、難しくてな」

「もう十分だろ」秋人は苦笑した。「稼いだお金も全部趣味につぎ込んで、色気のある話はないのか」

「オレの恋人は二次元だからな」

 夏朗はきっぱりと言い切った。

「好みの女性がいつもそばにいる」

「本物のほうが良くないか? 不毛な気もするけど」

「不毛?」夏朗は鼻で笑った。

「どこが? 宇宙工学技術者になれば、孤独な宇宙空間で一人きりになる状態も珍しくないんだぜ? 二次元なら携帯できるし電子データ化も出来る。孤高の技術者にはピッタリの趣味だと思うがね」

「……そうかなあ」

 秋人は首をひねりながら苦笑いする。

「それよりおまえはどうなんだ、秋人。確かこの間、彼女が出来たって言ってただろ」

「……別れた。言ってなかったっけ」

「聞いてないな」

 焼き鳥を食べながら、夏朗は答えた。

「理由は?」

「性格の不一致というか」

「具体的に」

「う……ん」秋人は少し言い渋った。「まあ、ちょっと違う、というか」

「坂本さんと比べて――か?」

 夏朗は核心を突いた。秋人はぐっと詰まった。

「秋人、最近人付き合いがあんまり良くないらしいな」

「勉強、してるからな」

「宮本研か? 坂本さんが所属してた。競争率、高いからな」

「…………」

 秋人には返す言葉がない。

 坂本裕子は宮本研究室に属していた修士生――だった。

 彼女が事故で死亡してから、すでに一年半がたつ。火星の中央大学で開催された、学会に向かう途中での出来事だった。火星で初の航宙機事故に、彼女は巻き込まれてしまったのだ。

 秋人は、彼女が戻ってきたら気持ちを伝えようと思っていた。今ではもう、それも出来ない。秋人はせめて同じ研究室へ進み、坂本が歩もうとしていた道を自ら歩もうと考えていた。

「あんまり根を詰めるなよ。分からんでもないが」

「ああ、ありがとう、気をつけるよ」

 それから少し、沈黙が落ちた。

「お待ちどうさま、焼き鳥追加です」

 店員が注文の品を持ってきた。二人の間にほっとした空気が流れる。重い話題を切るのにちょうど良かった。夏朗は話題を切り替えた。

「ところで秋人、この前貸したディスク、もう見たか?」

「いや、まだだ。って言うか、全部見てられない。良さそうな話を絞ってくれよ」

「絞るのか」

 夏朗は焼き鳥を串からはずし、一つを箸でつまんで食べてからうーむと唸る。

「そうだな……。話し始めの一話は捨てれんな。それから新キャラ登場の二話目も無理か。二人の絆を描く三話目も重要だ」

「ちゃんと絞ってるか?」

「まあ待て。ライバルが登場する四話目もはずせないし、トリックがすばらしい五話も見ろ。六話目はあの有名なシーンが含まれる以上、必見だ」

「ちょっと待て」

「敵の背後関係が明らかになる七話目、主人公の過去が語られる八話目。そして身内の裏切るが出る九話目、……」

「勘弁してくれよ……」

 この後は、ほとんど夏朗の独壇場だった。

 結局二時間ほど話に花を咲かせ(咲かせたのはほとんどが夏朗だったが)、二人は店を出た。

 自宅の最寄駅まで一緒に電車に乗り、駅で二人は別れた。秋人は止めておいた自転車で自分のアパートへ戻った。

 自転車を置き、階段を上ってドアの前まで来ると、一匹の子猫がうずくまっていた。

「どした?」

 秋人は声をかけた。少し青みがかった黒猫だ。ロシアンブルーにも見えるが、もっと黒が深い。猫は秋人を見上げるような姿勢に座りなおした。ドアが開くのを待っているようだ。

「おなかでもすいてるのか? ほら、中に入りな」

 多少飲んで気分の良くなっていた秋人がドアを開けてやると、猫はするりと部屋に入った。台所の、流し台の下で再び座る。

 秋人は冷蔵庫から牛乳を出し、紙皿に注いだ。

 猫がそれをなめ始めるのを見て、秋人は机についた。カバンから借りてきた本を取り出し、ノートを広げる。「ええと、応力制御の項目、と」

 ポイントになりそうなところを書き写していく。

 アルコールが回り始めていた。大きなあくびをする。

(寝るならベッドで――)

 そう思ったが、次の日が休みという緩みもあって、いつしか秋人は睡魔に引きずり込まれていた。


 昨日の記憶をなぞり終わり、秋人は安堵のため息をついた。

「とりあえず、少女を引っ張り込んでいる記憶はないな」

 自分を落ち着かせるように声を出して確認する。

「自分が部屋に入ってからドアの鍵も――閉めた。窓は」ちらりと見る。「鍵がかかったままだ。寝ている間に入ってきた、ってわけでもないんだろうなあ」

 秋人は腕を組んだ。少し、落ち着きを取り戻していた。それからふと思い当たる。

「少女は連れ込んでないけど、猫を連れ込んだな。どうなった」

 秋人は首を回して台所を見た。紙皿は見えるが、猫の姿は無い。出て行くにしても、ドアにも窓にも鍵がかかっている。

 秋人は首を戻して少女を見た。まだ安らかな寝息を立てている。なんだかいやな予感がした。

(まさか、ね)

 改めて少女を見ると、耳より上の位置、頭頂寄りの部分に盛り上がりが見えた。寝癖にしては不自然だ。嫌な予感が強くなった。秋人は覗き込むように近づくと、その盛り上がりをそっと撫でた。

 強い反発があって、ぴん、と耳が飛び出してきた。

(……猫耳だ……)

 呆然と、秋人は思った。飾り物ではない。確かに生えている。ぴくぴくとその耳が動いた。

「ふみゃ……」

 少女が小さく声をあげた。秋人は驚いて手を引っ込めた。どうやら起こしてしまったようだ。

「起きた?」

 秋人は恐る恐る問い掛けた。少女は眠そうな目で秋人を見上げながら、もう一回声を出した。

「みぃ」

(萌え……とか言うのか? これ)

 かわいい。屈託のない笑顔に当てられて緩んだ口元を、秋人は押さえた。

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