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2023年5月5日 14:08 編集済
ヒロソ様。狩野 芳崖の悲母観音は「柳」の枝を手にしています。創造神が「柳」を手にする意味が解りませんでした。三十三観音に楊柳観音(ようりゅうかんのん)があります。「衆病」を消滅させるとあります。「衆病」?後にバッチフラワーレメディーに「ウィロウ(柳)」がある事を知りました。人の心の「恨み」を癒すようです。つまり、「衆病」は「恨み」ということでしょうか。大衆の心の本質は「恨み」であると言うことのように感じます。それを創造神が手にし、また、この創造神の図像には「慈母」ではなく「悲母」と冠されています。「悲しみの母です。」これは、本当のエホバが創造し良しとされた宇宙が、やがて「恨み」の世界になると予見した創造神の姿のように感じました。「恨み」=鬼はこの世で克服されるべき課題です。「物忘れを狙う鬼に敵意を向けなければならない。」とありますが、そこまで「敵意」を持つ根底の「恨み」が鬼との縁を作っているように感じます。「恨み」を克服し手放さない限り、鬼の攻撃は止まないと思います。鬼に対しては「底知れぬ所へ落ちろ!」よりも「もとの光に戻れ!」です。形のある者は光で出来ています。鬼の存在を無害な光にして祓うのが良いかと思います。 また、「底知れぬ所へ落ちろ!」には鬼の存在を手放さない「恨み」が感じられます。「恨み」があるので何度でも攻撃を加えたいのではないでしょうか?「恨み」のエネルギーは解き放てば解き放つほど増幅されます。「恨み」を投げつけるよりも手放す事です。鬼と戦う私よりも、「恨み」=鬼を手放し克服する私です。翁のように微笑む私です。このままでは、ここまで「恨み」を持つのは「悲しみが足りない」と判断され、より厳しい悲劇に見舞われる可能性があります。「恨み」を相殺するのは「悲しみ」なのでしょうか?それで「悲母」観音なのかもしれません。悲劇に見舞われる前に「恨み」を手放される事を祈ります。
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ヒロソ様。
狩野 芳崖の悲母観音は「柳」の枝を手にしています。創造神が「柳」を手にする意味が解りませんでした。三十三観音に楊柳観音(ようりゅうかんのん)があります。「衆病」を消滅させるとあります。「衆病」?
後にバッチフラワーレメディーに「ウィロウ(柳)」がある事を知りました。人の心の「恨み」を癒すようです。つまり、「衆病」は「恨み」ということでしょうか。大衆の心の本質は「恨み」であると言うことのように感じます。
それを創造神が手にし、また、この創造神の図像には「慈母」ではなく「悲母」と冠されています。「悲しみの母です。」これは、本当のエホバが創造し良しとされた宇宙が、やがて「恨み」の世界になると予見した創造神の姿のように感じました。「恨み」=鬼はこの世で克服されるべき課題です。
「物忘れを狙う鬼に敵意を向けなければならない。」とありますが、そこまで「敵意」を持つ根底の「恨み」が鬼との縁を作っているように感じます。「恨み」を克服し手放さない限り、鬼の攻撃は止まないと思います。
鬼に対しては「底知れぬ所へ落ちろ!」よりも「もとの光に戻れ!」です。形のある者は光で出来ています。鬼の存在を無害な光にして祓うのが良いかと思います。
また、「底知れぬ所へ落ちろ!」には鬼の存在を手放さない「恨み」が感じられます。「恨み」があるので何度でも攻撃を加えたいのではないでしょうか?「恨み」のエネルギーは解き放てば解き放つほど増幅されます。「恨み」を投げつけるよりも手放す事です。鬼と戦う私よりも、「恨み」=鬼を手放し克服する私です。翁のように微笑む私です。
このままでは、ここまで「恨み」を持つのは「悲しみが足りない」と判断され、より厳しい悲劇に見舞われる可能性があります。「恨み」を相殺するのは「悲しみ」なのでしょうか?それで「悲母」観音なのかもしれません。悲劇に見舞われる前に「恨み」を手放される事を祈ります。