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2023年4月23日 02:51 編集済
ヒロソ様。養老博士の動画です。https://youtu.be/K2l5AYsYL5w人間というと人体だと思われていますが、本当は自然も含めて「人間」なのではと思います。聖書の重苦しさは自然が抜け落ちているせいであると思います。自然から目をそらし、人体だけを見ていると命が軽く見えるのかも知れません。命が自分の所有物のように見えるからです。しかし、自然が無ければ人体も成り立ちません。自然との繋がりをみれば命は自然から人体へと繋がっているように感じます。命を自分の所有物であるとは思えないと思います。生命は一つという事です。「聖書」は神を語りながら、人間をその人体へエゴへと閉じ込めてしまうように思へます。一神教は人間を中心に、多神教は自然・宇宙を中心に見る宗教であり、本来は一つのものであると思います。現実を観察すれば解る事です。違いがあるとしたら、視点の違いです。「一神教」と「多神教」の争いは、言葉に振り回される過ぎていると思います。机上の空論の一例でしょうか、それとも、争いの本当の理由は宗教では無いのかもしれません。宗教は口実でしかないのかもしれません。
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ヒロソ様。
養老博士の動画です。
https://youtu.be/K2l5AYsYL5w
人間というと人体だと思われていますが、本当は自然も含めて「人間」なのではと思います。聖書の重苦しさは自然が抜け落ちているせいであると思います。
自然から目をそらし、人体だけを見ていると命が軽く見えるのかも知れません。命が自分の所有物のように見えるからです。しかし、自然が無ければ人体も成り立ちません。自然との繋がりをみれば命は自然から人体へと繋がっているように感じます。命を自分の所有物であるとは思えないと思います。生命は一つという事です。
「聖書」は神を語りながら、人間をその人体へエゴへと閉じ込めてしまうように思へます。一神教は人間を中心に、多神教は自然・宇宙を中心に見る宗教であり、本来は一つのものであると思います。現実を観察すれば解る事です。違いがあるとしたら、視点の違いです。
「一神教」と「多神教」の争いは、言葉に振り回される過ぎていると思います。机上の空論の一例でしょうか、それとも、争いの本当の理由は宗教では無いのかもしれません。宗教は口実でしかないのかもしれません。