第774話 飾らないキリスト教とは?
「着飾ると人が寄って来るでしょ?」
「うん」
「けど、『二枚目』の道に入る」
「楽だけど落第するね」
「やはり『一枚目』の御子を知りたい」
「苦労してでも行く?」
「うん!」
・・・
ホレブで、後の神が言った。
『飾り物を外せ』
この深意を考えて納得した。
二枚目キリスト教は
→ 飾る教え
【飾る】カザル
1.美しく見えるように物を添え手を加える。装飾する。
2.外見だけを良いように繕う。
3.設ける、備える。
4.見せるために美しく並べる。
5.華やかさ、立派さを加える。
アクセサリーを纏うだけじゃなく、「上品」を装う。
華やかで立派だと思わせる。
我々は、そうした「二枚目のキリスト教」しか知らなかった。
しかし実は、「一枚目イエス」が教えた「飾らない雰囲気」は誰も知らない状態にあったのだ。
(創造主の名と同じ)
二枚目の環境から離れると、「違和感」を感じ、「ショックを受ける」場合もあるだろう。
しかしそれでも、私としては「一枚目」の教えに付き従いたいと思っている。
■一人になってもいい
これは、大きな決意である。
例えば、野壺(肥溜め)が「田舎の香水」と呼ばれていた時代なら、民家を回って貴重な肥を集める百姓の姿は普通の情景だった。
しかし戦後、GHQによる占領政策で、「それをやめろ」と言われてから、「自然農法」は「変人の仕事」と思われるようになる。
石油から合成した肥料は、上品に思えるが、土の中のバクテリアを虐め、やがて土がカチカチになってしまうのだ。
それでも人々は、「創造主に背く業」を辞めようとしない。
→ 着飾り農法に慣れてしまった
つまり今、「創造主を取るか」、「着飾りを取るか」と聞かれているようなものである。
大多数の人は空気を読んで、「品がない」と言われそうだから・・・と、
創造主を捨て、着飾りの道を選ぶ状況にある。
キリスト教でさえ、化学薬物を『当たり前』として受け入れ、創造主の精神を捨てた暮らしを営んでいる。
しかも、自分の選択に気付かないのだ。
その中で、「一枚目イエス」の精神を追う活動は、孤独以外の何物でもない。
■鬼の社会は崩壊する
創造主との親密な関係を望む人なら、「自然」のサイクルを理解するだろう。
「土」は生き物であり、有機物の宝庫である。
イエスはそうした「土の民」に対し、「自然に沿った道」を教えた。
「土を殺すな」
その営みは、二枚目の着飾りとは相当な開きがある。
「除草剤で綺麗にせよ」
人が創造主に寄り添って生きる決意をすると、「飾るキリスト教」が不自然に思えて来る。
つまり、昔ながらの日本の精神こそが「一枚目イエス」に近いのだ。
そこにあるのは、
『飾らないキリスト教』
我々は鬼から離れ、素顔で御子に従いたい。
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