応援コメント

第700話 お天道様の意味を知った」への応援コメント

  • ヒロソ様。

    高橋巖氏が「シュタイナーコレクション4 神々との出会い」の解説でリルケの「ドゥイノの悲歌」を取り上げ…ここでリルケが天使と呼んでいるのは死のことだ。ここでリルケは死と正面から向き合っている。…という主旨の事を語っています。

    しかし、私が気になったのは以下の文章にあるように「男たちに裏切られ、傷つけられて、死んでいった女たちの声を詩人が委託として受け止めていることです。」・・・長文になりますが以下、抜粋。

    それに続いてリルケは、一体自分はこの世で何のたえめに生きているのだろう、と思うのです。そこのところを、こんなふうに書いています。
    「春はおまえを頼りにしている。星々はお前に感じ取ってもらいたがっている。窓から聞こえてくるヴァイオリンの音は、お前に聴いてもらいたがっている。それらすべては委託であった。しかし、おまえはその委託に応えていない。まだ出会えずにいる恋人へひたすら期待をかけ、その空しい期待と幻滅に心を痛めることしかできていない。」
     だからもし、委託ではなくて、おまえの心が憧れに満たされたいと思うのならば、自分のことを考えるよりも、かつて相手に捨てられた女たちのことを考えなさい、というのですが、ここの言葉は凄く美しいのです。男たちに裏切られ、傷ついて、名もなく死んでいった女たちのことです。リルケは女たちのことを、その遺されている書簡などを読んで、その心を思いながら、こんなふうに歌うのです。
    「名もなく死んでいったひたすら愛した女たちは、本当の意味で委託を受け入れた人たちではないだろうか。自分は委託を受けていても、応えようとしないけれども、あの女たちこそ、本当にものからの委託に応えているのだ。英雄は委託に応えていない。英雄は生き続ける。たとえ破滅したとしても、よみがえるための口実にすぎない。」
    「今こそ、これら昔の女たちの苦痛を、私たち自身のために、より豊かに、委託として受けとるべきではないのか。今は私たちが愛しつつ、おののきながら、耐えぬくべきときではないだろうか。安心立命はどこにもない。声がする、声が。聴け、わが心よ」。
     そう歌うのです。この「声がする」の「声」といのは、死者の声のことです。
    「声がする、声が。聴け、わが心よ。かつて聖人たちだけが聴いたように聴き方で」。
     けれども神の声を聴け、と言うのではないのです。若くして死んだ者たちは、何を望んでいるのか。彼らの霊は、「純粋な働きをわずかでも妨げるような、悲運の外観を、そっと取り除いてくれ、と求めているのだ」と書いています。
     あんなに若くして死んだ、かわいそうな人、という思いが死者のたちを妨げているから、そういう外観をそっと取り除くように、自分に以来が聞こえてくる、と言っています。・・・(p.351~)

    何故、詩人はこの女たちの委託を「純粋な働きをわずかでも妨げるような、悲運の外観を、そっと取り除いてくれ、と求めているのだ」と受け止めているのでしょうか?

    その「純粋な働き」とは何だったのでしょうか?何故、詩人はこの委託にかくも真剣に応えようとするのでしょう。今回のヒロソ様のお話の「捨てられた女」で理解できたように感じます。「捨てられた女」は二枚目に騙され、主に捨てられたキリスト教徒たちの事をさしていたのだと…。

    二枚目に騙され、主に捨てられたけれども、主をひたすらに愛したことは真実であった…ということでしょうか。主をひたすらに愛すことが出来たのですから「かわいそうな人」ではないと詩人は歌い上げようとしたのでしょうか。この女たちこそ、主の委託に応えていると…。

    「今こそ、これら昔の女たちの苦痛を、私たち自身のために、より豊かに、委託として受けとるべきではないのか。今は私たちが愛しつつ、おののきながら、耐えぬくべきときではないだろうか。安心立命はどこにもない。声がする、声が。聴け、わが心よ」。という文章にはこの二千年のキリスト教徒の悲劇を感じます。