第599話 イエスと水戸黄門漫遊記

「今度の夢は解けるかな?」

  「どれどれ?」

「清水の舞台みたいな場所」

  「へー」

「そこは孤独で嫌だった」

  「なるほど」

「しかし、動けないのよ」


・・・


これは「神の気分」だろうか?

直後に浮かんだのは、

この聖句だった。




マタイ 23:37

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。




イエスは「雌鳥」。

そして「神輿」がシンボル。


神輿とは「移動の箱」だ。

だから、担ぎ手が付いている。



我々は、神が一箇所に据え置かれ、その安定状態を好むと思っていた。


しかし、モーセの頃、神の箱は「テントの中」に置かれ、常に民衆と共に移動した。


神職である「レビ」は、テント設営と移動が仕事なのである。


→ 神は身軽に移動する


これなら、「雌鳥」の例えに合致するはず。


イエスは「ここまで来い」という態度ではなく、雛のいる場所に行ってそれを羽で包む。


当時の宣教でも、そうした移動の形が常だった。



ちょうど、「水戸黄門漫遊記」のように、諸国を巡り民衆の憂いを取り除いた。


これがイエスのスタイルなら、神殿の中に固定される形は望まないだろう。


『雌鳥のように』という言葉から、そのように感じ取れるのではないかと思う。




 ■鬼には都合が悪い


神の箱が、伊勢神宮に据え置かれ、遠くまで目が届かない状態を、一番喜ぶのは鬼だろう。


しかし、神輿が全国を巡り歩くとすれば、落ち着けなくなる。


契約の箱に天秤棒が付属して、どこにでも移動できる形にされているのも、そうした理由からではないかと思った。


つまり、「移動」こそが正しい祀り方であろうと感じる。


まして、地下に設営して衆目から隠す方針などは言語道断。


いくら全国にレプリカの神輿を置いても、神の気持ちに沿っているはずがない。


→ 行いは、背教の極み



「夢」と「イエス」と「水戸黄門漫遊記」を比較してそう思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る