応援コメント

第517話 神輿はクッションとなる」への応援コメント


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    ヒロソ様。

    神輿の機能ですが、ユダヤ人達がイエスに望みイエスが拒否した「王」の代用のように見えます。イエスが拒否した事を神輿が行うというのも妙です。ヒロソ様のお話ですと再臨のキリストは王になるかのように受け取られます。


    https://youtu.be/3Gh8oq1zo0Y


    上の動画はテーラーワーダ仏教の長老の講話です。この中で神に自由は無いとあります。誰かを救おうとしても、当人の業を越えて助ける訳にはいかないという意味のようです。正にそれが人が救われない理由です。祈願の限界もここにあります。

    奇跡とは何か?16:08「プログラムを変えて見せる。」とあります。キリストが他の神と違う点はここです。本人が心から懺悔すれば、その業を消すことが出来るという事です。「プログラムを変える手助けが出来る。」事です。

    他の神は、その人の業を使って、その人に必要な事を出現させ助ける事が出来ます。キリストは人の心からの悔悟により業を消去する事が出来ます。これがキリストの救済の力だと思います。

    どんなに良い王や国を願っても、私達に、それに見合う業がなければ得られません。神々がいくら助けようとしても、助けられません。

    ですから「奇跡とは」人が「プログラムを変えて見せる。」であり、その力は既に持たされているという事です。私自身の「原因となっているプログラム」を変えない限り、私の関わる世界も変わらないと考えられます。

    シュタイナーがカルマをキリスト教世界に再度定着させようとしたのは、この考えを受け入れない限り救いは無いからだと思います。現在の聖書のロジックですと永遠に戦い待ち続けるように仕組まれているように感じます。