第512話 神輿は自力で出られるか?

「最近は一進一退だね」

  「まあ、期待ほど進まないね」

「年、越せる?」

  「なんだか危なそう」

「御子を起こしたら?」

  「それか」


・・・

義人の願いは無視されている。

狡賢い鬼は、ニヤリとする。


「引き伸ばせば」

「かなり死ぬぞ」


それほど、貧者の年越しは危ない状況だ。


ならば、我々が念を送って起こせないだろうか?


隠された「子(ね)」である神輿に向けて。




 ■貧者の願いは「自力帰還」


「貧者が大勢死にそうです」

「急いで起きて」

「お救いを」



救いの力は「神輿にある」…と思う人なら、そう祈るだろう。


神輿がダゴンの神殿から戻ったのは、他力によらぬ自力救済だった。


敵の霊媒師がその神罰を恐れ、「『ね』の力」に敬意を表している。


日本に『根』を張る樹木とは?


→ 「子(ね)の弟子」の系譜


神の力は、魚の腹から出たヨナによって封じられているが、人々の遠隔思念が届けば・・・


石文を投げる時、鬼への遠慮など必要だろうか?



【鬼を膾にして食う】

恐ろしいものをなんとも思わない事にいう。



【膾】ナマス

1.薄く切った魚肉を酢に浸した食品。

以下略…



イエスの弟子たちは、「魚」という符丁を使った。


それは、「恐ろしい」というヘブライ語「SAKANA」である。


聖書の符丁「魚」には、「御子への敬愛」(イクスース)に加え、「鬼の恐ろしさ」を重ねているようだが、イエスや弟子たちの食事風景は、何時も魚である。


※ 福音書には、動物の肉を食べる風景が描かれていない。


「膾」は保存食なので、弟子たちにはおなじみだったのだろうか?

(不明)


いずれにしても、日本の庭に「ギョッとする魚」が回遊し、ユダヤの先人もギョッと驚く完璧な「ダゴンの神殿」になってしまっている。

(→ 偶像国家)


「子(ね)」が隠された現代日本は、柱の腐った家となり、「御子のお出まし」を願うくらいしか打開策を思い付かない。


※ 出現の影響は大きいと思うが、他に無いのだ。

(鬼がのさばる→貧者が死ぬ)



もう後が無い。

祈りの石文を投げてみよう。


「神輿は自力で出られるか?」


御子よ、お出ましを。



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