応援コメント

第493話 天邪鬼とアブラハム」への応援コメント

  • ヒロソ様。

    結局、聖書は悪魔の所業を綴った書のように思えます。悪魔について学ぶのには適しています。悪魔については語ることが出来るのでしょう。しかし、神については語ることが出来ないように思います。

    ユダヤ人の離散をググったところ2700年前とあります。神武天皇の生誕と重なります。神武天皇以下、天皇は日本では異質な存在であったように感じます。天皇さえ無事でいれば日本は安泰という、天皇教の布教により細々と生き長らえてきたように感じます。

    もう選民をかくまう時期は過ぎたとのヒロソ様のお話から、日本の神々が受け入れかくまってきたにも関わらず、日本に仇なし天皇教の陰に隠れて日本を牛耳ってきた選民も消えていくのでしょうか?

    選民など所詮は太陽悪魔の選んだ民。我々はその選民を受け入れ罪も共に負っている訳ですが、自分の責任とであると引き受けなければ、その件に口出しが出来ないからだと考えられます。恐らく、こうでもしないと地球全体が太陽悪魔に飲み込まれたのでしょう。

    神国日本において太陽悪魔の選民を受け入れる事により、日本の神々がこの件について口出しが出来るようになったという事です。これしか救済の道は無く、その道を開いたのはキリストと言えます。

    しかし、太陽悪魔の選民を実際にかくまったのは日本の神々であり、イエスの弟子でもなければ、キリストでもありません。キリスト教徒はイエスを愛するあまりに、全て良き事はイエスの手柄にしてしまいますが、失礼の極みと言えます。伊勢神宮が素晴らしいからといってキリストの宮と言うのは日本の神々と日本人の苦労を忘れています。結局、悪魔の宗教=一神教から抜けきれていません。

    日本において太陽悪魔の選民を受け入れた為に、我々日本人がどれ程苦労してきたか?何故、私が見に覚えのない悪魔の攻撃を受けるのか?私の血統に藤原氏が入っているセイなのかと思っていました。

    藤原氏に滅ぼされたと苦情を言う亡者の一団に絡まれた事もあります。その非道な所業は先祖故に目の当たりにしました。彼らに限らず、特権階級は狂っています。また、藤原氏とて選民なのでは無いでしょうか?

    その狂い方には、母親自ら我が子も手にかける異常さがあります。「戦乱でエルサレムにおいて兵糧攻めにあい。己の子供迄も食した」歴史と関係があるように思います。この時に、我が子を食した女は自分の罪を認められず、気がふれて転生を繰り返しても同じ事を繰り返すのでしょう。

    ここに来て、やっと悪魔に絡まれる理由が理解できました。選民は太陽悪魔の選んだ民なのだと言う事です、その罪を日本人が負ったという事です。

    結局、国の外からはユダヤ人に、内側からは選民に、この国は牛耳られていたという事です。この選民の罪深い血を薄める為に、日本の神々の子供等が何千と降りてきたのだと思います。

    キリストは重要な神ですが、キリストだけが神ではありません。多くの神々が人を支えています。ヒロソ様は一神教=悪魔の宗教の洗脳からキリスト以外は悪魔と思い込まされ、神々の守りから遠ざけられているように思います。選民とて日本の神々の懐に飛び込まなければ救われませんでした。キリストのみで救われるのなら、選民はイスラエルを捨てる必要は無かったと思います。

    作者からの返信

    ご意見、有り難うございます。

    残念ながら、私の周辺は鬼か、神に化けた鬼ばかりです。

    過去のカルト時代、二枚目を神と思って熱烈に救いを求め、妙な救助を受けた記憶はあります。

    しかし、肝心の人助けが出来ず、おかしいと感じ始めていた頃に、ある切っ掛けがあってそこを出て、その直後から鬼が纏わり付く経験が続きました。

    手の平を返したかのように、襲って来ます。

    それ以前は、神社の氏子であったのですが、救いよりむしろ一家相ぐるみで鬼の攻撃を受けた記憶しかありません。

    地上にも天の神の使いであるガブリエルなどが来ているとは思いますが、少数派でしょう。

    鬼は遠い先祖の罪に拘り、それを理由として何代にも渡って絡んで来ます。

    霊感がある人はいいのですが、私には抜けているため、迂闊に何でも拝めないのです。

    亡き父は戦地で妙な体験をした結果、手当り次第拝んでしまう人になったと聞いています。

    崖を落ちて死のうかという時、奇跡的に助かったのですが、その時、狐のような獣の臭いがしたと語っていました。

    内地に戻ってからは努力家でしたが、拾ってきた石でも拝んでしまう人なので、「危ない」と感じていました。

    そうした家系の因縁から逃れる意味もあって、本物志向に没頭している人生です。

    私の記事は「考察」であって、宗教ではありません。今もまだ探求途上なので、この先も掘り進めるつもりでおります。