第486話 楽園の蛇は何者?
「楽園でイブを騙した蛇だけど」
「うん」
「何者だろ?」
「ヒントはモーセにある」
「どんなの?」
「後からの蛇」
「それは?」
・・・
イエスの言葉がヒント。
ヨハネ3章(十字架に掛かる蛇)
13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
イエスは自分を「蛇」に例えた。
モーセが「青銅の蛇」を作って竿に掛け、それを仰ぎ見たイスラエルの民が癒やされた。
イエスは「命を取り戻す蛇」という意味であり、
その逆の「イブを騙した楽園の蛇」は「命を奪う主」の象徴である。
■「命を奪う主」
我々は、それが「二枚目」であるという感触を得ている。
地を這う蛇は「民に密着して暮らす教師」のような存在であり、イエスがユダの選民を教えた状況を、「蛇が地を這う」と描写出来る。
つまりイエスの言葉から、楽園の蛇もまたイエスのごとき立場にあった人物だと考えられるのだ。
そしてそれは、赤い龍の尖兵として日本まで追い掛け、指導者の背後から水臭い教えを撒き散らした。
その結果、神の女(皇統)は残されたが、民衆がそれを全て飲み干してしまったのだ。
例えば、「仏教」などはそうした尺度にピタリと当て嵌まる。
教え広めた人々は、複数の蛇だったかも知れない。
各家庭に密着する存在として、僧侶ほど適役はいないだろう。
(私見)
寺院の庭に、巨大な鬼の像を見て驚いた事もある。
これは、サンタクロースやマスコットのような鬼を子供たちに受け入れさせ、警戒心を麻痺させる手法であろうと考える。
民衆はあまりにも油断し過ぎている。
「バール崇拝」を一般に広める手法も、これだった。
→ いない・いない・ばぁ
無害に見えるおちゃらけで、表面を覆いつつ、実は恐ろしい策略が潜んでいる。
「世の支配者」が(初期の)「蛇の輩」である以上、民衆は自分自身の敏感さで危険を逃れるしか方法が無いのである。
結局、「楽園の蛇」は
終わりの日まで人類に密着し、生贄を得ている存在だと用心しよう。
それは実に危険である。
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