第320話 背中から来る幸せ論
「幸せになりたい」
「ならば祈れ」
「どう祈ればいい?」
「人の幸せ…を」
「はあ?」
「そしたら背中に来る」
「何が?」
「祝福」
「背中に?」
・・・
これは夢のヒント。
目覚めて思った。
人は内向きに考えている。
「自分が、自分が・・・」
しかし、祈りの念は外に放つべきものであり、私の夢はそれを教えていた。
→ 迷路の中で一生を終わる老人たち
私は部外者。
(近況ノートに書いた)
「規格化された一生?の夢」
彼らを援助する物は何も無いが、念を送り出す事は出来る。
「この人達、幸せになれ」と。
つまりこれが、自分のためになる祈りだった。
「祈り」という言葉は、このような意味だろう。
→ い・のり
「伊の神」に「祝詞」(のりと)・・・
いや、「伊宣」が近いだろうか。
【宣る】のる
※ 本来、神事の用語。
言う、延べる、告げる、宣言する。
通常、人は内情を告げ「お救い下さい」と祈る。
すると、伊の神は夢で答えを送ってくれる。
「老人迷路」の夢は、それに関連していたと思う。
意味は
あなたが彼らを救えば、背中からあなたの救いが来る。
私には与える持ち物は何も無い。どうやって救えるのだろうか?
まず、純真である事。
それが、イエスの言葉から理解出来る。
マルコ10章 (子供に権利)
13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
子供は素直で純真。
神の国は「彼ら」のために準備されている。
次に、この出来事が書かれている。
(ラクダと針の穴)
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
これは確かに、エルサレム脱出に関しての記述だろう。
しかし同時に、施しが権利に繋がる・・・という理解も出来る。
私利私欲に閉じ籠もらなければ、幸せを背中に背負えるという示唆なのだ。
キーワードは「素直」と「施し」と「念」(外向き思考)。
人は自分の幸福を求めて、「内向き」に考えるものだ。
しかし実は、「送り出す」事の方が重要なのであり、「自分に確保しよう」と考える傾向は逆効果をもたらす。
彼が前に向かって送り出したものが、自分の背中に帰って来るのだ。
思い出そう。
「警察官が短命である」と書いたことがある。それは勝手な想像じゃなく、実際に関係者が吐露してくれた情報である。
交通取締りをしている彼らは、自分たちが送り出した行為への反射を背中で受けている。
もし、感謝される事柄を送り出していたら、彼らは長寿の集団になれただろう。
前に向かって送り出す仕打ちと念は、地球を一周して背中に到達する。一瞬で。
それは光に似て、七回以上も回って来るほど早い。
これに気付かされた私は、夢の中の迷路の老人たちに向けて強く祈った。
「この人達、幸せになれ」と。
■左の手が邪魔をする
以下の聖句も掘り下げた。
施しをする時は、右の手のしている事を左の手に知られないようにしなさい。
(マタイ6章3節)
イエスの正論が「右手」、サタンの邪論が「左手」である。
「施しの念」を感じ取ったサタンは、即座に邪魔を入れに来る。
純粋な動機で始めても、やがて賄賂や私利私欲が介在し、福祉業務も見せかけに変じる方向に風が吹く。
上層部、金持ちを取り巻く金銭の流れは、どす黒く汚れているという話。
持たざる人は、むしろ幸運だった。
「背中から来る幸せ」を心がけよう・・・
いつも。
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