第316話 巨大な盲点
「盲点って怖いよね」
「そうだそうだ」
「有るのに見えないんだから」
「阿の狗か」
「吽の獅子はどうなるのかな?」
「さー」
・・・
私達は何もかも、この目にしっかり見えている・・・
そう思っていた。
鬼は盲点を作り出し、そこに有るものでさえ隠すのだ。
それが神社正面の「阿の狗」であり、ルシファーの座であった。
ヨナ書にはまだ、発見すべき点が隠されているだろう・・・
ヨナ書の神は、ヨナにこう告げていた。
ヨナ書4章
10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
「自分が労せず」というなら、それは「二枚目」。
彼はイエスが去った日没後、登場したが、既に一幕は終わっていた。
イエスの弟子たちは、昼の主である「一枚目」に育てられ、日本に天孫降臨後の基礎を構築。
他方、墓の前の二枚目(その勢力)は、育てる努力をしていない。
路線を曲げ「異邦人の畑」に誘導はしたが、「日没後」に列島の地に繁茂した神道には携わっていないのだ。
■一夜のトウゴマと他の比較
インド仏教やその他の宗教が、「一夜」という言葉に合致しないのは確かである。
イエスの時代が
→ 昼
釈迦の時代は、イエスより前であり、トウゴマに合致しない。
カザールのユダヤ教もモーセの時代に遡る。
これらは昼をまたぐ夜に属するので、「一夜」という表現は使えない。
「イエス以前の夜」に合致するユダヤ教の歴史は残されて不思議ではないが、滅ぶ可能性を秘めているのは「日没後に生じて成長したトウゴマ」・・・
→ 「神道」(天孫降臨以降)
もちろん、異邦人のキリスト教は、「一枚目イエス」の関与とは切り離されているから論外。
生前のイエスが「異能人の道に行くな」と告げていたように、畑が違う場所に一枚目はタッチしていない。
さて、
神社の狛犬が古くからあったにせよ、「狛犬は偶像である」と知りながら正統派が真正面にそれを据えるだろうか?
考えられない。
出雲勢力が神輿を所持していた事を思い出そう。
もし出雲族の初期に現在のような形に偶像設置がされようとしたら、イザヤはそれを許さなかっただろう。
神輿は、ダゴンの神殿に有った偶像でさえ倒してしまうのだ。
そうそう、これも神輿を出せない理由の一つだった。
現在の日本がもし神輿を地下から出して神殿に安置したとすれば、
奈良の大仏も鎌倉の大仏も損傷を受けるだろう。
それが仏教を容認した聖徳太子の時代であれば、仏教派は、あまりの惨状に声さえ出なくなっただろう。
だからこそ、偶像が優先され、神輿は地下へと追いやられ、御子(神輿)は眠ってしまい、日本は戦争からも護られなくなったのだ。
・・・
イスラエルの神殿にはもちろん、偶像は置かれていなかった。
それは玄関の偶像も同じ。
日本に来たイザヤの後継者は、家の正面に何も無い「祠」のような神殿形式を続けたはずなのだ。
※ これは見ていないから断言は出来ないが。
ただ、現在の神道形式が否定されるようになっても、ピラミッドのスフィンクスに相当する「吽の獅子」だけは天の意向に沿うのではないかと考えてもいる。
それが、洪水後、ギザに残された情景であるからだ。
見上げる偶像であるスフィンクスの存在を天が許した・・・
これもまた、「巨大な盲点」と呼ぶ必要があるのだろう。
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