第273話 びっくり話「片手を捨てる?」
「日本語と英語の源流は?」
「コイネー!」
「なら、びっくりを探して」
「近いのがあるよ」
「どんな?」
【bickering】ビッカリング
(些細な)口論、いさかい。
「人に脅されるとこう言うね」
→ もー!びっくりするじゃん…
(bickeringする)
「あー、過敏反応!」
「そう!」
「するとびっくり話は?」
「大げさ表現かも」
・・・
イエスの話も、その一種だ。
慣れてないと、本気で受け取ってしまうだろう。
(片手で入る王国)
マタイによる福音書 18:1-14
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
イエスの弟子たちは、こうしたびっくり話(大げさ表現)に慣れていた。
だから弟子たちが構築した日本文化は、大げさ表現でもびっくりしない。
「僕が自腹切って払うよ」
「悪いね」
外国人が耳にすると、「切腹するのか?」と思うだろう。
「bickering話」をまともに受け取って正気を失うと、言葉の真意が掴めない。
イエスが告げていた「片手を失う」という話を、日本人はこのように受取る。
→ 「担い手」が片方消える
例えばそれは、神社の狛犬の片方(阿の狗)が消滅するという話であった。
神殿の守り手が一つになってしまう事態は、神の立場からすれば「一方の手」が消えるようなものである。
「見張りの目」も片方だけになるから、寂しい状況ではある。
実はそれが、エジプト・ギザに一つだけ残されている「スフィンクス」と一致した情景であった。
人類は「阿の狗」(鬼の勢力)を捨て、王国に入る事になる。
しかしそれを、はっきり告げてしまえば、モドキのイエス(二枚目)が支配するキリスト教世界が書物としては残さないだろう。
未来を読む御子だからこそ、後世に残せる形に話を整えたのだ。
そしてその深意が読めるのは、「びっくり話」が理解出来る日本人だけなのである。
光栄な立場と言うしかない。
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