第229話 なぜ最初が最後に?
「気になる言葉があってね」
「福音書かな?」
「そう」
「どれ?」
「最初が最後になる」
「あれか」
・・・
分析しよう。
これは「ぶどう園での労働」に関しての話である。
マタイ
20:1
天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
20:2
彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
20:3
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
20:4
そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
20:5
そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
20:6
五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
20:7
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
20:8
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
20:9
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
20:11
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
20:12
言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
20:13
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
20:14
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
20:15
自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
20:16
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
「ぶどう園の雇人」は、歴史の長期間に嵌め込むピースである。
(ぶどう園→ イエスの園)
一世紀当時に雇われた者は、最後(近代)に雇われた者と給与が同じだった。
歴史が対比されると、こんな意見が出る。
「それは変だ」
文句を言う古参労働者の国に、主人は(扱いの点で)「後先が逆になる」と教えているのだ。
現代に照らして考えよう。
もし今、「緊急放送」があったら、
どれほどの日本人が理解し、
どれほどが面食らうだろう?
※ 彼らは「先の者」だが、理解に至らない。
例えば、
→ 終わりの日が来ました
すると・・・
「世界が終わるのか!」
「ついに核戦争か!」
これが
日本人多数の感性。
※ 現代日本という国は、「聖書などアーメンさんの教えだから」・・・と逃げる人が多数を占める。
彼らが世界を主導していたら、
大混乱になってしまう。
しかし、西洋の頭はこうだ。
「あっ!主が来られた!」
キリスト教国も、悪い誘導に掛かれば混乱するだろう。
しかし少しのヒントで
→ 察知する
【such】サッチ
原義 そのような(もの、人)
1.そんな、あんな。
2.とても…な。
3.当該の。
4.…のようなもの。
Such worry iz needless.
(そのような心配は無用)
たとえ二枚目が息を掛けていたとしても、聖書を学ぶと「イエスの言葉」と「黙示録」が繋がって察知できる。
→ 最後の救いの日だ!
聖書を知ると、構えが変わるのである。
■水臭い日本の教え
実は、大和朝廷の前身こそ、最初にイエスの到来を出迎えたユダ族であった。
しかし、エルサレムが壊滅し、イエスの弟子は逃げ出し、その後を世の神の勢力が追い掛けた。
黙示録は教えている、
→「蛇が女の後ろに水を吐いた」
※ 蛇は「地」に腹をこすりつけている存在なので、常に選民に密着している「鬼」だろう。
この「追い掛け」と「履いた水」(教えの混乱)が無ければ、聖書の教えが日本にあったはずなのだ。
つまり、
「水を後ろに吐く」のは・・・
「1」天皇制排除
「2」国家の歴史撹乱
「3」水没教理を大衆に飲ます
こうした狙いがあった。
「神」と「紙」が同じ発音であるのは、日本に向けたヒント。
吐かれた水により、「神(紙)の書物」がびしょ濡れになって判読できなくなってしまうという示唆である。
かろうじて読めるだけの情報しか残されない。
それで日本神道は、そのままでは意味を汲み取る事が出来ない形にされている。
「蛇の水」を「地」(一般)が吸い込んでしまったので、エデンの詐欺師がばら撒いたような教えも広まっている。
とても、主の再臨を受け入れる体制ではない。
だから、ぶどう園での労働を「最後」に経験した人々が「最初」に(報酬を)受けるのである。
■緊急放送への反応
世界がショック状態になった時、
キリスト教で育った人々なら、聖句の意味と照らし合わせるだろう。
マタイ
24:27 (電撃の到来)
ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
24:28 (食い物に集まる鬼)
死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
24:29 (権威の喪失)
しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24:30 (大衆も認知する)
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31 (選民コミュニティ?)
また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
24:32 (いちじくを読め)
いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
「いちじく」である「ユダヤ教徒」は、イエスを拒否する人々。
彼らに太陽の光(イエス到来)を求める姿勢(葉=派)が出て来ると、「救いが近い」という意味にも取れる。
中東「イスラエルの都」は典型的な「最初の地域」であった。
しかし結局、現代ユダヤが「太陽」を拝む(受け入れる)のは最後になるのかも知れない。
そんなわけで、
「なぜ最初が最後になるか?」という質問については、
「受け入れ体制が鍵」と言うしかない。
※ 天軍には、西洋人の単純明快な理解が必要だったのだ。
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