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2022年6月29日 14:48 編集済
ヒロソ様。伊勢神宮のどこかに、或いは、別宮にキリスト・イエスが祭られている可能性はあります。また、祭神でなくとも伊勢神宮に降りる事はできます。伊勢神宮にキリストを見たからといって、そこがキリストの宮であるとは限りません。ヒロソ様はそのおつもりが無くとも、私は伊勢神宮をキリストの宮であると言い切ることは危険であると思います。何故なら、二枚目のキリスト教に利用されかねないからです。また、度々もうしあげました。伊勢神宮内宮正殿にはキリストは祭られていません。それは真実です。また、伊勢神宮内宮正殿をキリストの宮であると言う事に於て、伊勢の大御神を始め多くの神々の働きを否定する事にもなります。虚偽を語る事は許されません。聖霊への侮辱が許されない事はヒロソ様の福音書の引用にもある通りです。そして、国家神道に結び付いている伊勢神宮にキリストを結びつけるのも危険であると思います。何故なら、この国は神国だと戦争に突っ走った訳ですが、その「神国」を、今度は「キリストの国」と言い換えて悪夢の再来となりかねないからです。これは、明言出来る事柄ですが、キリスト・イエス=太陽を国に委ねる事は危険です。何故なら、太陽は「自我」だからです。国家神道と結び付く伊勢神宮をキリスト=太陽と見なす事は、自分の「自我」、つまり「私」自身を国家に委ねる事になります。全体主義が出現します。苦しいから国を頼る、神国を待ち望むのでは二枚目の思う壺ではありませんか!それでは、二枚目のキリスト教と変わらないではありませんか!苦しさから逃げずに、苦しさを受け入れ極北の地で自分の無力さを受け入れた時にキリストとの出会いがあります。「神国の到来」では断じてありません。「キリストとの出会い」です。仰る通り、楽になる訳でも裕福になる訳でもありません。「出会い」があるだけです。キリスト・イエスは「私」以外の他の宮に祭られるのではありません。本当のキリストイエスの宮は「私」なのです。順番を間違えないでください。キリスト・イエスの宮になった人が神国に住むのです。神国が到来してもキリスト・イエスの宮になっていなければ、神国に住む事はできないのです。キリスト・イエスの宮になっていない人が神国に住むことが許されたとしても、キリスト・イエスの宮になっていない人にとって、その神国は地獄に感じられることでしょう。その国にある当たり前の「愛の行い」は、今の我々には途方もない重圧としてのし掛かる「義務」にしか感じられないからです。キリストをそれが神国であったとしても国に委ねるのは多神教と変わりありません。キリストを神の王として、唯一の神として自分の外部に見ようとするからです。「神の王」を認める事は、その配下の多くの神を認めることになり、多神教と構造的に同じであると思います。ここに、キリストが何故「王」ならなっかったかという理由があると思います。つまり、キリストを自分を支配する存在として自分の外に置いてはならないという事です。キリスト・イエスを自分の「私」にしなければならないという事です。
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ヒロソ様。
伊勢神宮のどこかに、或いは、別宮にキリスト・イエスが祭られている可能性はあります。また、祭神でなくとも伊勢神宮に降りる事はできます。伊勢神宮にキリストを見たからといって、そこがキリストの宮であるとは限りません。
ヒロソ様はそのおつもりが無くとも、私は伊勢神宮をキリストの宮であると言い切ることは危険であると思います。何故なら、二枚目のキリスト教に利用されかねないからです。
また、度々もうしあげました。伊勢神宮内宮正殿にはキリストは祭られていません。それは真実です。また、伊勢神宮内宮正殿をキリストの宮であると言う事に於て、伊勢の大御神を始め多くの神々の働きを否定する事にもなります。虚偽を語る事は許されません。聖霊への侮辱が許されない事はヒロソ様の福音書の引用にもある通りです。
そして、国家神道に結び付いている伊勢神宮にキリストを結びつけるのも危険であると思います。何故なら、この国は神国だと戦争に突っ走った訳ですが、その「神国」を、今度は「キリストの国」と言い換えて悪夢の再来となりかねないからです。
これは、明言出来る事柄ですが、キリスト・イエス=太陽を国に委ねる事は危険です。何故なら、太陽は「自我」だからです。国家神道と結び付く伊勢神宮をキリスト=太陽と見なす事は、自分の「自我」、つまり「私」自身を国家に委ねる事になります。全体主義が出現します。
苦しいから国を頼る、神国を待ち望むのでは二枚目の思う壺ではありませんか!それでは、二枚目のキリスト教と変わらないではありませんか!苦しさから逃げずに、苦しさを受け入れ極北の地で自分の無力さを受け入れた時にキリストとの出会いがあります。「神国の到来」では断じてありません。「キリストとの出会い」です。仰る通り、楽になる訳でも裕福になる訳でもありません。「出会い」があるだけです。
キリスト・イエスは「私」以外の他の宮に祭られるのではありません。本当のキリストイエスの宮は「私」なのです。順番を間違えないでください。キリスト・イエスの宮になった人が神国に住むのです。神国が到来してもキリスト・イエスの宮になっていなければ、神国に住む事はできないのです。
キリスト・イエスの宮になっていない人が神国に住むことが許されたとしても、キリスト・イエスの宮になっていない人にとって、その神国は地獄に感じられることでしょう。その国にある当たり前の「愛の行い」は、今の我々には途方もない重圧としてのし掛かる「義務」にしか感じられないからです。
キリストをそれが神国であったとしても国に委ねるのは多神教と変わりありません。キリストを神の王として、唯一の神として自分の外部に見ようとするからです。「神の王」を認める事は、その配下の多くの神を認めることになり、多神教と構造的に同じであると思います。
ここに、キリストが何故「王」ならなっかったかという理由があると思います。つまり、キリストを自分を支配する存在として自分の外に置いてはならないという事です。キリスト・イエスを自分の「私」にしなければならないという事です。