第212話 「ローマ人ヘの手紙」から
「イエス以後の分析できる?」
「なんで?」
「夢のお告げがあったから」
「?」
・・・
夢の中で「ローマ人への手紙」という文言が浮かんだ。
意味不明。
そして、
「日本はローマである」という意識も生じていた。
(確かに選民ではない姿だが)
当初、使徒パウロはサウロという名であった。
誰もが震えるほどの迫害者であったが、突如、翻って熱心な信者となる。
彼を会衆に引き入れたのが、「二枚目の主」だ。
■サウロの改宗
使徒行伝
9:1
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、
9:2
ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
9:3
ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
9:4
彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5
そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6
さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
9:7
サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
9:8
サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9:9
彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
9:10
さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
9:11
そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
9:12
彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
9:13
アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
9:14
そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
9:15
しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
9:16
わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
9:17
そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
9:18
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
9:19
また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
9:20
ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
日本も、この表現を使う。
【目から鱗】
「目から鱗が落ちる」
(新約聖書使徒言行録9章)
あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が解る。
パウロの目に「鱗の蓋」をしたのは誰か?
それは
「魚」(鬼の勢力)・・・
※ 本物イエスが鱗の蓋をするはずがない。(許さない)それで、パウロの主が「二枚目」(魚の仲間)であるという結論に達する。
9:21 (会衆に食い込んだ)
これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。
9:22
しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
サウロはパウロと名を変えると、たちまち会衆の主要位置を占める。
使徒は、実質13人となる。
(この数字が一つのヒント)
パウロはローマ人への手紙の中で、独特の論理を展開している。
※ 敢えて長文を掲載したが、パウロの人となりを知るためなので、適当に読み飛ばしていただきたい。(1章〜5章)
(分析は後ほど)
ローマ人への手紙
第1章
1:1
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―
1:2
この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、
1:3
御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、
1:4
聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
1:5
わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり、
1:6
あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである―
1:7
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1:8
まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。
1:9 (空欄)
1:10
わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。
1:11
わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。
1:12
それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。
1:13
兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。
1:14
わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15
そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
1:16
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
1:17
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
1:18
神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
1:19
なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
1:20
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
1:21
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
1:22
彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
1:23
不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
1:24
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
1:25
彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。
1:26
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
1:27
男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。
1:28
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
1:29
すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
1:30
そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
1:31
無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
1:32
彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。
第2章
2:1
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2
わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
2:6
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
2:7
すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
2:8
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
2:9
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
2:10
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
2:11
なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
2:12
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。
2:13
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
2:14
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
2:15
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
2:16
そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。
2:17
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、
2:18
御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、
2:19 (空欄)
2:20
さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、
2:21
なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
2:22
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
2:23
律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
2:24
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
2:25
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
2:26
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
2:27
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
2:28
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29
かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
第3章
3:1
では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
3:2
それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
3:3
すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
3:4
断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
3:5
しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。
3:6
断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。
3:7
しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。
3:8
むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。
3:9
すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
3:10
次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
3:11
悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
3:12
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
3:13
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
3:14
彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
3:15
彼らの足は、血を流すのに速く、
3:16
彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
3:17
そして、彼らは平和の道を知らない。
3:18
彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
3:19
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
3:20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:21
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
3:27
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
3:28
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
3:29
それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
3:30
まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
3:31
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
第4章
4:1
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
4:6
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
4:9
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
4:10
それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
4:11
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
4:12
かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
4:13
なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
4:14
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
4:15
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
4:16
このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
4:17
「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
4:18
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21
神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22
だから、彼は義と認められたのである。
4:23
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
4:24
わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
4:25
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。
第5章
5:1
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5:6
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
5:11
そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
5:12
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
5:13
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
5:14
しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
5:15
しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
5:16
かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
5:17
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
5:18
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
5:19
すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
5:21
それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。
・・・
さて、いかがだろう?
※ 私は読んでいると疲れてしまうのだ。
なぜ?
私なりの分析。
※ (これは悪口じゃなくあくまで分析として)
彼の文章には「反芻」が多く、何度も繰り返しがある。
【反芻】はんすう
1.一度呑み込んだ食物を、再び口中に戻し、噛み直して再び呑み込むこと。典型としてウシ目の哺乳類(偶蹄類)が行っている。
2.二度三度繰り返して思い、考えること。
英語も参考に。
【cud】クド(カド)
食い戻し。
(反芻 動物が胃から口に戻して噛む食べ物。)
日本語では、こう使う。
→ くどい(cud it's)
※ クドさは、「牛の食性」(獣の営み)・・・というヒントだろう。
■実は簡単な原理
この一言で説明は終わる。
→ 「神は鏡」
しかし、鏡がどのように機能するかを口で説くとすれば、
→ 言葉の洪水
また、「良心」という言葉を使えば、「法が占める位置」もはっきりする。
しかし「二枚目」は、良心を法の下に置く立場なので、説明が長くなってしまうのだ。
同伴する神が「一枚目」なら、もっと肩の力が抜けていただろう。
しかし、
黙々と、異邦人の田を鋤き返したパウロは、「二枚目の主」から受けた仕事を熱心にこなした。
そして遂に、イスラエルにあった「イエスの山」を「海」に移したのだ。
※ パウロの労苦は、異邦人にも救いの手が伸ばされるために必要であった。
「ローマ人への手紙」を通して見えたのは「神の経綸」であり
複雑な紆余曲折は、
「セム、ハム、ヤペテの子孫が共に救われる」という白い神の御意志が貫かれたためである。
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