5-5

 任せなさいとは、一体どういうことでしょう。

 とりあえず待っていてくれと言って十一は店を飛び出してしまいました。仕方なしに私は当初の目的である立ち読みをしようと、棚に並ぶ本の題名を順に見ていきました。けれど、どうにも集中できず目が滑ってしまいます。そうこうしているうちに十一が戻ってまいりました。

「坊ちゃん。旦那さんには見失ってしまったと云っときましたんで」

「何で戻ってきたんですか」

「もう一度真面目に探してこいと怒鳴られちまったんです。けど、すぐには連れ帰りませんから、今日一日は好きに過ごしてくださいよ。本でもなんでも付き合います」

「ずっと僕についているつもりですか」

「そりゃあ、探して連れ帰るって約束なもんで」

 笑顔で頷く十一に、私はほとほと困り果ててしまいました。誰かが監視している横で読書などできるはずもありません。

 私は仕方なしに棚から夏目漱石の『四編』を手に取りました。「文鳥」「夢十夜」「永日小品」「満韓ところゞ」の短編小説と随筆が一冊にまとまっているのです。以前から気になっていたのですが、お小遣いを貯めておいてご褒美にいつか買おうと思っていた一冊でした。私ひとりなら立ち読みで長居をしようと店主も許容しておりましたが、十一もいるのではさすがに迷惑でしょう。私はその一冊を思い切って買うことにしたのです。

「買うんですか?そんならおれが払いますって」

 十一は言うや否や私の手から本をするりと抜き取り、勘定場へさっさと持っていってしまい、店主を呼ぶと支払いを済ませてしまいました。紙製の平袋に入れられたその本を「どうぞ」と私へ寄越しました。

「どうして」

「おれに任せなさいと云ったでしょう?で、何処へ行くんです?」

「何処へ……」

 この後どうするか、何も浮かんでおりませんでした。本をぎゅっと抱えたままだんまりする私を十一はじいっ覗き込むと、またいたずらっ子のような笑顔になって言いました。

「案が特にないのなら、良いところへお連れしやしょう」

 そうして半ば強引に手を引かれ、あれよあれよという間に私は一軒のミルクホールの一席に腰を下ろしておりました。


 そこは私の現実とは別世界でした。

 今までそのような社交場へ連れて行ってもらう機会がなかったのです。十一のほうが余暇にこういったところへよく遊びに行っているのだろうというのが、皮肉といえば皮肉でした。

「さ、ここでなら気兼ねなくそのご本を読めるんじゃないですか、坊ちゃん。読み疲れたら甘いシベリヤも食べられる。これがミルクによく合うんです。お八つどきで一寸混んではいますが、さほど五月蠅くもないでしょう?」

 私はあたりを見回しました。広い店内には照明が暖かく灯り、飴色をした革張りのソファ席と、同じく飴色で革張りの座面をした椅子の席とがありました。統一感があって落ち着いた雰囲気です。テーブルの上には新聞と官報、それに雑誌が重ね置かれ、自由に読めるようでした。私たちはソファ席に通されたのですが、そのソファの包み込まれるような適度なやわらかさに、これはつい長居をしてしまうなと思いました。入り口のショウケースにはカステラやロールケーキなどの洋菓子、パンが美味しそうに並んでいます。確かに盛況でしたが大声で話す者はなく、皆静かに軽食を食べつつ新聞などを読んでいるようでした。

「おれはミルクコーヒーにしよう。坊ちゃんは?」

「僕は別に……」

 メニューを渡されましたがやはりこういった所が初めてで、何を頼めばいいのかさっぱりわからないのでした。

「場所料としてひとっつくらいは頼まないといけませんよ。じゃあ、お腹は空いてますか?」

 空いているかといえば、さっき走ったので空いているような気もします。私は控えめに頷きました。

「そんなら、やっぱりこれは頼まなきゃ」

 そして運ばれてきたのは、さっき十一が言っていた温かいミルクとシベリヤでした。

「さあ、どうぞ遠慮なく」

 うながされてシベリヤを一口かじりました。羊羹をカステラで挟んだサンドイッチのような見た目のお菓子です。当然とても甘いのですが、一緒に温かいミルクを飲むと大変な満足感がありました。

「美味しい!」

 思わず十一に向かって笑顔を見せ、しまったと思いました。この人は父の言いつけでいずれ私を連れ戻すのです。

「やあっと子どもらしい顔が見られた。そういうのでいいんすよ。そういうので。いっつも大人の顔色をうかがってるようじゃ、息が詰まっちまう」

 ミルクコーヒーを啜りつつ、新聞を広げて十一が言いました。

「ああ。あと、おれには敬語なんて使わんでいいですよ。気張らないでいる相手も必要でしょ」

「そ、それなら十一も敬語じゃなくていいよ。僕は対等なのがいい」

 私が返すと「そりゃあ良い」と十一が笑いました。

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