5-4

 学校が終わると、私は普段通りその足で父の商社へ向かいました。しかしその日は次第に革靴をはいた足が鉛のように重くなり、いつもより着くのが遅くなってしまったのです。今日も読めずじまいになるのだろうと思うと、もう駄目でした。

 私が商社の玄関扉を開け、そうっと閉じた途端、父はすぐに気づいて早足で私に近づき問い質しました。

「頼鷹。今日はどうして来るのが遅かった?ええ?道草でも食っていたのか」

 その時の父の問いかけが心配のにじんだものであったなら、私もまだ我慢ができたのでしょう。けれど違いました。語気には詰る感情がありありと乗っていたのです。

「……もう、むりだ」

「何?何と言った」

 俯く私に父が聞き返しました。

「もうこんな状態で手伝いなど、無理だと云ったんだ!」

 父が制止するいとまもなく、私は乱暴に扉を押し開け、再び往来へ飛び出しました。何も考える余裕のないまま、とにかく駆けました。傍から見ればただの反抗期だと一笑に付されるでしょう。けれど反抗の気持ちより、ただただ衝動に抗えなかったというほうが強かったように思います。

 しばらく走って、私はおかしいと気づきました。

 今まで逃げようと考えなかったのは逃げたところで、父に命令されてやってきた丁稚か手代にすぐに捕らえられてしまうと予想がついていたからです。たいして鍛えてもいない子どもの私の足で逃げてもたかが知れています。けれど、何故か今回は誰も追っては来なかったのです。

 一旦足を止め周囲を見回しましたが、父はおろか商社の知った顔は全く見当たりませんでした。私はさらに二町ほど行った先の橋のたもとまで歩き、立ち止まりました。そしてその橋に設えられたまだ明かりの灯っていないガス灯を見上げ、口をぽかんとあけてこう呟いたのです。

「……自由だ」

 何だ、思ったより簡単だったじゃないかと、乾いた笑いがもれました。

 ああ、ついにやってしまった。もしや追っ手が来ないのは見放されたのだろうか。

 そんな思いがよぎりましたが、同時にもうどうでもいいかという投げやりな気持ちもわき起こりました。自由ならばこれからすることはひとつです。私はまっすぐにその先にある馴染みの古書店に向かいました。


 そこは遊竹堂ゆうちくどう書店といいました。こじんまりとしていますが、懐具合のさみしい私のような子ども相手でも親切な店主がおられる、贔屓にしていた古書店でした。

 私が読書好きなのを知って、立ち読みだけのために立ち寄ってもあたたかく迎えてくださったものです。

 おそらくもう現存していないでしょうね。大変残念です。

「やあ、坊ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは」

 立派な髭を生やした着流しの店主が私を出迎えてくれました。確か竹田たけださんとおっしゃいました。店名もそこからのようです。いつも通りに挨拶をして、私は薄暗く狭い通路の奥へ奥へと進んでいきました。

 さあ本を吟味しようと思ったら、その通路の先から知った顔がにゅっと現れました。父の元で働く十一といちという名の、数えで十八になる青年でした。以前名字も名乗ったかもしれませんが、いつも父は彼を下の名で呼んでいたので憶えておりません。幼いころから丁稚奉公に出され、その年にめでたく手代に昇進したと聞いておりました。

「やっぱり此処に来ましたね、坊ちゃん」

 ははんと勝ち誇るように十一が仁王立ちに腕を組んで、にいと八重歯を覗かせ大きく笑いました。彼は丁稚の時分に荷運びなど力仕事をしていたこともあり、引き締まった体躯をしておりました。美丈夫とは彼のような人をいうのでしょう。ハンチング帽と着物がいつ見てもさまになっているのです。同い年の子に比べてもひ弱な私が逃げたところで、体格に恵まれた彼にすぐに捕まってしまうのは想像に難くありません。

「待ち伏せしていたのですか」

 どうやってこの窮地を脱したものか私は頭の中で必死に考えつつ、じりと後ずさりました。

「旦那さんに任されちゃあ、断れねえんです。御免」

 そう言って近くまで来てしゃがみこみ、膝をついて私を見上げました。

「けどねえ、無理矢理連れ帰るのも嫌なんです。坊ちゃんはお家を継ぐのがお嫌ですか」

「いえ……本が読めないほど忙しいのが嫌なのです。手伝いが嫌いなわけでは」

 私の答えに十一はまた、にいと笑って立ち上がりました。

「坊ちゃんは少しぐらい息抜きのしかたを覚えたほうが良い。このおれに任せなさい」

 そして私の肩にがっしりとした手を置いたのです。

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