4-6
初めに感じたのは消毒液の匂いだった。
目を開けようとしたが、眩しくて思わず顔をしかめる。
「周!大丈夫なのか」
傍でよく知った声がした。輝葉だ。
ようやく薄目を開けられたところで視界はぼやけたままだった。
当然だ。眼鏡をかけてないんだ。
そのぼやけた視界で見た光景は、頭上で輝葉が慌てた様子で「ナースコール、ナースコール」と呟き、ぼくの寝ているベッドの枕元にあったらしいボタンを押すというものだった。
「ああ、ここ……病院か」
どうやらちゃんと戻れたらしい。大部屋の病室の一角にぼくは寝かされていた。
眼鏡はどこだと頭を動かすと、輝葉が察してくれて、ケースから無事だったらしいぼくの眼鏡を出してかけてくれた。視界が随分クリアになる。
少し安堵した表情の輝葉がベッド脇のパイプ椅子に座っていた。
「そうだよ。憶えてるか?お前、三日前に高校の屋上から落っこったんだぞ。近くに生えてた木がクッションになって大きな怪我は骨折だけで済んだんだ。頭から落ちてたら確実に死んでた」
三日?そんなに経ってたのか。
想い出図書館の扉から帰らなかったせいか、そもそも図書館へ行ったのは落ちてすぐじゃないのかもしれない。
そこまで考えて、思い出したように鈍痛が起こる。
身体のあちこちが悲鳴を上げていた。見ると、足がギプスでがっちりと固定されている。もしかして腰とか背骨もやってるのかもしれない。しばらくは生活に難儀しそうだ。
「うん、憶えてる」
よく、憶えている。記憶の本で観たからそれこそ生々しく。
想い出図書館に行っていたという記憶を、眠ってるあいだに見た夢だと片付けてしまうにはあまりにも匂いや触覚がリアルだった。
それに目覚めてから細部がぼやけていくこともない。
あれは、確実に現実だった。
「羽畑に、ぼくの生徒に話しをしないと。そもそも無事なのか」
言いつつ身体を無理に起こそうとする。けど輝葉に「寝てろ」と少々強引に肩からベッドへ押し戻された。押されたことでまた痛みが強くなって顔をしかめる。我慢できないほどじゃないが、痛み止めがあるなら欲しい。輝葉に「ほら見たことか」という顔をされた。お前のせいなんだけどな。
「羽畑こころは、お前が屋上から落ちた翌日に女子生徒を殴って、その生徒共々謹慎中だ」
「謹慎?何で、お前そんなこと知ってるんだ」
「お前の事故で事件性があるか一応警察の調査が入ったからな。俺も担当した」
輝葉は下っ端だが一応刑事をしている。ぼくも高校教師だし公務員仲間だからと、時々呑みに行く程度には繋がっているのだ。だからこうして見舞ってくれたんだろうけど。
「お前、職権乱用じゃないだろうな。ぼくが関わってたからって」
「たまたまだ、たまたま。周の赴任してる高校だとは気づいてたけど、詳細を聞いて初めてお前が落ちたって知ったんだ。んで慌てて駆けつけたんじゃないか」
「そりゃどーも。なあ、羽畑が何で生徒殴ったのかも知ってんのか」
「聞いたさ。『定仲先生と心中しようとしたんでしょ、ってからかわれたから、先生はそんなことしないって反論したら喧嘩に発展して結果殴ってしまった』そうだ。『定仲先生に助けられた命だからもう自殺しようと思わない』とも言ってた。良い生徒じゃんか。陰キャなお前には勿体ねーな。お前がクラスを受け持つってのでも驚きだったけどよ。本当にやってけるのかって」
輝葉が刑事らしくわかりやすい説明のあと、子どもみたいに無邪気に破顔した。こいつの笑顔はいくつになっても変わらないようだとつくづく思う。
「陰キャは余計だ。何はともあれ、無事だったか……」
ぼくは深いため息を吐いた。
そのタイミングで呼んでいた医師と看護師たちが駆けつけて体調やらなんやら調べたり症状を聞かされたりした。
全治三か月で退院後もリハビリが必要だと言われ、少々げんなりする。
その上、首尾よく輝葉が呼んでくれていた母さんが見舞いに駆けつけたもんだから、あれよあれよという間に一時間は軽く超えてしまっていた。
「なあ、輝葉。さっきの話、お前の言う通りだよ。全然、やっていけてない。良い教師になんかなれないよ。クラスをまとめるのでいっぱいいっぱいだ。いじめも解決できていないし、生徒を助けようとしてうっかり落ちるし、全然うまくできてない」
母さんが退室してから、ぼくは続きとばかりに口を開いた。
輝葉に「疲れたろ。しゃべるより休んでろ」と言われたけど、話していたかった。親友に話を聞いて欲しかった。
「周は十分良い教師だろ」
「慰めは結構」
「まあ聞けよ。いじめられてたの、羽畑ちゃんなんだってな。そのいじめっ子の筆頭はほら、彼女が殴っちゃった娘だ。地味で陰キャだから担任のくせに印象も薄くてクラス内でもさほど評価されてない定仲センセーを、羽畑ちゃんは『生徒をよく見てくれる良い先生だ』と発言したからハブられたりいじめを受けるようになったそうだ」
「らしいな。羽畑はぼくのこと過大評価しすぎだよ。クラスの他の子たちの評価のほうがよっぽど正しい。ひとりひとりをとてもじゃないが見きれていないんだ。何をどうしてそんな評価になったんだか」
「お前なあ、自分の発言、ちゃんと憶えてろよ」
呆れた声で輝葉が言う。
「羽畑ちゃんが『美化委員の仕事で自分が手入れした花壇を褒めてくれたんだ』って言ってたぜ。お前は生徒のいいところを見つければ、そういう言葉をいくらでもかけられる奴なんだろ?生徒の良いところに気づいたとしても、それをちゃんと本人に言うって案外難しいと俺は思う。それだけでも立派に良い教師なんじゃないか?」
そんなこともあったか。あったんだろうな。
ぼくにとっては何気なく褒めたつもりでも、彼女にとっては大きな拠り所となったのかもしれない。
みんなの、ではないけど、ぼくは何人かには、良い教師になれてるんだろうか。
「定仲先生!」
病室ではマナー違反ともいえる声量で、ぼくに呼び掛ける者がいた。
「羽畑……お前、どうしてここに」
私服姿の彼女はつい先日まで自殺を決行するほどに憔悴していたことなど嘘だったように、ぼくへの少しの心配と嬉しさを滲ませた存外明るい表情で、小さな花束を手にぼくのベッドへ速足で近づいてきた。
そして「お見舞いです」と勢いよく花束をぼくの眼前に突き出す。
黄色とオレンジ。
ビタミンカラーの、野郎が受け取るにしては可愛らしすぎるミニブーケ。
「あ、ありがとう。羽畑が選んだのか、これ」
「ブナンなやつですけど。可愛いでしょ」
羽畑がはにかむと、思い出したようにきょろきょろと辺りを見回して「やば、花瓶ないじゃん」と困った表情になった。少し忙しない。
「花瓶はあとで用意してもらうよ。で、どうしてここに?謹慎中なんじゃ」
「もう放課後の時間ですよ。そこの
羽畑の目線の先にはあからさまに視線を逸らす輝葉がいた。
「輝葉お前ぇ……!さっきから妙にちゃん付けで馴れ馴れしいと思ったら……職権乱用も大概にしろよおいクソ刑事」
「おいおい、口が悪いぜ定仲センセー。生徒の前でそれってどうなの?」
「話を逸らすな」
「いやあ、あのですねえ、連絡先教えてって言ったのは羽畑ちゃんのほうからでえ」
「責任を!押し付けるな!それでも大人か!」
ぼくらの低レベルなやりとりを羽畑はぽかんと眺めていたけど、ついにはふきだして笑っていた。
そういえばここは病室だった。病院内では静かにしましょう。大の大人だというのに看護師さんに叱られる、ぼくという例もあるので。
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