4-5

 ばたんと本を閉じる。

 また、観たと同時にその記憶が自分の物になっていく感覚があった。

 こういう顛末だったんだ。

 ぼくは、羽畑に何もしてやれないまま死んだんだ。そりゃあ未練もあるなと、どこか他人事でぼんやりと思った。

「——やあ。想い出したんだね。それがいまの君かい」

 顔を上げると帯屋が笑っていた。

 言われてふと出窓を見る。外が暗くなってきたせいで、窓に映る自分の姿がわりにはっきり見えた。

 もう学ランを着た、中学生のぼくではなかった。

 ずいぶん前に量販店で買った、こだわりなんて微塵もないくたびれたワイシャツと地味な色のカーディガンにスラックス。野暮ったい眼鏡の、冴えない現国教師のぼく。

 今まで自分が中学生なのだと思い込んでたから、そういう色眼鏡をかけてしまっていたのか否か。でも帯屋は最初会った時、確かにぼくを「少年」と呼んだ。他人からもそう見えていたことの何よりの証明だ。

 一時容姿が若返るなんて、こんなことが現実に起こるんだろうか。いや、死んで幽霊になったからこんなこともあり得るんだろう。

「想い出しました。やっぱりぼくは死んでたみたいです。やっぱりここは死後の世界なんじゃないですか。ひょっとして地獄?」

「地獄にこんなに美味しいタルトがあるもんか。だろう?頼鷹君」

 帯屋が湯気の立つ紅茶を優雅に飲みつつ隣に話を振ると、いつの間にか座っていた狩野が控えめに微笑んだ。

 テーブルにはすでにティーセットと、一ピースだけ歯抜けたホールのタルトが並べられている。オレンジの……南瓜のタルトらしい。生地は程よいきつね色で香ばしい香りを漂わせていて、メインとなるフィリングも色つや良く美味しそうだ。

 美味しそうだけど、こんな感情がぐちゃぐちゃな状態じゃ、当然食欲はわかない。

「記憶の本は、その持ち主が亡くなった時にその方に全て返されます。いわゆる走馬燈と呼ばれるものです。現在、貴方の記憶の本はこうして完全な状態であるのですから、亡くなってはおられませんよ」

「そうなんですか……」

 死んだものとすっかり思い込んでいたのをすぐさま覆されて、しばらくの間飲み込めなかった。

「ご気分が落ち着かれるかもしれません。一杯いかがですか」

 狩野がぼくへ提案する。断るのも悪いと思い礼を言うと、狩野は静かに席を立った。ぼくの前へ空のカップとソーサーを用意すると、紅茶を丁寧な所作で注ぎ、皿にタルトを一ピース取り分けてくれた。温かな湯気の立ち昇るカップを手に取り、眼鏡を曇らせながら一口飲みこんだ。その香りと温かさにほっと安堵する。自分が生きているという事実も飲み込めてきた。久しぶりにちゃんと息ができたような心地だ。

 けど再び口を付けようとしたところではた、と手が止まった。

 死んでないのなら、こんな悠長に紅茶を嗜んでる場合じゃない。

 羽畑はあれからどうなったんだろう。自殺を考えるほどに精神的に参っていた時に、ぼくが転落事故を起こしたんだ。ショックは計り知れない。

 不甲斐ない教師のぼくに、ケアをきちんとできるかはわからないけれど。

 それでも、すぐにでも戻らないと。

「すみません。記憶の本、ありがとうございました。もう戻らないと。ぼくの生徒が心配なので」

「大丈夫だよ。時間はそこの扉がちゃあんと戻してくれる」

 震える手でカップをソーサーへ戻し腰を浮かすと、帯屋が「さっき説明したじゃないか」とでも言いたげな、不審そうな顔をして切り分けたタルトを口に運んだ。

「どうしてもぼくの気が収まらないので、すみません。これ以上過ちは犯したくない」

 言い逃げでもするようにがたりと大きく音を立てて席を立つと、ぼくは扉を目指して駆けた。駆けたけど、数歩もいかないうちに辺りは白い光に包まれて、目が眩んで開けられなくなった。


  ○


「彼、消えたね。頼鷹君」

「ええ、消えました」

「記憶を想い出したら年恰好も急に変わったけど、幽霊じゃあないってことは……あれが俗にいう生き霊ってやつかい」

「恐らくは。帯屋さん、驚かれないのですね」

「まあ……昔似たようなのに会ったことあるんだよ。まだ家でくさくさしてたときにさ。そいつは死んだのを機に故郷に帰ってきたようだから、また違うんだろうけど。頼鷹君こそ全く動じてないけど、ここにはああいった人はよく来るのかい?」

「ごく稀にではありますがいらっしゃいます。記憶を想い出したいと強く願う人ほど、ここに来ることが叶う理屈ですから。生き霊となられるほどの方は、生身の方よりもずっと強い願いをお持ちなのでしょう」

「ふうん。さっきまで大丈夫だったとしても周君、ひょっとして今際の際ってことはないかい」

「そうでないとは言い切れません」

「希望を持たせるなんて君、人の心がないなあ」

「私は事実を言ったまでですよ。それにほら、まだ記憶の本は完全な状態です。人はいつか必ず亡くなるのです。館長も訪れた方が亡くなるたびに悲しんでは疲れてしまうとおっしゃっておりました」

「まあ、今のところは大丈夫そうだね。せっかく想い出したんだから、そのぶん生きていて欲しいものだよ。ところで……僕らはいつ死ぬんだろうね」

「さあ、いつなのでしょう。私にも皆目見当が付きません」

 頼鷹はいつものように薄く微笑んだ。

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