4-4

 視界に青い空が広がっている。

 外の匂い。枯葉と土が混ざり合った、腐葉土の匂いが微かに薫ってくる。やはり図書館でずっと感じていた古書の匂いはすっかり消え去っていた。

 独特の浮遊感。胃に不快を覚える。

 確かに二十二月町に来る直前の記憶だ。

 視界の端に自分の髪が風になびくのが見えた。

 空を切る手。たった今いたはずの屋上の縁とフェンスが遠のいてゆく。

 屋上に、誰か立っている。

 誰だ?

 どんどん屋上から遠ざかっていくせいで顔をはっきり確認できない。

 がさがさと背中から木の枝にぶつかって落ちてゆく衝撃。どんっと地面に打ちつけられたところで、ぼくは顔を上げた。


「周君、大丈夫かい。また具合が悪そうだ」

 帯屋が心配そうに覗き込んでいた。また心臓が激しく音を立てている。いつの間にか汗をぐっしょりとかいていた。

 無理もない。ぼくは二度も屋上から落下する体験をしているのだから。動悸を何とかなだめつつ、ぼくは心配いらないと手で制す。

「ちょっと、ショックが強かっただけです。大丈夫」

 ああ、そうか。そういうことか。

 まだ完全ではないけど、うっすら想い出してきた。

 もう一度観よう。今度はもう少し前から。ぱらぱらと数ページ遡る。ざっと紙面を見ただけでは記憶が再生されることはないようだ。

 文字を追うことに集中すると、また肌に感じる空気が変わった。


 ぼくは放課後の屋上に立っていた。

 まわりを落下防止のフェンスに囲まれた、白っぽいコンクリートの殺風景な景色が広がっていた。四階建てで危険だからと普段は立入禁止の上鍵がかかっているけど、ある生徒がぼくの使いだと装って鍵を持ち出したらしい。

 ここに来るまでに全力で階段を駆け上がったせいで、すっかり息が上がっている。

 視線の先には一人の女子生徒がいて、すでにフェンスを乗り越え、こちらに背中を向け上履きを脱ごうとしていた。風に、彼女の長い髪と校則をきっかりと守った長さのスカートがはためいている。

 あの子は、ああ、そうだ。で。

 クラスでいじめがあったんだ。

 昼休み後にびしょ濡れで現れて「どうしたんだ」と聞いたら「美化委員の仕事で、花壇の水やりをしたらホースが暴れました」と言われて、それを馬鹿正直に真に受けて。

 最初はそんなこともあるかと思ったけど、そういったことが何度も続くわけないだろう。

 ぼくが見て見ぬふりをして、こんなことに。

羽畑はばた……」

「あーあ、見つかっちゃった。定仲先生、やっほー」

 ぼくの呼び掛けに羽畑がゆらりと振り返ると、思いの外あっけらかんとした口調で応えた。予想外に見つけられたように装っているけど、彼女はわざとぼくにわかるよう足跡を残していた。屋上の鍵をぼくの使いと称し借りたのは羽畑だ。

「駄目だ!飛び降りなんてせ!」

 ぼくの制止に羽畑の表情がさっと変わった。諦念を宿しているらしい冷めた瞳がぼくを胡乱げに捉える。

「あたしがいじめられてたの、定仲先生もご存知ですよね?あたし期待してたんですよ?先生が正義のヒーローみたいに助けてくれるかもって。でも……やっぱ当事者がはっきり声をあげないとダメなんですね。もう……疲れた」

 抑揚のない、生気のない声で呟く。

「力になれなくて、本当にすまない。いや……謝っても許してはくれないよな。けど、死ぬのは絶対に駄目だ。生きていればいいこともある」

「いいことって何ですかあ?あたし毎日頑張って学校に来たけど、何一ついいことなんて無かった」

「一つくらい、あったんじゃないか。今日のご飯が美味しかったとか、綺麗な花を見つけたとか……どんな小さなことでもいい。そういう小さな幸せを積み重ねていけば、きっと明日も頑張ろうと思えるようになる。何も学校だけが全てじゃない。これから先生たちと相談していこう」

 自分で口にしておいて白々しいなと思う。

 ぼくが当の生徒で教師にそんな言葉をかけられたら、さらに反抗したくなるだろう。

 今さら何を言ってるんだと。そんな小さな幸せごときじゃ、心を上向かせることが無理になっているんだと。

 それでも、ぼくは羽畑を止めるために、背丈よりも高いフェンスを音を立てて乗り越えた。当然慣れてないから反対側へ行くのに手間取ってしまったけど、羽畑もいざ飛び降りるという段階で恐怖心が拭いきれなかったんだろう、ぼくが降り立つまでに思い切ることはなかったようだ。

「来ないで」

「大丈夫だ。大丈夫だから。みんなでも話し合えば、きっと解決できる」

「何が大丈夫なんだよ!今さら話し合いなんかしたって……もう居場所なんてどこにも……ないんだよ、あたしには!」

 今度こそ羽畑が感情の勢いのまま足を空へ踏み出した。咄嗟にその腕を掴んだけど、当然抵抗された。

「やだ……!はなして!いや!」

 羽畑が必死なら、ぼくも必死だった。

 しばらく揉み合いになって拮抗が続き、ついに羽畑が足を滑らせてそれを引き上げてなんとか助けた。それは良かったんだけど、安堵も束の間で。今度はぼくのほうが足を滑らせて……気づけば空中に放り出されていた。

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