4-3

 狩野が本棚の通路に消えてすぐに、荷物を置いて身軽になったらしい帯屋が戻ってきた。帽子は外したのに、白手袋は変わらずはめたままだ。潔癖症なんだろうか。

「説明は済んだみたいだね」

 ぼくの向かいの椅子を引くと「どっこいせ」という掛け声と共に座った。まだまだ若そうに見えるのに、どうにもおっさんじみている。

「今、ぼくの本を探してもらってるところです」

「うん、頼鷹君から聞いた。記憶の本を探してあげるなんてね、本来持ち主が自分で見つけられるってのに、慈善活動も良いとこだ。頼鷹君はよっぽど館長の築いてきたかたちを守りたいらしい」

 帯屋は馬鹿にしたような口ぶりだったけど、旧友の話を出した時と同じく感傷的にも見えたのは気のせいだろうか?そういえば、狩野は自身を司書というだけでなく「館長代理」だと名乗っていた。今は不在、なのか。

「記憶の本も大事だけどねえ、頼鷹君のお茶、周君の分もきっと用意してくれるから是非飲むと良い。手作りのお茶菓子も絶品なんだ」

 お茶菓子の味でも想像してるのか、にんまりとした表情で帯屋が笑った。

「帯屋さんて、この図書館に協力してるって言ってましたけど……今のところ全然そんなふうに見えませんね」

「心外だなあ。ちゃあんと協力してるよ。僕の旅自体がこの図書館の貢献になるのさ」

 それ以上説明する気がないらしく、帯屋はひとつ伸びをして腕を頭の後ろに回すと、足を組み深く座り直した。

「帯屋さんと狩野さん、おふたりともこの世界の人なんですか?」

「違うよ。たぶん、周君と同じだと思う。君の出身は日本?元号はあるかい?」

「そりゃ、もちろん。今は平成です」

「じゃあ僕らも一緒だ。おお、朋輩よ」

 帯屋は芝居がかった口調でオーバーに両腕を広げてから笑った。

 意外だ。ふたりともどことなく非凡なオーラがあるから、こっちの人なのかと思った。その判断基準もどうかと思うけど。

 ぼくが笑って応えるとそこで妙に間が空いてしまった。

「あ…あと、狩野さんは館長代理だって言ってましたけど、当の館長さんって」

「ずっと不在だよ」

 食い気味に帯屋が答えた。

 まずい。あまり聞かれたくない話題だったのかも。沈黙が気まずくてつい質問攻めになってしまった。かといって他に話題もない。どうしよう。

 脳内であわあわしているうちに狩野が戻ってくる気配がした。

 助かった……狩野が神様に見える。

「こちらが、定仲さんの記憶の本です」

 先ほどと変わらない完璧な笑顔で、一冊の本が差し出された。

 程よい厚みをした深緑色で布張りの表紙。あまり人の手に触れていないのだろう、欠けや破れはなく至って綺麗だが、本文の紙はだいぶ古くなって例の甘い匂いを発している。表紙と背表紙には金色の箔押しでぼくの名が刻まれていた。

「これがぼくの……読んでも?」

「勿論。貴方の記憶の本ですから」

「そうそう。うっかり他人の記憶の本を読むと、おっかないことになるらしい」

 狩野が笑顔で答え、帯屋が口を挟んだ。

「おっかない?」

「記憶の本は、ただ記憶の内容が記されてるだけじゃない。その記憶の持ち主そのものなんだ。そんな思念がこもったものを読んでしまったら、どうなると思う?」

「ど、どうなるんですか」

「それはね……わあ!」

「わああああ!」

「はは、怖がっちゃってまあ。どうなるかっていうと、記憶が上書きされて人格を失う。絶対にそうなるとは言い切れないけどね。だろう?頼鷹君」

 なんて大人げないんだ。急に大声を出されたら誰でもびっくりするだろ。

 ばくばくと鼓膜に響く鼓動を深呼吸してどうにか収めようとぼくは努めた。

「ええ。説明は間違っていませんが、そう驚かせるのは宜しくありませんよ」

 狩野が帯屋を窘めてくれる。この人はやっぱりこの場の良心だ。ここで比較できる対象が帯屋だけだから評価が上方修正されるのは仕方ないけど、この人が話してると安心を覚えるまである。

「ある程度怖がらせたほうが効果はあるんじゃないかな。そういうフリだと思われて他人の記憶の本を読まれちゃ、君だって堪らないだろう」

「確かにそうですが……」

「このくらいの年頃の少年なんてみんなひねくれ盛りだよ。もうぐにゃぐにゃの天邪鬼だ」

「経験がおありなのですね」

「いや、ないよ」

 すっぱりと帯屋が答えた。

 きっと、あるんだろうな。何だか帯屋に親近感を覚えた。

「帯屋さんが申し訳ありません」

「いえ、大丈夫です。お気になさらず」

「ありがとうございます。私はお茶の用意をしてきますので、どうぞごゆっくりお読みになってください」

 狩野が笑顔ですまなそうに一礼してまた通路に引き返していった。

 ぼくはひとつ深く息を吐いた。ようやっと記憶の本を読める。

 一度眼鏡の位置を直すと、少し緊張しつつぼくは表紙を開いた。

 数ページ捲ると目次が現れる。零から順に満年齢を指しているらしい漢数字が続き、その下にはアラビア数字でページ数が並んでいる。

 ぼくはさっそく十二の章を読むことにした。

 直前に一体何があったのか、確かめなくては。

 誕生日は十一月十三日だから、読むべきページは章の後ろのほう。目星をつけてまとめて捲ると今日の日付けを見つけた。十月三十一日。

 読むことに集中する。


 まわりの空気の質ががらりと変わった。何が起こったんだと顔を上げると、そこはもう図書館じゃなかった。

 外だ。もうそろそろ冬の気配を感じ始めた、肌寒さを感じる屋外。

 帯屋が記憶の本は「持ち主の記憶そのもの」だと言ってたのは、こういうことだったのか。こんなものを見てしまったら、記憶が上書きされてしまってもおかしくないと思った。

 記憶のぼくは、通学路を親友の輝葉てるばと馬鹿笑いしながら駆けていた。

 学校が終わって帰るところだった。何でそうやって二人して走っているかというと、予報外れの雨にどちらともが傘を忘れたからだ。

 雨?

 雨が降っていた。結構な雨量だ。

 スニーカーが水溜まりを勢いよく踏むたび、制服のスラックスの裾が濡れた。そんなことはどうでもいいくらい、どんどん頭から肩から濡れそぼってゆく。きっとこんな濡れ鼠で帰ったら母さんにかんかんに叱られるだろうなと頭の隅で思ったけど、ぼくは特に理由もなくはしゃいでる今この瞬間が最高に楽しかった。

 肌に感じる雨の冷たさと匂いも、背負ってるスクールバッグの重さも、輝葉の笑い声も、何もかもが現在より過去のはずなのに、今この場で生々しく再生されている。と同時に確かにぼくの記憶だと認識されていく。

 けど、おかしい。予想していた記憶と全く異なる。

 観てる記憶の日付けが違うんだろうか?いや、ちゃんと確認した。今日と同じ十月三十一日だ。

 じゃあ、二十二月町に来る直前の、鮮明に焼き付いてる青空は何なんだ?


 ばたりと、無理やりに本を閉じる。

 自分の意思で記憶を観るのを止められはするけど、多少思い切らないと振り切れないらしい。なかなかにこれは精神を使う。

「目当ての記憶は見つかったかい?」

 向かいの帯屋が頬杖をついたまま聞いてきた。

「いえ……まだ」

「焦らなくていいよ。戻る時にはそこの扉が、もといた時間に戻してくれるから」

 親指で背後のドアを指す。ずいぶんとご都合主義な図書館だ。便利すぎてちょっと呆れてしまう。

 観終わってぼくは、はたと違和感を感じた。

 

 十二歳の十月三十一日の記憶は数時間前のものじゃなく、ずっと昔の記憶だとでもいうのか。ぼくはもう一度、目次に戻って確認した。

 章は全部で三十二。その先は空白が続いている。

 最初は十二の先に数字が続いているのに疑問を持たなかったせいで気にも留めなかったけど、あまりにも中途半端だ。あるいは三十二歳でぼくが死ぬのならあり得るのかもしれないけど。

 もしやとぼくは思う。

「記憶の本って、未来のことも書かれているんですか」

「いいや、先のことまではわからない。周君はいくつだっけ」

「……十二です。来月で十三」

 そのはずだ。そのはずなんだけど……。

「ふうん。なら十二までの数字が書かれてるだろう。この本は今現在の周君の状況を刻一刻と記録しているけど、今こうして話している時点から数秒後の記憶はまだ記されていない。あくまでその人の、これまでの記憶だからね」

 帯屋の答えで合点がいった。そうか、そういうことなのか。

 それだったら、この章に青空の記憶があるはずだ。

 ぼくは三十二歳の最後のページを開いた。

 じっと文字を追うと、再びまわりの空気が変わった。

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