第四話 青空の記憶

4-1

 直前に見ていた景色は、青い青い空だった。

 十月ももう終わりを迎えようという頃の、いかにも「秋の空」と呼ぶに相応しい高く青く澄んだ空。それが視界いっぱいに広がって、ちらほらと鱗雲も浮かんで見えた。

 スローモーションのようにゆっくりと、雲が流れてゆく。いや、見上げたぼくが動いているのか。

 独特の浮遊に胃に不快感を覚える。自分の髪が風になびくのが視界の端に見えた。

 そのまま暗転。

 再び目を開けた時には、ぼくは別の場所にいた。

 ここはどこだ。さっきいたはずの場所とはまるで違うことだけはわかった。

 辺りは喧騒に満ちていた。

 西洋のらしい石畳と三角屋根の町並み。ぼくが佇む広場の中心には、この町のシンボルなのだろう噴水が鎮座していて、しぶきを陽にきらめかせながら絶えず清水が流れている。その周りをぐるりと住居と露店が囲み、人々が行き交っていた。

 みんな揃いも揃って町並みに似合いの服装に身を包んでいる。エプロンドレスとか、サスペンダーにハンチング帽とか。

 昔のヨーロッパにタイムスリップでもしたんだろうか。いや、そんな馬鹿な。すぐに自分に突っ込んだ。ふとぼくの服装はどうだったかと視線を落とす。学ランにスニーカーだった。

 どちらかといえばこの状況、異分子はぼくのほうだ。

 完全に、浮いている。

 不安になった時のいつもの癖で、すっかり体の一部に馴染んでいる黒縁眼鏡のリムを押し上げた。

 落ち着け……ぼくはしょうよう中学に通う一年生、定仲さだなかいたる。来月でようやく十三になる。大丈夫、ちゃんと名前も歳も憶えてる。

 ここがどこだかさっぱりわからないけど……ぼく自身に関して言えば、直前の記憶が混乱してか断片的になってしまっている以外、異常はない……はずだ。

 きっと記憶を思い出したら全部わかるはずだ。思い出せ。さっき、何があった。

 あ。学校の屋上から落ちたんだ。

 だから視界に青空が広がって、胃が不快感を主張して。

 ひゅっと、心臓を下からすくわれるような感覚。

 ぼくは死んだ……のか?

 全身をざっと確認したけど、怪我は全然見当たらないしどこも痛くない。確かに落ちる重力を感じたのに、だ。

 これってもしかして、ぼくは「死後の世界」というやつに来てるのか?

 それにどうして、落ちたん、だっけ。肝心なところが思い出せない。

「——少年。お困りのようだね」

 必死に脳をフル回転させていたぼくに、横から声をかける者がいた。

 視線を声のしたほうへ上げる。背の高い人だ、と思った。

「……困っているように見えましたか」

「そりゃね。どう見てもここいらの子じゃなさそうだし……って君、顔色が悪いよ。少し休んだほうが良い」

 男性は有無を言わさず「こっちで休もう」とぼくの腕を取り噴水の腰かけられるところまで引っ張って行く。ぼくをそこへ座らせると、近くの露店で湯気の立つ飲み物を頼んできて差し出した。

「温かい紅茶なんだけど、飲めるかい。冷たいのが欲しいなら僕の水筒の水で良ければあるけれど」

 別に喉は渇いていなかったけど、厚意を無下にするのも悪い。ありがたくそのカップを受け取った。陶器の器で、飲み終わったら露店に返却するようだ。

 そこではた、と手が止まる。

 ここが死後の世界だというのなら、はたしてこれを飲んでいいんだろうか。

 小説か何かで読んだことがある。死後の世界の食べ物を口にしたら現世に戻れなくなるってやつ。

 いや、すでに死んでるんならもう、どうでもいいか。

 息を吹きかけ冷まし、やけどしないよう注意してゆっくりとお茶をすする。

 おそらく死後の世界であろうところのお茶なんて、さっきまでピンピンしていたぼくの口に合うのかと内心びくついていたけど、普通に飲んだことのある紅茶の味だった。ダージリンとかアッサムとか、名前を知ってるくらいで味の違いはわからないけど。少しずつ、紅茶の香りと食道を滑り落ちてゆく温かさに気分が落ち着いてきた。

 ぼくが紅茶を口にしているあいだ、男性はそのまま隣に腰掛け様子を見てくれていた。

 沈黙がちょっと気まずいけど……見た目は奇抜なのに、けっこう親切な人なんだな。

 そう思ったのも致し方ない。

 カンカン帽に丸いフレームの鼻眼鏡。スタンドカラーの真っ白なワイシャツに真紅の蝶ネクタイを合わせて、細身の紺のベストとスラックス、さらには汚れひとつない白手袋まではめている。そして艶やかな黒の革靴が足元を引き締めていた。

 手品師か、はたまたコメディアンもかくやといった風体だ。

 ここまでこてこてに固めていると……世話を焼いてもらっておいて悪いが、どうにも胡散臭さを感じてしまう。

 ぼくが警戒しているのを見て取ってか、男性は「怪しい者じゃあないよ僕は」と笑みを浮かべたまま、その白い手袋をはめた両手をひらひらとさせた。その余裕そうなのが逆に怪しいのに。

「もう体調は大丈夫そうだね」

「はい、お陰様で。ありがとうございました。もしかしてお兄さんは手品師さん、でしょうか?」

「当たらずといえども遠からず。僕は旅をしながら大道芸をやって生計を立てているんだ。屋号は帽子屋ぼうしやという」

 帽子屋と名乗った三十代くらいの男性は、足元に置いていた重たそうなトランクからピエロの操り人形を取り出して見せた。

「じゃあ僕からも質問しよう。君はどうも困っていたようだけど、何があったんだい?もしかしたら助言できるかもしれない」

 人形から伸びた吊り糸の先の棒を器用に操って、ピエロが話しているように振りを付けながら帽子屋が問うた。ちょっとした動作も生き生きとして見える。さすが、それで生計を立てているというだけある。

 でも何だか先見の明でもあるような口ぶりが妙に引っかかった。

 新手の詐欺か何かだろうか?

「違う場所にいたはずなのに、気づいたらここにいて。確かに学校の屋上から落ちたんです。なのに無事だし怪我ひとつない……ぼくはひょっとして死んだんですか?だとしたらここは死後の世界?」

 頭ではさんざん警戒していたのにも関わらず、会って間もない人においそれと事情を話すなんて、しかも小説みたいな荒唐無稽が自分の身の上に起こってるんじゃないかと問うてみるなんて、非常識にも程がある。

 けど突然知らないところに放り出されて、不安な状態のなかで親切にされたら、もうすがるしかないじゃないか。

 自分の脳みそで考えるだけじゃ、とっくににキャパオーバーだった。誰でも良い、他人の意見が欲しかった。

「小説の読みすぎだよ君。僕の旧友にもいたよ、そんな奴。そいつは小説を読むのも好きだったけど、何より書くことが好きでね。僕にばっかり書いたものを押し付けて」

「そうですよね、妄言がすぎますよね。すみません……」

 悪態とは裏腹にどこか感傷に浸るように、帽子屋は薄く笑った。

 思わず謝ってしまう。中二病だと思われたかもしれない。ぼくは恥ずかしくてうなだれてしまった。

「謝らなくていいよ、君。残念ながら違うけど、あながち間違っちゃあいない」

「へ?」

 思わぬ答えにぼくはさっと顔を上げた。

「ここは君の暮らしているのとは異なる世界だという認識は正解だってことさ。君はね、きっと想い出図書館に呼ばれたんだ」

「異なる世界?想い出、図書館……?呼ばれたって」

「わからないのも無理はない。僕も丁度そこへ戻るとこだったから、案内してあげよう。そこの司書に聞けば大体のことは説明してくれるよ。

 うん。君ってずっと呼ぶのも他人行儀で嫌だなあ。僕はね、屋号は帽子屋だけども名前はは帯屋おびやシュウというんだ。君の名前は?」

 さっそくトランクを持ち上げ、帽子屋……いや帯屋は口の両端を弓なりに引き結んで胡散臭く笑った。

 やっぱり、詐欺なんだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る