3-10
ばたり、とわたくしは本を閉じました。
「……そう、だったの」
「大丈夫ですか」
わたくしの表情の抜け落ちた呟きに、砥草さんの隣に座っていた頼鷹君が心配そうに声をかけてきました。
「あ……。はい、大丈夫、です」
全く、大丈夫ではありませんでした。
颯太郎様が婚約者のわたくしではなく別の女の人と添い遂げようとしたという事実を知り、衝撃のあまり亡き人を責め立て、その上現実から目を背けたのです。
そばにとてもよく似た顔の人が、都合よく居たものだから。
応次郎様は運悪く貧乏くじを引いてしまった可哀想なお方なのです。わたくしと袴田の家に
今も応次郎様は、きっと自由でいられたのです。
「砥草さん。記憶の本をお貸しいただき、大変感謝いたします。お陰様で大事なことを想い出すことができました」
「それは良かった。また他に想い出したい記憶がございましたら、是非いらしてください」
わたくしが感謝の言葉をを述べて腰を折ると、砥草さんは晴れやかに笑顔を浮かべました。
わたくしの心中など、わかるはずもないので当然でしょう。わたくしは「もう来ることはないでしょう」と心の内で答えました。
「帰るには如何すれば宜しいのでしょう?」
「その扉を開けて出れば、そのまま元の所へ戻れます」
砥草さんが正面の扉を手で示しました。先ほどわたくしがくぐってきた、上に鈴のついた扉です。
「ありがとう存じます。それでは」
わたくしは席を立つと床を軋ませ入口へ進み、扉の取っ手を掴んでそのまま押し開けました。
くぐった先は確かにわたくしの家の玄関でした。
その証拠に左横の棚にはお母様の整えたいけばなが品よく飾られております。今朝見たのと同じものでした。振り返ってみると、闇に沈むいつもの前庭がありました。想い出図書館は跡形もなく、狐にでも化かされたような気分がいたしました。
「きく乃!」
玄関に切羽詰まったお顔の応次郎様が現れました。
「応次郎様。全部、想い出しました。颯太郎様が亡くなった理由も、お通夜で応次郎様と初めてお会いした時のことも」
「……思い出した、のか。その、今の間で」
応次郎様は拍子抜けしたような顔で呟きました。
「今の間?何をおっしゃっているのですか」
「屋敷を飛び出していくかに思えたのに、まだここに居るものだから」
応次郎様の口ぶりから察するに、わたくしが家を飛び出そうとした時から殆ど時間が経っていないようなのです。想い出図書館に居た時間は短くなかったはずですのに。
けれど、あれほど不思議な図書館なのです。もう何が起こったところでそれくらいならあり得るだろうとしか思いません。
「具合は、問題ないか」
恐る恐る、窺うように応次郎様が問いかけました。
「そうですね。けれど、もう今夜は休もうと思います。おやすみなさいませ」
わたくしは深く一礼し、自室へ向かいました。遅れて追いかけたらしいお父様ともすれ違いましたが、軽く会釈をしただけでそのまま進んでしまいました。
自室に戻り襖を後ろ手で閉め切ると、途端に力が抜けてその場に座り込んでしまいました。そして思わず身体を縮こませて頭を抱え込みました。
認めたくなどなかったのに……あの記憶の本で観ると、忘れてしまっていた記憶でもしっかりとした確信に変わってしまうのだとわかりました。もう、忘れていた頃には戻れないのです。
颯太郎様はもういない。いないのです。婚約者のわたくしの居る世では添い遂げることができないから、次の世で一緒になるために愛しい人と心中したのです。
そして、応次郎様にはなんて非道い仕打ちを。わたくしが居なければ、颯太郎様の代わりなどなさらなくて良かったのです。
わたくしさえ居なければ、お二人とも苦しまずに済んだのです。
わたくしは重い身体を起こし、文机へ向かいました。お手紙を書こうと思ったのです。
紙を用意し、硯に墨を磨り、筆を執って文面を考えます。案外心は凪のように穏やかで、写経をするような心持ちで紙面に筆を走らせました。
わたくしの颯太郎様への想いが変わらないことと応次郎様へのお詫び、最後に家族へのお詫びをしたため、書き終わると丁寧に四つ折りし、封筒へ入れて懐へ仕舞いました。
わたくしはひとつ深く息をつき、応次郎様がお庭を眺めながらお話したことを思い出しておりました。
「夾竹桃は花から根から全て猛毒だ。少量でも口にしたら最悪死ぬ」
死ぬならお花の毒で死ぬのが良いわ。颯太郎様と同じように。最期くらい、真似たって良いでしょう?
わたくしは裸足のまま、お庭へ降り立ちました。
夾竹桃の笹型の葉とうす紅い花弁が、月の光に明るく照らされております。先ほど応次郎様とお庭を眺めていた時は少し雲がありましたが、今ではすっかり晴れて、まあるいお月様が綺麗に浮かんでおりました。
夾竹桃の樹に近づくと、ふわりとやさしく甘い香りがいたしました。白粉のような、バニラにも似た香り。口に含んだら美味しそうです。
一体どれ程口にしたら死ねるのでしょうか。なるべくたくさん、両手に持てるだけではありましたが花を摘みました。
そしてわたくしは、一息にそれらを――。
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