3-8

 目を上げると、そこはもう図書館ではありませんでした。まだ暑さの残る風が頬を撫ぜてゆきます。水の匂い。柳の枝葉と水面がざわざわと音を立てました。去年は颯太郎様とふたりで大きな池のある公園を散歩して、そこで花束とお手紙が手渡されたのです。

「きく乃、これを」

 わたくしの目の前に花束が差し出されました。今日見たのと少し違うけれど、同じく菊を基調にしたものです。菊の清々しい匂いが鮮烈に香りました。

「ありがとう存じます。今年も素敵な花束」

 一年前のわたくしが花束を受け取り喜んでいます。その顔を見て向かいに立つ颯太郎様が柔らかく涼やかな笑みを浮かべました。

 颯太郎様……。

 目の前に颯太郎様が居ります。やはり双子だからでしょう、応次郎様は颯太郎様にそっくりだったのだと、颯太郎様の姿を見て改めて思いました。けれど雰囲気はもっと颯太郎様のほうが柔らかくあります。

 何か反応があるかしらんと気になって近づいてみても、もうひとりわたくしがいることにふたりとも全く気づく気配がありません。それならばとそっと颯太郎様に手で触れてみようともしましたが、わたくしの手は颯太郎様の肩を何の引っ掛かりもなくすり抜けてしまいました。

 やはり現在のわたくしが過去のことに干渉することはできないのです。

 過去の颯太郎様をずっと眺めてみたい気持ちもありましたが、触れることも話しかけることもできないのならただ虚しいだけです。

 もう、この日の記憶を観たって仕方がないわ。

 わたくしはばたりと大きく音を立てて、一度本を閉じました。

「どうです。お目当ての記憶は観られましたでしょうか」

 面を上げると、頬杖をついた砥草さんが柔らかく笑んでおりました。彼の隣にいた頼鷹君はというと、先ほど読んでいた本にご執心でした。わたくしが記憶から戻ってきたというのに、顔をちらとも上げないほど夢中のご様子。本の虫とはこの子のことを云うのでしょうか。

「いいえ、まだ。けれど記憶を『観る』というのはこういうことなのですね」

「お気の召すまま、幾らでもお読みになってください」

「ありがとう存じます」

 わたくしはまた頁をめくりました。颯太郎様に関する記憶があやふやなのはおおよそ半年前でした。今年の三月頃。

 ひとつ深呼吸をしました。

 本当は観なくて良いのならば観たくなどないのです。けれど自分を納得させるために観るほかありません。わたくしはもうひとつ深呼吸して読むことに専念いたしました。


 三月一日。立春を迎えたと云えど、まだまだ冬の寒さの残る時期です。

 早朝だと家の中でも息が白々と立ち昇り、しんと冷えた空気を肌に感じます。寒い時期特有の白っぽい陽の光がお庭を明るく照らしているのが目に映りました。部屋へ目を戻すと、わたくしは朝の支度のため鏡台の前で髪を結っているところでした。

「御免ください」

 朝も早いというのに誰か家へ訪ねて来たようで、お勝手口でばあやが応対したようです。二、三言葉が交わされました。しばらくしてそちらが急に騒々しくなり、わたくしは気になってお勝手を覗きに行きました。そこには、ばあやの他にお父様とお母様もお揃いになっておりました。

「お嬢様……」

 ばあやが青ざめた顔をして振り返りました。

「朝から一体どうしたの」

 わたくしの問いかけに皆が顔を見合わせると、お父様が言いにくそうに重たい口を開きました。

「驚かないで聞いてくれ。颯太郎君が亡くなった」

「亡くなった……?どうして」

「今朝川に浮いているのが見つかったらしい」

「事故ですか……そんな」

「いや、自死だと」

 わたくしは目の前が真っ暗になった心地がいたしました。

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