3-6

 わたくしは放心してしまって、しばらくぼんやりと颯太郎様の向かった先の縁側を眺めていました。けれど、このまま自室に戻ってしまうのも良くない気がして彼の後を追いました。

 颯太郎様は言葉通りお父様の書斎へ向かったようです。

「……俺にはやはり、兄の代わりなど務まりません」

 書斎の襖の前に立った時、漏れ聞こえたのはそんな一言でした。

「だが、きく乃は君のことを颯太郎君だと思い込んでいる。無理にその思い込みを正そうものなら、きく乃がまたおかしくなりかねん。それならば君もそのように振る舞うのが一番得策だと思わないかね」

「彼女の前で、これ以上自分を偽るのに耐えられません」

おう次郎じろう君、君は颯太郎君の双子の弟だったんだ。きく乃の前だけで良いのだし、颯太郎君を真似るのはさほど難しいようには思えないが」

「そう簡単におっしゃりますが……双子だからと云って、何もかも同じではないのです」

 襖の向こうでぼそぼそと話し合っているふたりが一体何をおっしゃっているのか、理解できませんでした。勿論、内容はくぐもっていながらも聞き取れます。けれどそれを納得することができなかったのです。

 わたくしが双子のおとうとぎみを颯太郎様だと思い込んでいる?

 そんなはずは、そんなはずなど……。

 それじゃあ、本当の颯太郎様は?

 わたくしが俯いてしばらく棒立ちになっている間に会話を終えたのでしょう、気づけば目の前の襖がすらりと開けられておりました。

「きく乃……」

 声をかけられぼうっとしたまま面を上げると、颯太郎様……いえ、ふたりの話によれば弟の応次郎様が、苦い顔をしてわたくしの前に立っておりました。

 じっくりとお顔を見ても、目の前の殿方が颯太郎様でないというのがにわかには信じられません。

 わたくしが、おかしいのでしょうか。

「……聞いていたのか」

 一緒に襖へ近づいてきたお父様が弱ったように眉を下げ、立派な口髭を撫ぜました。

「貴方様は颯太郎様、ですよね」

「聞いていたんだろう、俺は応次郎だ」

「ですが、わたくしが貴方様のことを颯太郎様と呼んでも誰も間違いだとおっしゃいませんでした」

 お父様とお母様、ばあやに熊井だって、誰も訂正などしなかったじゃありませんか。

 やっぱり、この方は颯太郎様に違いないのです。

「皆、君のために口裏を合わせていたんだ」

「そんなはずありません」

「君のためを思ってのことだ。致し方なかったんだ」

「貴方様は颯太郎様でしょう?」

「……颯太郎は、俺の兄は、君の婚約者は死んだんだ!死んだから、双子の俺が君の次の婚約者になったんだよ。わかるか?」

 強く、肩を掴まれました。

 颯太郎様は、一度だってこんなふうに乱暴などしませんでした。

 優しく、物静かな人で。

 柳のように涼やかに笑う人です。

 わたくしの肩を力任せに掴むような人とは、正反対の……。

 それじゃあ、この方は颯太郎様じゃあ、ない。

 本物の颯太郎様は、

「死ん、だ……?」

 嘘、うそよ。これは現実ではないわ。きっと夢。そう、夢なのよ。少しのあいだ悪い夢をみているだけなの。

 もうしばらく辛抱すれば目が覚めて、よかった、夢だったのねと笑っているに違いないのよ。

「お願いだ、受け入れてくれ。死んだ者は戻ってこないんだ。俺が代わりになることはできない」

「うそ、うそよ。うそだわ……うそにきまっているの……」

 わたくしはうわ言のようにそれしか云えませんでした。

「気をしっかり持つんだ。きちんとゆっくり、一から説明しよう」

「……嘘よ!」

 気づけばわたくしは肩を掴む手を振り払って廊下を一心不乱に駆け、草履も履かず玄関の戸を開け放ちました。

 からんからんと、何やら耳慣れない音が鼓膜を通り抜けてゆきました。

 おかしいのです。

 玄関を開けたとて、そんな鈴のような音が鳴るはずがありません。

 異変を感じるも急には止まれず、駆けた反動で二、三歩前へ進んでようやく面を上げると、わたくしは見知らぬ洋間に立っておりました。

 ここは、どこ?どうして?一体何が起こったの。

 それに何だか辺りは、埃っぽいような甘いような、不思議な匂いに包まれています。

 床は板張りで四方は白い壁に囲われた開けた空間でした。辺りは天井から下がった洋燈ランプによって煌々と照らされております。正面に目を移すと細く長く、薄暗い廊下が続いていました。

 その廊下をよくよく見ると、両脇には洋綴じ本が隙間なく整然と詰め込まれていました。それがずっと奥まで続いているようなのです。その果てはここからだとよくわかりませんでした。匂いの正体はこれらの古い紙の匂いのようでした。こんなにたくさんの書物は、貸本屋ぐらいでしか見たことがありません。

 理解が追いつかず、わたくしはその細長い廊下をぼうっと眺めておりました。

「こんばんは」

 突然背後から声をかけられました。

 よく通る、まだ声変わりのしていない少年の声です。けれど落ち着いた、ずいぶんと穏やかな響きをしておりました。

 振り返ると、尋常小学校の高学年くらいの男の子が大判の本を円い卓子テーブルの上に開いて、上等そうな木の椅子に腰かけておりました。

 艶やかな黒髪は目にかかるほどに伸ばしていますが、襟足が短い所為か野暮ったくはありません。この年齢の子ならまだ駆けまわって遊ぶのが大変楽しい年頃だと思うのですが、もうそんなことは卒業した、と云われてしまいそうな利発さがお顔立ちから見て取れました。

 この洋間に相応しく、白い綿襯シャに黒い半洋袴ズボン洋袴吊りサスペンダー、足元も長靴下をベルトで吊って革靴と、完璧なる洋装に身を包んでいます。生地がとても上等そうなのに服に着られているという訳もなく、もしかしたら華族様のご子息なのかもしれません。

 如何して気づかなかったのでしょう。

 会話ができるほどの近さだというのに、全く気配を感じることができませんでした。この子のどこかひっそりとした佇まいの所為かもしれません。

 そしてわたくしの非道く吃驚した顔を見て、男の子は少年らしからぬ穏やかな微笑を浮かべました。そして本を静かに閉じて椅子からするりと降りると、笑みをたたえたまま口を開きました。

「ただいま館長をお呼びしますね」

「館長?」

 わたくしの疑問に男の子はアっと思い出したように声を上げ、取り繕うように咳払いをして答えました。

「説明が遅れました。ここは想い出図書館と云うのです。ですから館長をお呼びしますと」

「想い出、図書館?」

「はい。世界中の人の記憶をひとりにつき一冊、本の形を取って保管している図書館です」

 澱みなく、決められた台詞のように男の子が説明を口にしました。

 人の記憶が本になっているだなんて。日記のようなものかしらん。

 それにしたって、わたくしの家を飛び出したら数歩でこの場所に居たことの説明がつきません。ひょっとして夢でもみているのでしょうかと、試しに頬をつねってみました。

 ……痛いわ。

 わたくしの反応に男の子はくすりとしました。

「夢ではありませんよ」

「でもわたくし、家を飛び出したら突然ここに居たんですもの」

「案外あるものですよ。僕もここに来たきっかけはそれでしたから。おそらく図書館に呼ばれたのだと思います」

「呼ばれた?」

「詳細は館長に聞くとよいでしょう。あと、お名前をお聞きしても良いですか?ついでに貴女の本も探してもらいましょう」

「如何して本を探すの?きっと必要ないわ。あの、もう帰っても宜しいかしら」

「いいえ、必要なのだと思いますよ。初めて訪れる人こそ、必要に駆られたからここへ来られたのです。初めての人は、必要な記憶を観て、想い出せたら帰ることができます」

「じゃあ、思い出せなければここから帰ることはできないの?」

「恐らく。けっして脅迫などではありませんよ。図書館がそういうふうにできているようなのです」

 記憶を読む、のではなく観る、というのも気になりましたが、記憶を思い出せれば帰れる仕組みだなんて、そんな枠外なことがあるでしょうか。けれど穏やかな雰囲気のこの男の子の言葉には、不思議な説得力がありました。

 わたくしは流されていると感じつつも名前を男の子に伝えました。

「では、直ぐに呼んできます。こちらでお待ちください」

 男の子は今まで座っていた椅子を指し示し、廊下の奥へ行ってしまいました。

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