3-5

 夕餉のコロッケは初めてにしては大変美味しくでき、家族にも好評でございました。

 他の節句のお料理もどれも美味しく、颯太郎様もお酒が進んで結局うちに泊まることになりました。

 お酒で問題を起こすような方ではないのですが、うちは郊外なので帰りは暗いし万が一のことがあってはことだからと、用心してお父様が引き留めたのです。

 颯太郎様には客間があてがわれ順番にお風呂へ入ることになり、わたくしは一旦自室へ引き上げました。

 明かり取りの窓辺に、夕餉の前にばあやが活けてくれた花束が飾ってありました。

 毎年欠かさずお手紙を添えてくだすっていたのに、どうして今年は……。

 また一人になると、すっかり頭から消えていた違和感がまた甦りました。

 わたくしはふと思い立ち、机の下に仕舞っておいた文箱を開けました。大切なお手紙は全部ここに仕舞っておいているのです。

 何通もあるお手紙の中から、昨年の重陽の節句に頂いたお手紙をそっと開きました。


「拝啓

 朝夕涼しくなつて参りましたが御清祥の事と存上ます。

 今年も花束を贈りたう存じます。

 亦、菊やダリヤに貴女の顔を思ひ浮かべ選ぶのが楽しかつた。

 同僚に婚約者殿に毎年花を贈るようにしているのだと話したら君は気障だなと云はれました。貴女もやはりそう思はれるのでせうか。嫌ならばどうぞ遠慮なくはつきりとお云ひになつて下さい。貴女が嫌だと思ふことはしたくないのです。

 先日より米の高騰で暴動が起り小生も鎮静に駆れる日々を送つて居ります。忙くはありますが近々御会い出来る事楽しみにして居ります。

                                    敬具

 大正七年 九月九日

                                 袴田颯太郎

 ぞうじょうきく乃様」


 手蹟は大変流麗です。眺めているだけでも惚れ惚れとします。

 内容は短いですが大変好感の持てるものでした。「菊やダリヤに貴女の顔を思ひ浮かべ」という一文を読み返しては、何度お手紙を胸に抱きしめたことでしょう。

 この時も確か、颯太郎様は毎日が忙しいと笑っておりました。それでも昨年はお手紙をわたくしに確かにくだすったのです。

 わたくしは思い至りました。

 もしかして、お手紙をくださらないのはお忙しいのではなく、わたくしに愛想が尽きてしまったということなのかしら。

 いいえ、いいえとわたくしは首を振りました。

 それだったら花束など値の張るような贈り物だって贈るはずないじゃない。

 きっと考え過ぎよ。違和感だって気の所為だわ……気分転換でもしましょう、とわたくしは障子を大きく開け放ち空気を入れ替えました。

 障子を開けると板の間の縁側があり、その先の庭先には月明かりに菊の花が競うように綺麗に咲いていて、清々しく好い香りを漂わせております。

「やあ」

 少し目線を下げると、湯上がりで浴衣に着替えた颯太郎様が、縁側に腰を下ろしておりました。

「まァ、颯太郎様……!」

「一寸、夜風に当たりたくてな」

 そうおっしゃって颯太郎様は団扇を扇ぎつつ、にかっと笑いました。

 ――今までも、こんな笑いかたをしたかしら。

 またも違和感が頭をよぎりました。

「……ご一緒しても?」

 わたくしはちらついた違和感から目を逸らし、隣に腰掛けました。

「見事な菊だな。流石君の家の庭だ」

「いつもご贔屓にしている庭師に頼んでいるんです。他にもいろんな花が植わってあるでしょう。ホラ、竜胆りんどう百日紅さるすべり、それに夾竹桃きょうちくとう

 颯太郎様はわたくしの指差したお庭のほうをしばらく眺めていました。そうして花々へ視線を留めたまま、ぽつりとつぶやいたのです。

「——如何どうして植物には、毒があるのと無いのがあるんだろうな」

「毒、ですか」

「そうだ。正確には人間には無害でも動物には有害なものがあるから、植物の多くは毒があると云っても過言でないが。人間に対してなら、竜胆は薬になる。百日紅や菊には毒は無いと聞くが、夾竹桃は花から根から全て猛毒だ。少量でも口にしたら最悪死ぬ」

「颯太郎様は博識でいらっしゃるのですね。そういったことも警察で学ばれるのですか」

 わたくしの問いに颯太郎様は乾いた笑いを零しました。

「一寸本で読んだ程度だ。博識と云うのもおこがましい」

 そしてそこで初めてわたくしの目をしっかりと見ました。

「君は本当に俺が颯太郎だと思っているのか」

 その言葉にわたくしは言葉を失いました。

 何故突然そんなことを聞くのか皆目わかりません。目の前の殿方は颯太郎様に他ならないのですから。

 どうして他人と見間違えることなどありましょう。

「あ、貴方様は、颯太郎様に……違い、ありません」

 けれどいざ口にしてみると、どうしてかその答えに自信が無くなってしまうように思えました。

 黒橡くろつるばみ色の瞳。それが射貫くように真っ直ぐにわたくしへ向けられ、思わず目を背けました。それをとがめるように、颯太郎様はわたくしの肩を抱きすくめてきました。

「君はそうやって、ずっと現実から逃げるつもりか」

「現実から、逃げる……?いったい、なにを」

 何を、言っているのでしょう。

 わたくしは逃げてなど、現実から目を背けてなど……。

「君の『颯太郎様』は今の俺みたいに、君に強い言葉を使うような奴だったか?」

 問われ、何かを思い出しそうになりました。けれどやっぱり靄がかかったようになって、像を結ぶことができません。

 呆然とするわたくしに、颯太郎様は言葉を重ねました。

「わからないのなら教えてやろう。君の『颯太郎様』はな……」

 その先を聞いてはいけない気がして、わたくしは咄嗟に自身の両の耳を強く塞ぎました。何か大変怖いことのようで、急に震えが止まらなくなりました。夜風が涼しいというのに、汗が首筋をつぅと伝っていきます。

「……すまん。怖がらせてしまったな。今のは忘れてくれ」

 ふ、と肩を掴む力が緩み、颯太郎様は嘆息して立ち上がりました。

「一寸、君のお父上に話をしてくる。邪魔をした」

 そうおっしゃって、少し疲れた表情でその場を立ち去っていきました。

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