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 わたくしは自室に戻ると、常々女学校へ着ていっている袴から銘仙の単衣ひとえに着替えました。

「嫌だわ、着替えるだけでもう暑い」

 ようやく九月に入ったもののまだまだ残暑が厳しく、わたくしは直ぐにその単衣の裾をはしたなくもからげてしまいました。自室でほかに人も居りませんので、勝手気ままなものです。

 朝は幾分か涼しかった所為で、髪をマガレイトに結ったのにも若干後悔しておりました。

 ほんとうはこんな陽気だったら、うなじが空く英吉利イギリス結びにでも結ったほうが良かったのです。けれど結い直そうにも今日は思った以上に綺麗に結えてしまったので、解いてしまうのが勿体なかったのでした。わたくしはお洒落は我慢だと自分に言い聞かせました。

 今日の課題はお裁縫でした。

 進めようという気持ちはあったのですが、また一人になると颯太郎様がいらっしゃることが思い出され、気もそぞろになってしまいます。

 それでも期限は明後日。早く済ませるに越したことはありません。ひと針ひと針、いずれ袴になる布地に糸を通してゆきました。わたくしの通う女学校も他の学校と違わず良妻賢母を教育方針にしておりましたので、お裁縫の課題が多く辟易することもしばしばでございました。

「只今帰った」

 ようやく身が入ってまいりました時に、玄関のほうから声がしました。

「旦那様、お帰りなさいませ」

 お父様がお仕事から戻ってこられたようでした。

 応対にはお母様が出向いたようで、しばらくやりとりが続いていました。ですが、普段ならそう長く玄関先で話し込むことなどないのに、今日はやけに長いのです。わたくしは不思議に思って、気持ち襖へ近づいてじっと耳をそばだてておりました。

 廊下でつながっているものの玄関とわたくしの自室は一間ひとまを挟んでおり、やはり話し声は聞こえても内容までは聞き取れなかったのでした。いっそ出ていってみましょうかと思い始めました時、突然お母様の呼ぶ声がしました。

「きく乃ちゃん、きく乃ちゃん一寸。一緒にお出迎えをして頂戴な」

 聞き耳を立てていたのをとがめられたような気がして、わたくしはびくりと肩を震わせました。けれど呼ばれたのだからこれ幸いと、急いでからげた裾を戻して玄関へ向かいます。

 そこにはお父様と一緒に颯太郎様がおりました。

 ――まさか、こんなに早くお着きになるなんて。

 颯太郎様は夕餉の頃にお越しになると聞き及んでいたのです。

「よ、ようこそいらっしゃいました。お父様、お帰りなさいませ」

 思いがけないことで心の余裕が持てず、声が上ずってしまいました。何せ三月みつき振りにお会いするのです。心の臓も幾らか早鐘を打っております。床に手をつき一礼をしましたが、その仕草もぎこちなかったように思いました。

「彼と途中で一緒になってね。それじゃあ一緒に行こうかと」

 お父様の説明に、颯太郎様が笑みを滲ませ帽子を取って会釈をいたしました。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 面を上げるとわたくしに向かって涼やかに笑いかけました。それだけでもうどきりと胸が高鳴ります。

 庁舎からそのままいらしたようで、颯太郎様は制服を身に着けておりました。普段の着流しも素敵ですが、詰襟の制服だとより一層精悍で凛々しい印象を持ちます。

 その一見硬い印象が、涼やかで柔らかい笑顔によって緩むのが大変素敵なのでした。

「颯太郎様。お久しぶりでございます」

 わたくしがご挨拶をすると、颯太郎様の笑顔に、急に陰りが差しました。

 ――わたくしの態度にご気分を害されてしまったかしら……。

「あの……わたくしに至らぬことがありましたでしょうか」

「あ、いや……そう云う訳では。そうだ、これ」

 おずおずと問うてみると、颯太郎様ははっとしたように笑みを取り戻し、後ろ手からばさりと花束を差し出されました。

 薄紫と黄色の和菊に大輪の白いダリヤ、そしてわれこうが品よくまとめられた、大変立派なものでした。

 わたくしの名前に「きく」が入っているから毎年贈ろうと約束してくださって、この重陽の節句の日に贈ってくださるのです。

「まァすごい、素敵な花束。ありがとう存じます」

 わたくしの感嘆の声に颯太郎様が満足そうに頷きました。そこでわたくしは、はたと気づきました。

「……今年のお手紙は、ないのですね」

 今まで三度とも、花束と一緒に必ずお手紙を添えていらしたのです。今回のように家へいらっしゃった時でもそれは例外ではありませんでした。花は枯れても、文で残せば記念になると。

「手紙?」

 颯太郎様はきょとんとしたお顔で聞き返されました。

「はい。お花とともに、去年も」

「そう、だったな。すまん、その……忙しくて」

「いいえ、お忙しいのでしたら構いません。それだけご活躍されていらっしゃるのですね。大変ご立派です」

 わたくしは笑みを浮かべて応えましたが、違和感を感じておりました。

 まっさらな紙に薄い墨が一滴落ちたような。

 ごく薄い染みではありますが、紙は確実に色を変えてしまって、やはり無視するのは難しい……そんな心地です。

 思えば今日はずっと違和感がありました。チヅさんに熊井、そしてばあやにも。

 おかしいと思うのですがそれがどうしてなのか、心に問うとどうしてか途端にぼんやりとして像を結ぶことができません。

 思案に沈んでいたのは一瞬だったようで、誰もわたくしの不安には気づいていないようでした。

 その時丁度買い物からばあやが戻ってきて、わたくしはお母様とともに、夕餉の準備を手伝うため一旦颯太郎様と別れることになりました。

 ばあやの指示のもと、もくもくとコロッケを作る頃には気づけば感じていた違和感は朝靄が昼には散るようにすっかり消え去っていたのでした。

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