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 ご学友たちに別れを告げて、わたくしは家のお抱え車夫である熊井くまいの引く人力車くるまで帰途につきました。

 熊井は名前のとおり熊のような風体で口調も少々粗野ではありますが、毎日の女学校への送り迎えが大変丁寧で人柄も良く、信頼の置ける人でした。

「お嬢さん。今日の学校はどうでございやした?」

 いつものように道中で熊井が話しかけてくれました。話好きな人なのです。

 今日習った授業の話や、お友達の噂話だとか。何を話しても面白そうに聞いてくれるので、聞き上手でもあるのでしょう。わたくしは熊井との日々のおしゃべりがけっこう好きなのでした。

一寸ちょっとぼんやりしてしまって、チヅさんに心配されてしまったわ」

「そいつは……そうですね、まだ本調子じゃねえのは仕方ねえや。無理しないで美味い飯食って寝るのが一番でさあ。そうだ。今夜は菊湯じゃあないですか。風呂にゆっくり浸かるのもいいもんですぜ。で、湯船に浸かって『コロッケの唄』でも歌えば、もうすっかり元気になっちまいまさあ」

 そうして「コロッケの唄」を往来など気にするふうもなく、景気よくふんふんと口ずさみはじめました。

 熊井の云う「まだ」というのはどういうことなのでしょう。けれど熊井のなかなかに調子の利いた歌を楽しく聞いているうちに、気づけばわたくしの頭の中もコロッケでいっぱいになっておりました。

「嗚呼。熊井がそんなに楽しく歌うものだからわたくし、どうにもコロッケが食べたくなってしまったわ」

「やや、俺の所為ですかい。そんじゃあ、おトキさんにお願いしたらどうです?帰って直ぐにでも頼みこんだら、夕餉に間に合うかもしれませんぜ。今日は袴田はかまだの坊ちゃんもお見えになることですし」

「そうね!せっかくいらっしゃるのだもの。重陽の節句のお料理も特別ではあるけど、それ以外でいつもと違うお料理が出たらとっても素敵だわ!」

 熊井の云う「袴田の坊ちゃん」とは袴田そう太郎たろう様のことでした。

 わたくしの、将来の旦那様になるお方です。

 警視庁の警部補を務めていらして、十五のわたくしより十三も年上の、ずっと大人の方でございました。精悍なだけでなく性格もまめで誠実で優しく、わたくしには勿体ないほど素敵なお方でした。

 殿方の元へ嫁ぐのであれば女学校を途中で退学するのは当たり前のことだのに、わたくしが卒業するまで待ってくれるとまで言ってくださるような、それほど寛容なお方でもありました。

 お見合いのお話が出た時はじめはお家のためと渋々お受けしたものの、何度かお会いしてゆくうちに惹かれてゆくようになったのです。

 ずっと年下の小娘と云ってよいわたくしの他愛のない話も真剣に耳を傾けてくれ、気配りと思いやりにあふれ、草花を愛でるような心根の優しい方で、わたくしを名前のとおり菊の花のように可憐だと口にされた時には、恥ずかしながら……もうすっかり颯太郎様にぞっこんになっていたのです。

 そうです。わたくしがずっと浮き足立っていたのは、颯太郎様が久方振りに今夜うちに来られるからなのでした。

「そんじゃあ、もう少うし飛ばしましょうか」

「そうね。ア、待って。ちょっと寄りたいところがあるのだけど」

「エ、何処ですかい」

 わたくしにはひとつの案が思い浮かんでいたのでした。

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