第三話 花の記憶

3-1

 わたくしは、今朝からずっと浮き足立っておりました。

「ねェきくさん……貴女、大丈夫?今日は何をそんなにずうっと、ぼんやりだったりそわそわしてるのかしら」

 女学校でいちばんの仲よしのチヅさんにも、こんな風に心配される始末。本日最後の授業が終わって、皆各々帰り支度をしているところでした。

 わたくしも早く仕舞って帰りましょうと急いでいたのに、袴の裾を翻してお転婆に駆けてきたチヅさんに声をかけられたので実のところ少々迷惑をしておりました。けれどチヅさんは大切なお友達。邪険にしてはなりません。

「アラ、そう?そんな風に見える?」

「見えるわよう。外なんかぼうっと眺めちゃって。ホラ、授業の板書だって全然写してないじゃない」

 わたくしの学習机を示されて、ようやくその上に開いたままの帳面がまっ白なのに気づきました。途端にかんばせが、かあっ、と紅潮するのが自分でもよくわかって、慌てて帳面を閉じて風呂敷にまとめました。

 ですが、取り繕っても後の祭りというものです。わたくしはおずおずと上目づかいにチヅさんを見やりました。

「その……御免なさい。次の授業までに写させて欲しいのだけれど」

「勿論いいけれど、ぼんやりそわそわの理由を教えて頂戴よ。それが条件だわ」

 少し冗談めかしたようすでチヅさんがころころと笑いました。

 理由が何なのか、それは十分すぎるほどにはっきりとしています。

 今日、九月九日は重陽の節句だからです。

 邪気を払い長寿を祈願するため、一晩菊の花に纏わせて夜露と香りを吸わせた綿わたで身を清め、後の雛を飾り菊酒や菊湯の用意をして……と、朝から家の者も皆はりきっておりました。わたくしは予め干しておいた菊の花弁を枕に入れて寝るのが楽しみでしたが、それは例年決まった行事というだけ。ほんとうのほんとうに楽しみにしていたことは、ほかにございました。

「今日は特別な日なの。重陽の節句、だから」

 幾らチヅさんと仲よしだと云っても、みなまで云うのは憚られました。だって、それで授業に身が入らなくなってしまうだなんて、ずいぶんと軽薄な娘だと思われたくなかったものだから。

 けれどチヅさんは「嗚呼、そうね。そうだったわね……」と矢庭に表情を曇らせて得心したようすでした。

「気をしっかり持ってね。お願いよ。これから良いことだってきっと沢山あるのだから」

 手をぎゅうと握られてどうしてか励まされました。

 何か、勘違いをされているような……。

 けれどチヅさんの真剣なお顔に、わたくしは何も云い返せずほほえみを貼りつけたのでした。

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