020 魔物、来る

 夜の王都を駆け抜ける姿があった。右前腕に鎧の留め具をひとつぶらつかせ、きょろきょろとあたりをつぶさに見渡しつつ、明かりも持たずに疾走する。

 コツコツコツ。あっちへこっちへと、時折立ち止まっては道の向こう側を見つめて、再びだっと踏み出す。じめじめとした気温の中、顔に浮かぶ汗が玉となり、肌着に染みこんでいく。それでも構わずに、来た道を戻ることもせず、明かりも持たない少年は鎧など身に着けていないように軽やかに迷っていく。

 やがてルーネルは一つの明かりを見つけて立ち止まる。呼吸を整えながら顔を上げると、今にも消えそうなランプが冒険者ギルドの看板を照らしていて、数匹の虫が戯れている。地面に蠢く影を落とすそれを一瞥すると、彼は改めて目を細め、奥歯をかみしめながら壁面と地面の境を舐めていく。

 左手が右手首を握りしめる。ノブをまわせば開くだろう入口になど目もくれず、ルーネルはじっと足元に集中するばかりだ。

「ない……」

 焦りの色が浮かぶ顔で、ぽつりと呟く。右手の爪が首に突き立てられるが、グローブによって阻まれる。だが強く押し付けられたそれは皮膚の上に三本の赤い跡を残した。

 ギルドから出たルーネルたちは、以前コーエたちと共に歩き回った記憶を頼りに、宿へと向かった。とはいっても、はっきりと道を覚えていたのはアイレのみで、覚えてないの、と彼女は呆れていた。その途中、魔物や森の集落について軽口を叩いていたのだが、

「いつ……いつ落とした……」

 彼はそれがいつ、なくなったのか覚えがないようだった。

 踵を返して走り出そうとしたとき、扉が開いた。内側からぐんと伸びる光に、少年の後ろ姿が照らされる。

「ルーネル?」

 名を呼ばれ、上半身をひねって振り返った先にいたのは、ノブに手をかけ、目を丸くしているクーオだった。数時間前に別れたときとは異なり、上下共に明らかな私服姿だ。白いシャツにくすんだ黄の上着。

 足を止めたルーネルが彼の名を口にするも、歩み寄ることはなく向き直る。

「なんだよ、急いでるんだ」

 だが肩をすくめたクーオは、まぁ待てよ、と少年を引き留め、ガヤガヤと騒がしい屋内への扉を閉じた。漏れていた音に再び封がされ、闇はしんとした静まりを取り戻す。

「そこが俺の借りてる部屋でな。おまえを見つけたもんで、出て来ちまった」

 頭上に見える窓を指さしたクーオだが、もちろんルーネルにとってはどうでもいいことに変わりはない。油を売っている暇なんてないのだと再度主張するが、まぁ落ち着けよ、と青年は微笑みながら近づく。

「ティーカがお前のこと、探してたぜ」

 なんで、と愛想悪く尋ねるが、軽く肩をすくめるばかりだ。そうとなれば少年がここで彼と言葉をかわす理由など微塵もない。明かりもない闇へと、再び歩き出そうとするルーネルだったが、わずかに遅れてクーオはついていく。

 続く足音。ついてくんな、と怒る彼に、そうかりかりすんなと、二対の足音が断続的響き渡る。コツ、コツと繰り返し、きょろきょろと道裾を見て回る姿を、どことなく楽しそうにどことなく楽しそうに眺めている。時折、どこへ行くんだと背中に声をかけ、異なる道を指し示す。

 示された道へと進路を変えるか、といえば必ずしも従うことはなかった。だがいつまで経っても、おかしそうに見つめているクーオは後ろから主導権を得ようと声をかける。

「いい加減にしろよ! お前には関係ないだろ!」

 ついにくるりと振り返るなり睨みつけて、声を張り上げた。すると、おまえがなぁ、とどこからか酔っているらしい声が小さくひとつ。聞こえてきた方向にも睨みをきかせたものの、相変わらず夜ばかりがある。

 そこからクーオは何も言わず、彼の後をつけた。

 やがてルーネルが足を止めて、軽く空を見上げる。だが建物の隙間からのぞく満天の星を見上げているわけではない。ゴゥ、ゴゥと小さな音の響く中、彼の隣に立ったクーオは、やっと着いたな、と音の正体を指さす。

 よくよく目を凝らせば、だだっぴろい空間の中に、四頭のドラゴンがいる。

 ぼんやりとした輪郭だが、一頭はゲンドだ。暗いため、はっきりとした色は分からないが、土色、深緑、赤といった鱗を持つ者たちがいて、二人が近づこうともその巨体は思い思いの姿で眠りに入り浸っている。いずれも前脚がない代わりに翼があったり、首が短かったりと、姿かたちが全く異なっていた。

 呆然と立ち尽くすルーネルより一歩前に出たクーオはあたりを見渡す。

「すごいだろ? 凄腕の冒険者が手懐けた竜たちだ。戦闘慣れしてるのは、ゲンドくらいだけどな」

 幻獣がここまで揃えば、商人含め、人々が黙っているはずがない。どこに彼らは生息しているのか、新たなドラゴンが冒険者について来る度に、あの手この手で生息地を聞き出そうとする。

 しかしクーオいわく、彼らは頑として口を割らない。いずれの冒険者も、飲み仲間にさえも漏らすことがないのだという。彼の見解では、そもそもどこで出会ったのか、覚えていないのでは、推測しているが、答えは分からないままだという。

 そう説明しているうちにゲンドのもとへとたどり着く。四肢を後ろに投げ出し、腹這いになる間抜けな姿を尻目に、彼は同僚の名を呼ぶ。ルーネルはその後ろで、ゆっくりと開いた獣のとろんとした目を見て、くすりと笑う。

 だが返事はなかった。鞍のない彼の背中にも、その懐にも鎧の女性はいない。

「いつもならここにいるんだがな……どこ行った?」

 こんな夜更けに、無駄足に終わってしまったことを謝りながらクーオは戻ることを提案する。先の不機嫌はどこへやら、そんなことはないと礼を言う少年は同意する。じゃあ、と来た道へとクーオが歩を進めようとしたそのとき、ゴォゥ、と不気味な音が木霊した。

 二人は立ち止まる。

 眉をひそめるクーオが、再び鳴る音に、ドラゴンたちの方を見やる。

 スンと鼻を利かせたルーネルが、帯剣していないことに気づき、腿につけていた短剣に手を伸ばす。

 ゴォゥ、ゴォォ、オオォ。

 地響きにも似た音は、ゲンドの喉からだった。じっと二人の方を向きつつ、さっきまでまどろんでいた目を大きく開き、何もない道の先を睨みつけている。ルーネルの肩がゆすられ、そちらを指さすクーオ。

「魔物だ!」

 少年が振り返り、視認するが早いか、叫ぶ。

 闇に紛れて分かりづらいが、黒いもやがふわりふわりと漂っている。それはみるみるうちに密度を増して、形を取り始めていた。

 彼らの目の前で、霧は成長期も迎えていない子供のような姿になる。だが子供というには前かがみで、後頭部には二本の角をいただき、左手には黒光りする剣らしいものが見えた。

 霧が動いた。

 足を使って駆けた魔物は大振り気味に剣を振る。目を丸くしてクーオがよけると、彼の私服が裂けて穴があく。一方で頬を吊り上げたルーネルは屈み、短剣を振りぬく。集落のときと同様、空を斬るに終わる。

「おいおいおい、なんでこんなとこに」

 獣の威嚇はまだ続く中、嫌そうに歯ぎしりをするクーオは距離を取り魔物の様子をうかがう。

「ここでこいつを消さないと、犠牲が出る! 協力しろよ!」

 足払いをしかけ、効果がないことを確かめるや否や地面を蹴って距離を取るルーネル。短剣を握りつめつつ立ち上がり、敵を睨みつける。

「後輩に命令されるときがくるとは……核を探して、潰せばいいんだな?」

 肯定の返事と共に、魔物がゆらりと体勢を整える。

 ガウ、と呻りが中断する。クーオもまた鼻を利かせると、背後を顧みる。同じような魔物がもう二体、闇から溶けだすかのように形を持ち始めていた。

「……なんっでこうなるんだ!」

 苛立ちの混ざった叫びが、静かな王都に木霊した。

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