010 交渉、月夜の晩に

 べったりとまとわりつく闇の中、ピシャリとガラスが割れる音。一瞬遅れてシャラシャラと煌びやかに地面にぶつかり、まだビンの中に残っていたのであろう液体が広く地面にぶちまけられ、閉じ込められていたアルコールの臭いがうっすらとただよった。

「まだ帰ってこねぇのか!」

 灯りに照らされながらこめかみに青筋を立て、繊細な演奏をかき消すのは一人の大男だ。

 ぼろぼろでつぎはぎだらけの汚れた服を身にまとい、筋骨隆々との言葉がふさわしい彼は、さらにビンの飲み口部分も地面に叩きつけ、粉々に砕いた。続けてよろよろと歩いて、これまたぼろぼろの椅子に勢いよく座り込んだ。

「おぃ、もう夜だぞ? 一人も帰ってこないってのは、どういうこった」

 ぎろりと黒い三白眼が、整列している賊たちを射る。皆が口をつぐむ中、一歩踏み出したのは一番前にいた一人だ。

「だ、大丈夫ですよ、ゼガンさん。四人に勝てるはずがありませんって!」

 中腰になりながらひきつった笑みを向ける、いかにも下っ端らしい彼は、喉を鳴らしながらじろりと機嫌の悪いらしいお頭、ゼガンの鋭い視線を一身に受ける。

「……で、やつらは下から来たやつか? それとも、旅人かなんかか?」

 ガラスの破片が、靴と地面の間でギャリ、ギャリ、と。

「一人の後ろ姿は、そうでした」

 ゆっくりとため息をつきながら、腰につけていたポーチを開く。葉巻の詰まったそこから大儀そうに一本取り出し、口に。慌てて整列していたうちの一人がマッチを取り出して、素早く火をつけ差し出した。

「せ、正確には、鎧を全身に着込んだのが一人、身なりのいい戦士が一人と、下のやつと思われるやつが一人、です!」

 煙が大きくなったのを認め、マッチの男はすばやく身を引いて火を消し、列に戻った。

「加えて、追わせたやつ以外に二人、帰ってこねぇ、か」

 歯ぎしり。ゆっくりと葉巻を赤くしてから、吐き出す。

「どっからか来た騎士ってか。ルーネルとかいうやつらかもしれねぇ」

 ゼガンが一人の名を呼ぶ。次に現れたのは、火傷や青あざだらけの筋肉質な男だった。

 昨日、馬車の襲撃に失敗した彼は命からがらここまで帰ってきた。収穫ゼロどころか損害しか出さなかった失敗に、ゼガンがさんざん痛めつけたところだった。

「子供のうち、二人は、皮の鎧を着てました。こいつの言う、やつとは、違うかと」

 じゃあ残りの一人だな、と睨みを利かせるものの、男は否定する。

「残り一人は、村娘のようでした。しかし、ばかみたいに矢を当てるようなやつで」

 再び吸い込んだ煙が吐き出される。

「や、やつら、誰も殺せねぇようなやつらで、全員、捕虜になってんじゃ……」

 馬鹿いえ。葉巻が揺れる。

「昨日も言っただろうが。そんな芸当できるガキなんざ、この世界にいるはずがねぇだろ。とにかく、返り討ちにするにも、手が足りねぇ。なんか案出せ」

 ふんぞり返り、ぼんやりと照らされている者たちを眺める大男。ゆうに十はいる男たちは視線を泳がせながら沈黙を続ける。残り少ない葉巻の味を楽しみ、ぽいと破片の散らかる地面に捨てられた。まだ燻る火の粉が、赤い輝きと共に臭いを放ちながらふわりと舞う。だがそれも一瞬のことで、ゼガンが踏みつぶす。

 ガリ、ギャリ、ガリ。ゴリ、ガリ。

「では、わたしたちと協力なさりません?」

 誰もが口をつぐむ中、この場に似つかわしくない声が洞窟の中に響いた。

 コツ、コツ。ゆっくりとしたリズムに目を丸くしているのは下っ端たちで、背後、あるいはお頭の向こう側の闇を見通そうとするものの、コツ、コツと靴音は繰り返す。

 誰だ、とゼガン。三白眼をゆっくりと巡らせる彼。反響しているのではなく、洞窟そのものが鳴動しているかのような、そして規則的すぎるリズムが続く、続く。

「わたし、ユーラ、と申します。もし、必要ならば、あなたたちに手を貸すことが、できます」

 ゆっくりとした女性らしい言葉遣い。

「ああ、ご安心ください。断ったとして、あなたたちに危害を加えるつもりは、これっぽっちも、ありません」

 震える手で得物を取り出しながら構える部下たちの一方、不愉快そうに眉をひそめるゼガンだが、一向にその姿は見えない。

「ただ、このあたりは、あなたたちの縄張りのようでしたから、もし、協力関係を結べるならば、と思いましたの」

 淑女を思わせる、控えめな笑い声。これもまた、壁全体から響いてくるようだった。

「信用される、とでも思ってるのか、女」

 終わらない、不気味な鳴動にじっとりと汗を浮かべている山賊たち。唯一、耐えていたゼガンも一筋、ズボンに垂らしてしまう。対してユーラと名乗る声は、もちろん思っておりません、と明るく返事をして、立ち止まる。

「なので、二つ、お伝えしたく、はせ参じました」

 止んだ靴音の主の姿は、相も変わらずどこにもない。岩壁すべてに口があり、山賊たちを見つめているようだ。

「一つは、あなたたちのおっしゃる下の者たちが、何やら戦いの準備を進めている様子」

 もう一つは、とゼガンが背後の闇をじろりと睨む。

「明日、わたしたちが彼らの相手をしようと思います。よろしければ、この上の特等席にて、ぜひ、ご覧くださいませ」

 わずかな衣擦れの音の後、コツ、と。

「協力関係を結ぶのは、その後でも、構いません。また、明日、お会いしましょう」

 また静かな笑みがあたりを満たしたかと思うと、突然消えた。不気味なリズムが刻まれることもなく、忽然とその者がかき消えたように。

 ようやく訪れた、オオ、オォと洞窟特有の音が鳴り始めた。いくらか遅れて警戒を解いた山賊たちは互いに顔を見合わせる。あたりを見渡すばかりだった臆病な男は、ゼガンの眼前で小さくなりつつ震える口を開く。

「な、なんだったんでしょうか。ユー、ラとか言ってましたけど」

 顔を上げた大男は、いっそう白く見える顔を視界に入れるなり大儀そうに立ち上がる。大股で彼に近づいたかと思えば、今日はもう休んでおくように部下たちに伝える。

「あいつの言うこと信じるなら、少なくとも、今日は安全だ。だが気は抜くなよ」

 威勢のいい返事をした彼らはあっという間に散り散りになり、それぞれの持ち場へと戻っていった。残ったゼガンは再び椅子にもたれていびきをかき始めた。


 森の中、パチパチと焚火に揺れる影がひとつ。

「あー、戻れっかな、じいさんとこ」

 身に着けていた荷物全てを下ろし、外套をすっぽりと被っているのはクーオである。どうにか見つけた一人がどうにか休めそうなスペースで、火が燃え広がらないよう見張っている。

 囮となって山賊を引き付け、どうにかこうにか返り討ちに成功するも、すっかり帰り道を見失ってしまった。そのうちに夜となってしまい、最低限の装備で一夜を過ごす羽目となってしまう。

 ここがどこから分からずさ迷う中、たまたま見つけることができた未熟な果実を串に刺して、簡易な食事とする。だが彼を待ち受けていたのはまだまだ硬い果肉で、失敗したなぁ、とぼやくのだった。

「どうせ、弱小貴族だっての」

 誰に向けたでもない言葉の後、火の始末をした彼は近くの木に登り、硬く太い枝に身を預けた。木漏れ日とは違った穏やかな光が、横になる彼に降り注ぐ。

ふと視界の隅に、遠くに現れた、きらりと輝く石の巨塔に興味を持つことなく。

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