後編




 私は旦那を裏切った。


 パート先に来る他会社のお偉いさんに口説かれて、つい肉体関係を持ってしまった。


 最初こそ、私はひどく落ち込んだけど、その落ち込んでる私の横で、いつも通りの日常を送る旦那にすごくムカついたのを覚えてる。


 理不尽だよね。自分から裏切っておいて、それを隠しておいて……それなのに、私の変化に気付かない旦那に一方的に苛立って、まるで自分の方が旦那に裏切られたみたいに思いはじめて……。


 元から思い込みが強いタイプだった私は、自分の浮気を正当化するために旦那の方に原因があるんだって本気で思い込んだ。


 だから、私の行動はどんどんエスカレートして行ったんだと思う。深夜の帰宅に、家事当番のすっぽかし、旦那への接し方だってずっと適当だった。


 その結果、旦那は過労と心労で倒れることになったんだ……。


 ああ、そこで気付けば、そこで反省していれば、旦那をあそこまで追い詰めることはなかったのに……全部、私の所為なんだ。


 なのに、バカな私は浮気を続けた。寝込んでいる旦那を尻目に、浮気相手とホテルに行った。そうやって、自分から病人を放って置いた癖に、チャンスとばかりに浮気をしていた癖に……私は、買い物から帰って来た旦那を口汚く罵ることしかしなかった。


 そんなだから、旦那が鬱や不眠に苦しんでいても、ベッドじゃなくてソファーで寝るようになっても、私は気にも留めずに浮気を繰り返してた。


 ラリってたってヤツなのかも……だから、覚めた瞬間はもひどいものだった。


 週末、休日出勤で旦那が居ないのを良いことに、浮気相手を自宅へと連れ込んでいた私は、突然現れた旦那にガムテープで手足を拘束され口も塞がれて、言い訳さえさせてもらえなかった。


 ううん、その時点で出る言い訳なんて、「寂しかった」とか、「私を見て欲しくて」とか、全部口から出任せのウソ。だって、浮気している人は、浮気をしているときに、自分の家族のことなんて全く頭にないんだもん。


 浮気しない人はどんな状況だって浮気しないんだし、結局は人間性の問題なんだって思う。


 私は、浮気をするような不誠実な人間性だった。


 その証拠に、私が本気で浮気を後悔したのは、自分がどん底まで落ちてからだったんだから――。



 × × ×



 浮気現場に踏み込んで来た旦那は、わたしとタケルを拘束したまま、一方的に別れを告げて出て行ってしまった。


 残された私とタケルは、お互いの手足をまとめて縛っている拘束を解こうと、ベッドの上で必死にもがきはじめた。


「っく、アッ……クソァっ……ケツがっ……ちくしょうぅ……っ」


 身体が揺れる度に、タケルは私の上でビクリと跳ねて嗚咽をもらす。


 タケルに圧し掛かられて拘束されてる体勢じゃ見えないけど、タケルはお尻の方にも何かをされてるみたいで、しきりに、ケツが~、ケツが~、と呻いている。


 至近距離で見続けなければならない浮気相手の泣き顔は、もうホント猿みたいに赤くシワくちゃで、私は自分がどんな男と関係を持っていたのかを嫌というほどに自覚させられた。


「アッ……ケツっ……なんで俺がっ、こんな、被害っ……おまっ、お前が!お前が旦那の管理しとかねぇからバレたんだろ!マジ死ねや!クソがっっ!!」


 口を塞がれてる私は一方的に責められるしかないけど、私にだって言いたいことはある。


 そもそも、そっちから口説いて来た癖に、散々旦那のことバカにしてた癖に、さっきボコボコにされたときだって気絶した振りして逃げようとした癖に、何偉そうなこと言ってんの?


 でも、所詮は浮気するようなヤツ。自己中で口ばっかで偉そうで、いざとなったらいの一番に逃げ出して、まったく頼りにならない。


 あぁ、そう考えて自己嫌悪……私だって、同じ人種なんだから……。


 だからなのか、私はこの期に及んでもまだ、旦那を追いかけたい、今さらだけど旦那に追い縋って、許されないと分かっていても、謝りたい、罰を受けたい、そう思ってしまう。


 本当に自己中だよね……自分勝手に浮気して、自分勝手に反省して、自分勝手に許されようと思ってる。


『俺はさ……もう死ぬよ』


 でも、そんな甘ったれを戒めるみたいに、私の中では旦那の言葉がこだまする。


 旦那が死んじゃう……それだけは、絶対にダメっ……!!


 いくつものサイアクの想像に追い立てられて、私はガムテープの拘束を破ろうと必死にもがいた。


 結局、拘束が解けたのは翌日の明け方近くになってから……。


 疲労困憊の私とタケルはしばらく動けないくらいだったけど、何とか力を振り絞って水分補給と傷の手当てをした。


 タケルはお尻に大人のおもちゃを刺されたままガムテープをパンツみたいに巻かれて固定されていて、それを我が家のお風呂場に三時間も立て籠って取り外していた。


「アッ、アァッ――ぇ……ひあぁっ!?ちっ、血がっ!俺のケツからっ血がっ!どうなっちまったんだ俺のケツはっ!?しかも股も尻も全部かぶれてやがるっ!!」


 絶望的な悲鳴をあげて、ケツケツうるさいタケル。


「おい!お前の旦那の責任なんだから、お前がケツの治療費払えよな!」


 タケルがなんか一人で騒いでるけど、私は今それどころじゃない。さっきから旦那のスマホに連絡を入れてるのに、繋がらない。というか、解約されてる……?


 もうこのまま、旦那とは永遠に話ができないのかもしれない。ううん、それどころか、ホントに旦那が死んじゃうかもしれない……っ!


「ど、どうしようっ……旦那がっ、旦那が死んじゃうかもっ……!」


 そんな私の呟きに、タケルが反応した。


「おおう!あんなクズ死ねばいいんだ!しぶとく生きてたら俺がぶっ殺してやる!そのあとは警察に突き出してやるからな!俺をこんな目にあわせやがって!!」


 興奮して怒鳴り散らすタケル。


 自分の立場分かってる?って聞きたくなるような言動に、頭が痛くなって来る。私もバカだけどタケルも相当バカだ。でも、そういう幼稚な思考だから、自分の欲望を制御できなくて下半身直結で浮気に走るんだよね……私も、そうだ。


「と、とにかくっ、旦那を探さなきゃっ……そ、そうだ、警察に――!」


 タケルの癇癪にドン引きしたことでかえって冷静になれた私は、警察に届け出?捜索願?を出すことを思い付く。たった今、タケルが威勢良く騒ぎ立てた内容もヒントになった。


「は?――お、おいおいおいっ!ちょっと待て!待てって!警察とかマジやめろ!絶対にめんどくせぇーことになんだろうが!マジでやめろ!」


 あからさまに慌てはじめるタケル。さっきの威勢の良さは、やっぱり口だけだったみたい。


「はぁ!?私の旦那が居なくなっちゃったんだよ!?もしかしたらっ、ホントに死んじゃうかもしれないんだから!そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」


 気が付くと、涙が溢れて来た。何これ、自分でも、なんの涙なんだかわかんないや……。


「そんなこと知るか!それはお前ら夫婦の問題だ!俺は関係ない!俺を巻き込むな!」


「何言ってんの!?そっちだって当事者じゃん!もういいっ!私、警察に届け出すから!」


 もうこんな無責任なヤツに構ってらんない――そう思って、私が110番をしようとスマホを操作すると、タケルのヤツが私の手からスマホを取り上げた。


「おい、マジでふざけんなって!お前と違ってこっちは会社役員なんだぞ!それに俺には子供だっていんだよ!マジで巻き込むな!」


 取られたスマホを半狂乱になって取り戻そうとする私。当然タケルも必死に牽制してくる。


「返してよ!返せぇえっ!」


「ちょっ、待てって、落ち着けっ……いてっ!引っ掻くなっ……いでぇっ!!」


 私はタケルの顔や頭にビンタ、掴んだ腕に思いっきり爪を食い込ませる。


 その所為で、ビンタした私の手は痣になって腫れ上がり、爪も剥がれて血塗れだけど、スマホを取り返すまで絶対にやめない。


 そんな私のキチガイ染みた気迫に押されてか、タケルはどんどんと下がって行って、もう寝室から出てしまっている。


「バ、バレたらお前だってヤバいだろ! 俺の奥さんや同居の義両親からも責められて、慰謝料だってメッチャ請求されるんだぞ!? パートのお前に払えるわけないだろ!な、なぁ、よく考えろって――」


 頬を腫らして目に青タンを浮かせたその顔で、引き攣るように笑うタケル。


 っていうか、それが脅しのつもりなの? こっちは旦那の命が掛かってるかもしれない瀬戸際だっていうのに……。


「今はそれどころじゃないし!慰謝料だってなんだって払うから!早くスマホ返してよ!」


 キッパリと告げた私の言葉を受けて、タケルがひどく狼狽える。


 すると次の瞬間、タケルは奇声を上げながらお風呂場に駆け込んで、私のスマホを水没さやがった。


「ちょっ!?なにして――っ!!」


 私は慌てて駆け寄ったけど、タケルに阻まれる。


「なぁ、もう諦めろよ……どーせ、お前の旦那には死ぬ勇気なんてねぇって。それにこれからは、あのヘタレ旦那に邪魔されずに俺たちは付き合えるんだぞ? 今まで以上に、俺が可愛がってやるって。金だって多少援助するからよ」


 ヘラヘラと引き攣った笑いを浮かべるタケル。っていうか、まだ浮気続ける気なの? いや、違うか、今のタケルはとにかくこの場を取り繕って、自分に被害が出ないようにしてるだけ……。


 こういう切羽詰まったときの対応だって、浮気するしないといっしょで人間性が出るんだなって思った。浮気する人は筋を通すなんてことしないから、どこまでも不誠実で自己中な対応をする。


 私は、タケルと口汚く言い争いながらも思う。


 旦那が苦しんだのも、いなくなったのも、もしかしたら自殺しちゃうかもしれないのも、全部私の所為なんだ。私が裏切らなければ、薄汚い真似しなければ、こんなことにならなかった……っ!


「っ――とにかくもう帰って!そっちは家族にバレたくないんでしょ!だったら早く帰ってよ!」


 私だって、反論したいこともあればムカついてることもある。タケルの自分勝手な理由で水没させられたスマホだってきちんと弁償させたい。でも、今はそれよりも旦那のことだ。


「チッ!言われなくても帰るっての!だけどなぁ……その前に――っ!」


 タケルは湯船の中に手を突っ込んで水没させた私のスマホを取り出すと、そのスマホを湯船の淵に何度も何度も叩き付けて完全に壊してしまった。


 え、何やってんの?本格的に頭おかしくなった?


 そして、タケルは呆然とする私にこう言い放つ。


「こ、これで浮気の証拠はなくなったな!俺とお前は金輪際関係ないからな!」


 勝ち誇った顔のタケルは、最近私がスマホの機種変をしたことも忘れてるらしく、もうホントに目の前のことしか見れてないって感じで、完全にテンパってる。


「ああ、そう。いいから早く出てけ」


 タケルは最後まで「俺は無関係だからな!」って何度も念押ししながら家を出て行った。


 でも、週末とは言え一日半の無断外泊に、私のビンタで腫れ上がった顔に引っ掻き傷。タケルだってこれから修羅場になるだろうし、いい気味だ。


 私は二度と上がらせない決意を込めて、玄関のカギを掛ける。


 すると――。


「えっ?あ!こ、これっ、手紙っ……!」


 玄関のところに、「ひまりへ」と書かれた白い封筒が置いてあるのを見付けた。


 旦那の、字だ……っ。


 身体が震えて、涙が溢れて、止まらない。


 私は爪が剥がれて血まみれの手もそのままに、手紙を汚さないよう掃除用のゴム手袋を嵌めてから封筒を開ける。


 中には、一枚の便箋が入っていて、そこには、ひまりへ、からはじまる文章で、旦那の悲しみや苦悩、私への謝罪と消えた自分を探さないでほしいこと、そして、別れの言葉が記されていた。


 ひまりへ

 長年苦しめてごめん。俺と結婚する前からずっと付き合っている男がいたんだな。

 ひまりにとっては、俺の方が浮気だったんだって知って、本当にキツかった……。


 読んでいる途中から、私は大泣きしてしまった。涙で手紙を濡らさないように、上を向きながら続きを読んだくらい。


 浮気の動画もそうだけど、浮気相手との行為を楽しむために俺との子供を堕胎してたなんて……本当にショックだった。

 ひまりの本心を知ってから、俺はもう二度と人のことを信用できないし、そうなる前の自分には二度と戻れないことが、ただただ悲しい。

 俺はもうダメだと思う。正直、これからを生きていく自信がない。どうか俺のことは探さないでほしい。

 本当に好きだった人とお幸せに。さようなら。


 手紙を前に、私は何度も叫んでいた。


 違う!そんなの誤解だよ!結婚前からの浮気じゃない!偽装結婚なんかじゃない!私の好きな人は今も昔もずっとあなただけ!あなたとの子供を堕ろすはずない!ずっとあなたとの子供がほしいのに!ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!


 声が枯れるくらい泣き叫ぶけど、今さら旦那には何一つ届かなくって、それに、一年も旦那を裏切って浮気した人間が言ったって嘘くさいだけで……自分で言ってて、全然説得力ないんだもん。


「ううん、今は旦那のこと……警察に、連絡しないと……」


 私はリビングに戻って固定電話に飛び付いた。


 私は居なくなってしまった旦那を探してもらうべく、最寄りの警察署へと電話を掛けてみる。


 そして、担当部署に電話を回されてから、旦那について一時間近く事情を説明したんだけど、旦那からの手紙が失踪宣言というのに見なされるため積極的な捜索は行えないと言われてしまう。


「ど、どうしよう……っ」


 共通の知り合いに電話してみる、自分で探しに行く、探偵にお願いする、いろいろ浮かんでは来るけれど、焦るばかりで考えがまとまらない。


 そして、私が一人で混乱しているところに、玄関の方から解錠音が聞こえて来た。一瞬、タケルのヤツが戻って来たのかと思ったけど、アイツは家の鍵なんて持ってない。


 え……っていうことは――ッ!!


 私の旦那っ、旦那が帰って来てくれたんだ!どこ行ってたの!心配したんだから!ごめんなさい!何でもするから傍に居させてっ!


 色んな思いと涙を溢れさせながら、私は玄関へとすっ飛んで行く。


 ――ガチャリ。


 そして、玄関を開けて入って来たのは、私の旦那――の“両親”だった。


 え、なんで?どうして?


 旦那の実家とは、旦那の強い意向であえて疎遠にしていた。だから、私も五回くらいしか会ったことがなくって、正直よく知らない。


 でも、私を睨み付けるその目が、何の用で来たかを物語っていた。


「このっ、アバズレがっ!」


 乾いた音がして、視界が大きく横にブレた。頬を張られたと理解したのは、床に倒れたあとのこと。視界がぐにゃぐにゃして、頬がジンジン熱くなる。


「おいおい、母さん。いきなり打つことないだろう。ひまりさん、大丈夫かな?」


 フーフーと鼻息荒いお義母さんと、それを後ろから押さえるお義父さん。


 やっぱり、私の浮気のことで来たんだよね……え、でも、だったら旦那は義実家にいるんじゃ――。


「お、お義父さん!お義母さん!だ、旦那はっ、私の旦那はそっちにいるんですか!?」


 私は立ち上がって二人に掴み掛る勢いで詰め寄ると、二人の肩がビクリと跳ねて、驚いた表情で固まった。


「お、教えてくださいっ!私の所為で!旦那が出てっちゃったんですぅうっ!!」


 ホントならとても大きな声で言えることじゃないけど、もう私は必死も必死で、義両親の服を掴んでガクガク揺すりまくった。


「う、家にっ来てっ――で、で出てっ、たっ」


「ちょっ、お、落ちっ、着いてっ」


 お義母さんとお義父さんが、ガクガクと揺れながら答える。


 少しだけ、安心した。旦那は一度実家に帰ってたんだ。でも、また出てったってどういうこと……?


「あ、あのっ、また出てったって……?」


 続けて尋ねようとする私を、義両親は手を突き出して制止して来る。


「悪いけど、あんたの疑問に答えに来たんじゃないの」


「我々はね、これについて筋を通してもらいに来たんだ」


 お義父さんの方が、スマホの画面を突き出した。


 その画面には、私と浮気相手のタクヤとの絡み合いが映し出されていた……。


「この、アバズレがっ!」


 また、お義母さんのビンタが飛んでくる。


 っ……なんだろう。自分の浮気動画流されて、義両親にバレて、ビンタされて、こんなの取り乱すのが当たり前の状況なのに、私が最初に気になったのはお義母さんの言動がなんだかわざとらしく感じること。


 浮気で旦那を裏切った私が、お義母さんに対してそんなこと思うのも感じるのも失礼なのに……やっぱり、私は真面じゃないんだよね。


 とりあえず、お義母さんへの疑念というか違和感というか――は無理矢理に引っ込める。


「さっさとお茶の用意でもしな!気が利かないね!」


「まぁまぁ、母さん……では、上がらせてもらうよ?」


 私を押し退け入って来るお義母さんとお義父さん。


 ほとんど初対面の、しかも、今の私の立場じゃ一番会い辛い義両親の登場に、私は早くも不安と恐怖に気が遠くなる。


「痛っ……」


 そして、今さらになって、ゴム手袋の中で血でグチョグチョになった指が痛んで来た――。


 それから、私は義両親から不貞行為を永延と責められ続け、しかも旦那のことは何も聞けずじまい。


 さらには、旦那と義両親を裏切った慰謝料と私の浮気による使い込み防止のためと、預金通帳やカード、貴金属類まで全て取り上げられた。


 自分のしでかしてしまったこととはいえ、そこまで信用をなくしていることにショックを受ける。


 でも、私はまだまだ自分のしたことを甘く見ているってことが分かった。


 そして、ここからが、本当の地獄の始まりだったんだ……。



 × × ×



 翌日の早朝、義両親からのお説教で“私が如何にダメな人間か”ということをほぼ徹夜で聞かされ続けて心身共にボロボロの私に、さらなる追い打ちが来た。


 なんと、義両親は親戚の人たちまで私と旦那の家に呼びよせていた。


「あーあ、長距離運転は疲れたよ、朝飯までテレビでも見るか」「わたしたち朝ご飯まだだから用意してくださる?」「ほぉ、コレが浮気したって嫁か?」「汚らわしいわね!こっちにまで迷惑かけないでほしいわよ!」「へぇ、どんな嫁かと思ったら、まぁまぁの女じゃん。なぁ、あとで俺も抜いてくれよ」「お義兄さん、止めた方が良いっすよ。マジ病気持ちかも」「うげぇ~、ジュースこぼしたとこべとべと~、ちょっと洗濯機と着替え借りるね~」「ねぇー、ママー、冷蔵庫にプリンあったから食って良ーいー?」


 総勢八名の見ず知らずの親戚たち。


 みんなでぞろぞろ入って来て、勝手にテレビを付けたり、朝食を要求したり、無遠慮に見られたり、悪態をつかれたり、風俗嬢扱いされたり、病気持ち扱いされたり、勝手に洗濯機と服を使われたり、冷蔵庫を開けられてプリン食べられたり……。


 朝から疲労困憊の上、一瞬でメチャクチャになった我が家に愕然とする。


「このアバズレが!さっさと朝飯をの用意しな!」


「そうだね、食事を取りながらゆっくりと今後のことを話そうじゃないか」


 義両親も追い打ちを掛けてくる。


 私は追い立てられるようにキッチンに押し込まれ、家中で好き勝手やる義一族を尻目に朝ご飯を用意する羽目になった。


 確かに、今回のことは浮気した私が全面的に悪いのは間違いないけど、なんだかすごく理不尽で酷い扱いを受けてる気がする。


 そもそも、五回くらいしか会ったことない義両親と初対面の親戚に、ここまでしなくちゃならないのかな……?


 疑問はあったけど、今の私はホントに疲労困憊の呆然自失で、まったく頭が働いていない。そんな状態でも、唯一理解できたことといえば、今まで旦那が執拗なまでに私を義実家から遠ざけていた理由と、そうすることで私は守られていたんだなってこと。


 ああ、ヤバい……旦那が恋しい、旦那に会いたい……。


 こうして自分勝手に旦那に縋ろうとする自分を、ホントに卑しく思うけど、私は流れる涙と旦那を求める気持ちを止めることはできなかった。


 私は、泣きながら朝食を作る。


 義両親二人と八人の親戚、総勢十人前の朝食は、もはやジャンルにこだわっていては材料が足りなかった。


 主食はパンやご飯に加えて、パスタやお餅、冷凍うどんまで出し、おかずも作ったものだけじゃ当然足らず、冷凍食品やレトルトのカレーまで出すことになった。おかげで我が家の食料品はすっからかん。私は仕方なく、防災グッズの乾パンを齧ったよ……。


 義一族の皆さまが一息ついてから、あらためて私への糾弾と旦那の動向が説明された。私としては、やっと旦那のことが聞けると思っていたため、何を言われても小突かれても、とにかく耐えるしかない。


 そして、義両親が語った旦那の動向はこんな感じ。


 数日前、息子(旦那)が死にそうな顔して急に実家に帰って来た。思い詰めた様子だったから、しばらく実家にいるように勧めたが、翌日には居なくなった。


 心配になって探したところ、家の敷地内に車と荷物の一部があって、そこには嫁(私)の浮気の証拠と息子(旦那)の遺書のような手紙があった。


 ということだった。


「息子は死ぬかもしれん!責任取れ!」


 乾いた音が響いて、視界が大きくブレた。


 お義母さんの怒号と張り手を皮切りに、私を取り囲む義一族の人たちが口々に怒鳴り立てる。


 そして、クラリと視界が揺れた。耳に入る音が急に遠くなって、目尻や唇が急に冷たくなってしびれる。あ、ヤバい――と思ったときにはもう遅くって、私はそのまま床に崩れ落ちた。


 ああ、旦那が倒れちゃったときも、こんな感じだったのかなぁ……?


 意識が、遠退いた――。


 黒塗りの背景に、旦那の去り際の後ろ姿が何度も繰り返し映し出される。そして、次にはなぜか浮気相手のタケルが私の身体をまさぐっている場面になって、私は必死に抵抗する。


 自分でも、散々浮気をしていた癖に何を今さらって思うけど、ホントに不快で、すごく気持ち悪く感じた。


 だから私は、身体に覚えた不快感によって目を覚ました――。


「あ、なんだぁ?もう起きやがったのかよ」


 目を開けると、男の顔。


「ひ――っ!!?」


 心臓が止まるかと思った。


「もうちょっと寝てりゃあ良いのによぉ」


 横になっている私を覗き込みながら悪態をつくこの男は、義両親が呼び寄せた親戚の男だ。私を風俗嬢扱いしてたヤツ……。


 その男の手が、寝ている私の身体を服越しから無遠慮にまさぐっていて、私はそれを悲鳴をあげながら叩き落とした。


「ってぇーなっ、ざけんなよ、売女の癖に。お前も浮気するぐらいの好きモノなんだろうがよ。俺にも使わせろっての」


 男はブチブチと文句を言いながら部屋を出て行った。


「はっ、ひはっ、はっ、はっ……っ!」


 ただ呆然として頭が働かないけど、身体の方はしっかりと拒絶反応と恐怖を感じていて、鳥肌と震えが止まらない。


 こ、こわかった、すごくすごくこわかった……っ!


 こんなときにも、ううん、こんなときだからこそなのか、旦那の顔が思い出される。そんなの自己中だし恥知らずだって何度も思うけど……旦那に会いたいっ!


 私がしばらく声を押し殺して泣いていると、くぐもった話声が聞こえて来た。義両親や親戚の人たちが、何か相談でもしてるのかな?


 少しだけ冷静になって、周りを見る余裕ができた。一応、私は寝室に寝かされていたみたい。サイドテーブルの時計を見ると、倒れてから二時間くらいが経っていた。


 私は一度着替えようと、タンスやクローゼットを開ける。


「っ――もうっ、ホント、やだ……っ」


 仕舞ってあった私の服はぐちゃぐちゃになっていて、数も減っている。きっと、義両親やら親戚の人たちが勝手に着たりしてるんだと思う。


 私は仕方なく残っている服で着替えを済ませながら、自分も両親を呼ぶべきかと考える。


 ホントなら、自分のしたこともちゃんと話して呼ぶべきだと思う。


 でも、私は自分のしたことを親に知られるのが怖かった。自分で浮気しておいて、浮気は醜い行為だって、親からも引かれることなんだって、よく分かってるから……。


 結局、私は卑怯なんだ。旦那に会いたい、謝りたい、とか考えながら、親にも知られたくない、引かれたくない、なんて都合の良いこと考えてる。


「っ――そ、そういえば、なんの話し合いだろ?」


 自分の醜さを暴き出すような思考から逃げて、私はリビングの方から聞こえる声に意識を移す。


『――から、そんなに払えませんよぉ……っ』


 聞き覚えのある、そして、できれば二度と聞きたくなかった声。


 私は足音を立てないように移動して、そっとリビングの様子を伺った。


「さっきから言っているだろう。君の犯した罪でうちの息子が死ぬかもしれないんだ。君が殺したのも同じだ。その責任を取りなさい」


「ウチの息子を殺しやがって!どうしてくれるんだっ!この人殺しぃっ!!」


 腕組みするお義父さんとテーブルを叩くお義母さんの言葉を受けて、首を竦めて小さく震えているのは、私の浮気相手だった男――蒲池タケル。


「で、でも、一千万なんてムリですよぉ……今家族からもあやしまれていて……もう少し現実的な額に、なりませんか、ねぇ……?へ、へへ……」


 タケルは涙目になりながら、ヘラヘラと情けない笑みを浮かべている。


「おい、何を笑っているんだ?」「人を殺したのがそんなに嬉しいのかしら……」「君だってご家族に浮気や殺人のことがバレるの嫌だろう?」「さっさと払うもん払って終わりにしなさいよ!」「あの女そこそこ胸あんな」「うげ、お義兄さん触ったんすか?手ぇ洗って来て下さいよ」「早くお金頂戴よ~ウチらも暇じゃないんだけど~」「ママーお腹空いたー」


 タケルを取り囲む親戚たちが(一部を除いて)口々に責め立てる。傍から見ると異様な光景で、すごくこわい……。


「そ、そんな、人殺しだなんてぇ……」


 泣きながら媚びた愛想笑いを浮かべるタケル。もうそれしかできないんだろうし、私だって同じ立場だけど、すごく情けない。


「こんなもの、君もご家族の目には入れたくはないだろう?」


 お義父さんが、私とタケルの浮気の証拠だろう紙束をテーブルの上に広げた。


「あんただって、子供には知られたくないでしょう?」


 お義母さんが、スマホで私とタケルの絡み合い動画を再生する。


 親戚の人たちも口々に、「もう金払って終わりにしようや」とか、「お金以外にあんたにどんな贖罪ができるの?」とか、「子供のためにも早く終わらせた方が良い」など、今度は宥めるように言い募る。


「ま、マジで金がないんですよぉ。そ、それに俺だって、旦那さんには散々痛めつけられたんですよぉ? 今だって尻の腫れがひどくって肛門科に通ってますし、何発もスタンガン食らった所為か手がしびれて……これだって本当なら警察沙汰ですよ……だから、俺の全財産の八百万円で勘弁してくださいって……っ」


 憐れみを誘いたいのか、タケルは服用してる薬を見せながら必死に訴えてる。


 それに、私がビンタしたり引っ掻いたりした傷なのか、タケルの顔はガーゼと絆創膏に覆われていて、片眼を覆う異常にふくれ上がった眼帯も痛々しい……。


 でも、この義両親に通用するわけない。


「ふむ、それを我々の息子がやったという証拠があるのか?」


「浮気するようなヤツなんだから、自分らの情事の中でやったんだろ!この変態ども!」


 当然のように突っぱねられて、タケルはいよいよテーブルに突っ伏して号泣しはじめた。


 婿養子だからこそ、会社での地位やお金があるタケルとしては、絶対に浮気のことはバレたくないだろうし、警察沙汰になんてできない。どんなに泣き喚いたって、最後には条件を飲むしかない。


 結局、慰謝料はタケルが払える分の八百万円を今直ぐ払うことを条件に、残りの二百万円はどこからか借金して支払うことになったみたい。


 そして、今から早速銀行へと向かうようで、私は慌てて寝室に戻ってそれを陰から見送った。


 義両親と親戚の人たちに囲まれながら、背中を丸めて歩くタケルの姿はひどく小さく見える。


 じゃあ、自分は――今の私は、どうだろう? 義両親による徹夜の説教と親戚たちの世話で目の下にはどす黒い隈が浮き、親戚の男には寝てる間に身体を触られて、勝手に服を使われて着る物がない私の服装はちぐはぐで、昨日からお風呂にも入れてなくて、朝は乾パンしか食べてないからお腹もぺこぺこ……。


 惨めな状況に溜息が出る。


 でもきっと、旦那が倒れたときはこんなもんじゃなかった。もっともっと辛かったと思う。だから、私はもっともっと耐えて、万が一旦那が戻って来てくれたときのことを考えて、この家を守りながら旦那を探すべきなんだ。


 私は自分に言い聞かせるように、そう思い続けることにした――。



 × × ×



 帰るかも分からない旦那を待ち続けて、もう直ぐ三ヶ月……。


 私は、家に住み着いた義両親と頻繁にやって来る親戚たちから、召使いのような扱いを受けていた。


「アバズレ!早く飯の支度をしな!」


「ひまりさん、今日は飲み友達がここに来るから、安物で良いから布団を一組買って追加しておいてくれるかな?」


 お義母さん、朝ご飯を二時間前に食べたばっかりですけど……。お義父さん、お泊り会ならせめて自分の家でやってください……。


 そう思いつつも、私は言われるがままにお義母さんに食事を作り、お義父さんの言い付け通りに布団を買いに行かなければならない。


「あの、布団を買いに行くので、お金をください。お願いします」


「ああ、もちろんだとも、これで買うと良い」


「ありがとう、ございます……」


 家のお金も、私のパート代も、独身時代からの貯金も、今はみんな義両親に握られちゃってるから、お金を使うときは頭を下げてお願いしなければならないのが辛い。


 丁寧にお願いしてもらったお金で、私は布団を買いに行った。


 大きくてかさばる布団を背負うように運んでいると、道端に捨てられたお菓子の包み紙が目に入って、思わず喉が鳴る。


 この一ヶ月、お義母さんからの命令で家にはお菓子を常備するようにしているけど、それが私の口に入ったことは一度もない。


 ご飯だって、お金がもったいないからって私は一日二食以下だから、こうして道端に落ちたお菓子のゴミにもお腹が鳴ってしまう。


 それに、最近は義両親の命令で昼間のパートに加えて夜勤の仕事もはじめたから、週に何日かは必ず徹夜の日があって、今も気を抜くと直ぐに頭が朦朧としはじめる。


 ひもじさと惨めな状況に胸の奥が軋むけど、口答えはできない。そんなことすれば、また棒で殴られる。


 そんな扱いを受けてもここに居続けるのは、旦那が帰って来てくれるんじゃないかっていう自分勝手な希望と、義両親と居ることで少しでも旦那と関われているんだって思えるから。


 重たい頭で旦那のことを考えながら、布団を背負って家まで帰って来た。


 玄関ドアに手を掛けたところですごく気が重たくなって、なかなか開けることができない。


 でも、遅くなると罰だから、私はドアを開けた……。


「――なんだって!もう払えないってのはどういう了見だっ!!」


 家に入ると、お義母さんの怒鳴り声が響いて来て、私は反射的に頭を抱えた。


 脳裏には、少し前にお義母さんから置時計で殴られた記憶がフラッシュバックして、ひとりでに身体がガタガタと震えはじめる。


 私は自分の身体の変化に愕然としながらも、家の奥から聞こえる声に耳を傾ける。


「も、もう本当に勘弁してくださいっ……マジで金がないんです……っ!」


 私の浮気相手だった男――タケルの声だった。


「もう千三百以上も払ったじゃないですかぁ!あれから金になる俺の私物や家の物だってコッソリ売って……実親や兄弟、学生時代の友達からも金借りて……その上に消費者金融からキャッシングまでしてるんですよぉ……!?」


 泣き叫ぶタケルは、本当に方々ほうぼう手を尽くして要求額の一千万円を工面したらしい。


 でも、受け取った義両親や親戚の人たちからは当然のように“誠意が足りない”の一言で片付けられて、未だに強請られ続けてる。


「毎週の皆さんのホテルでの会食代だって、会社の経費をちょろまかして払ってるんですっ!経理からもあやしまれてるし!これ以上はマジでヤバいんですよぉっ!」


 毎週末、親戚の人とかその友達とか、総勢二十人くらい大人数で出掛けてたのはそういうことだったんだ……。


「尻も未だに腫れてるし……スタンガンの後遺症か、手の先も神経痛っぽい痺れや痙攣が起きるんですっ……なのに今のままじゃ、病院代もキツイんですっ……!」


 タケルの泣き言を聞きながら、私は未だすくむ足を引きずって、リビングの様子を盗み見た。


「お、お願いしますっ、助けてくださいっ!」


 タケルが、義両親に向かって土下座していた。その頭には白髪が増えて、頭頂部は目に見えて薄くなってる。


「ふんっ、じゃあ最後に五百万円用意しなっ!それで手打ちだ!さもなきゃアンタの家族や会社にもバラすよ!」


「キミだってこれまでの頑張りを無駄にしたくはないだろう?もうひと踏ん張りすれば、家族にも会社にもバレずに自由になれるんだ。今の地位を守れば金なんて直ぐに回収できるさ」


 お義母さんが怒鳴りつけて、お義父さんが宥めるように囁く。


 やってることの是非はともかく、義両親の息の合い方は尋常じゃないと思う。どっちも全然違うタイプで我も強そうなのに、二人が喧嘩してるところだって私は一度も見たことがない。


 両方とも周りに対してはキツイし容赦がないけど……なんていうか、義両親は周りが全部敵だらけの世界で、お互いだけを命綱にして、味方にして、唯一の存在で、生き残りをかけて戦ってる――そんなイメージがある。


「はっ、あ」


 一瞬存在を忘れてたけど、追い詰められていたタケルは引き攣ったような声をもらしていて――。


「ッあぁああぁあああああっ!!!」


 キレた。


 前に見た癇癪とテンパりの大規模版って感じで、テーブルをひっくり返し、飾り棚を倒し、窓ガラスを割っての大暴れ。ホントにでっかい子供って感じ。


 でも、現実離れした光景に少し呆れ気味でさえあった気持ちも、次の瞬間には吹き飛んでしまう。


 顔を赤紫色にして暴れるタケルが、近くに居たお義父さん突き飛ばして、今度はお義母さんを殴って馬乗りになったのだ。


 ヤバい――って思ったときには、もう自然と身体が動いていて、私はタケルの背中に飛び付いていた。


「ッー!ッ――ッ!!!」


 タケルはものすごい奇声を上げながら、取り付いた私を猛然と振り払おうとする。


 力が全然違った。特に私は体重もかなり落ちちゃってたから、しがみ付いてることさえできずに簡単に投げ飛ばされてリビングの壁に激突した。


 視界が揺れて、息ができない。耳鳴りがして、背中が痛む。それにどこかにぶつけたのか、鼻血がボトボト床に落ちて止まらない。


 「ぽァ――ッ?」


 すると、勝手に自分の顔が跳ね上がって、血まみれの口から息がもれる。


 頭が宙ぶらりんになったような感覚に、髪の毛を掴まれているんだってわかった。


 ぼやける視界で見ると、タケルが大きく拳を振りかぶっていた。


 ああ、こわい……きっと、死んじゃう……でも、死んじゃえば……旦那に、会える、かなぁ……?


 そして、暗闇の中に、旦那の姿を見た気がした。


 私の意識は、そこで途切れた――。











 × × ×











 旦那が居なくなってから、もう一年が経つ。


 私は病室のベッドの上から、枕元に飾った旦那の写真をとろうとして、失敗する。


 半身が不自由になってからは、ずっとこんな調子……。


 ううん、言ってしまえば、私は浮気をはじめたときから、ずっと色んなものを取りこぼし続けて来たんだと思う。


 だから、あの日も死に損なった。私は死ぬことさえも取りこぼしたんだ。


 それは、追い詰められておかしくなったタケルが暴れ、私が意識を失ったあとのこと。


 暴れていたタケルは、誰か近所の人が通報して駆け付けた警察に現行犯逮捕され、私とお義父さんとお義母さんは大怪我で即入院。


 私は出血がひどい上に栄養失調と過労もあって、最終的には障害が残って不自由な身体になってしまった。


 両親には、私の治療費や長期の入院代のために実家を売らせてしまい、さらには生活費のために働かせてしまっている。


 自分が重荷になっている居た堪れなさと、自分じゃ何もできないもどかしさに、何度か自殺を図ったことがある。


 でも、その度に両親から打たれ“死に逃げは許さない”って泣かれてしまった。


 だから、私は未だにただ生き続けている。

 

「お義父さん、お義母さん……」


 そんなときに思い出すのは、三ヶ月間だけ共に暮らした義両親のこと。


 お金は全部取られたし、殴られたり、ご飯をもらえないこともあったけど、今となってはあの厳しい扱いに恋しささえ感じてしまう。


 でも、その義両親ももういない。


 お義父さんは、タケルに突き飛ばされたときの当たり所が悪く病院で亡くなってしまい、残されたお義母さんはその怒りをぶつけるように蒲池家を攻撃し、タケルへの恐喝の件もあって逮捕されてしまった。


 元々タケルの逮捕で傾いていた蒲池家と蒲池工業は、お義母さんがご近所や取引先にまで浮気と暴行の詳細を送って、一家は離散、会社は倒産、新築の豪邸は更地になって、タケル自身は本格的におかしくなって閉鎖病棟行き……。


 全部傷付けて、全部壊して、全部無くして……戦犯は、私と蒲池タケル。


 浮気なんてするサイアクな存在の私たちが、まるで腐った果物が周りまで腐らせるみたいに、周囲に迷惑を振り撒き続け、全てをダメにした。


 何よりも先に、腐った果物である私たちを取り除くべきだったんだと思う。途中からは、自分でも薄々気が付いていたのに、それでも図々しく居座り続けて、結局全部を崩壊させた。


「ごめん、なさい……」


 うわ言のような呟きがもれ出る。


 最近は、自分でも記憶や意識が曖昧な瞬間が多くなった。たぶん私は、そう遠くない内に正気を保てなくなると思う。


 だからその前に、できればその前に、今もどこかで生きていてくれるのなら、旦那にきちんと謝りたかった。


「ごめんなさい……――さん」


 旦那の名前を囁いて、私は黙祷をするように目を閉じた――。















 ◆ ◆ ◆















 日本に戻って来た俺は、とんでもない事実を知った。


 なんと、俺と(元)嫁さんのひまりはまだ離婚していないというのだ。


 意外だった、というか度肝を抜かれたわ。


 つーか、あのビッチのプロフェッショナルであるひまりプロが、未だに離婚届を出してない魂胆は何よ?あれか?俺が去り際に言った死ぬ死ぬ詐欺を真に受けて保険金狙いか?だったら残念、とっくに解約してるわボケェ!


 ということで、俺はソッコーで調べたね。昔の知り合いに連絡して、俺が去ったあとの事の顛末を聞き出したわ。


 そしたら予想外の大量爆死。もうね、俺以外生き残ってねぇの。


 だから聞きはじめこそ、ウヒョヒョヒョ!ざまぁあああっ!!とか思ったよ?でもね、聞き進めて行く内にドン引き、超ドン引き……。


 だって人死にが出て逮捕者二人に精神異常が複数名って……どんな凶悪事件?


 ちょっと待ってくれよ、もう俺の方から言いたいよ。皆さん、タカが浮気ですよ?もうちょっと穏便にできなかったのん?


 とか思ったんだけど、どうやら要所要所でやらかしてんのは俺の毒親コンビ……。


 すんません、マジすんません、うちのキチガイ親が……そして、それを焚き付けたのは……ぼ、ぼくなんですぅ。


 いや、そんなつもりなかったんだよ。ただ毒親にはチョロっと俺の逃亡時間を稼ぐために場を引っかき回してほしかっただけなんだよ。もっと言うなら、“場を引っかき回す”ってフレーズを使いたかっただけみたいなとこあるし。


 だ、だから、全然悪気はなかったんスよ、へ、へへ……っ。


 しかし、大人としてさすがに罪悪感を覚えた俺は、メッチャ迷惑かけてしまった義両親と、俺の毒親に虐待されたひまりの見舞いに行くことにした。まぁ、離婚届のこともあったしね?


 そして、実際に病室の前に立った俺は、正直足が震えたね。


 だって、俺が義両親の立場だったらどんなに娘が悪かろうが絶対にキレるもん。しかも、俺自身も世話になった義両親に対する筋も通さずトンズラ扱いたし……。


 そうして戦々恐々で入った病室だったが、義両親は暖かく迎えてくれた。


 それどころか、一目で苦労していると分かる老け込んだ義両親は、俺に対し泣きながら土下座の上、無事で良かった、とか言ってくれんの。


 もうね、罪悪感で俺を殺しに来てんのかと……。


 それからしばらくは俺と義両親による土下座の応酬が続いたんだけど、義両親は仕事があるらしく、俺を置いて帰って行った。


 すると、今まで静かだった、というか、寝ていたひまりが起きて来た。


「よ、よぉ、久しぶり?」


 とりあえず挨拶とかしてみたけど、(元)嫁さんの痛ましい姿に身体が震えたわ。もうこっちは完全に加害者の心境だっての。


「あ~、いらっしゃいませ~」


 間延びした調子で、まるで店員さんみたいな挨拶をするひまり。


 ヤベェ……話には聞いてたけど、ひまりってば完全に壊れちゃってるじゃん……。


「それで~、旦那のシチューがね~クリームで~、私が喜ぶんですよ~」


 ひまりは傷痕だらけの障害さえ残る身体で、それでも幸せそうに笑っていて、支離滅裂な俺との思い出話をしている。


 いや、普通にちょっと涙出たわ。誰がこんなひどいことを……って、俺が焚き付けた俺の両親ですね。マジですみません……。


 だが、それと同時に、内心でキレてたわ。


 いや、ひまりならもっと上手くやれただろって、最後までふてぶてしくいろよって、マジで悪役を全うしてくれよって――。てっきり俺は、もう浮気相手と略奪婚でもしてるか、他の男と再婚して子供がいるまであると思ってたのに……。


 こんなんあんまりだ!


 罪悪感やら義両親への申し訳なさやらに居た堪れなくなった俺は、またしてもヘタレてその場を逃げ出す。


 だが、一つだけ思うことがあって、俺は去り際にニコニコ微笑むひまりに尋ねた。


「あの、もし旦那さんが帰って来たら、何て言いますか?」


 なんだそりゃ……って、自分でも絶望するくらいに下らん質問だ。


 しかし、そんな問いに対してひまりのヤツは、まるで小さいガキみたいな満面の笑みを浮かべてこう言いやがった。


「うふふ、おかえり~、今日はクリームシチューよぉ~って、言うんですよぉ~」


 俺は、そうですか、とだけ呟いて、病室をあとにする。


 病室のドアが閉まる瞬間に、


 “いってらっしゃい”


 と、そう聞こえた気がした。


 ――ま、まぁ、浮気はイカンということですよ(震え声)。


「はぁ……一応、金作るか……」


 発端はひまりの浮気だけど、俺の毒親がやらかしたことはもう別件だと思うし、俺は俺でキッチリ筋を通したそのあとに、もうとっくに終わってるひまりとの関係を、今度こそ正式に終わらせてやろう。


 一本の浮気動画からはじまった嫁さんの浮気騒動も、余計な遠回りをしたために死屍累々の惨状を呈したが、ようやくその終わりも見えて来た。


 本来ならば、これが一年前に踏み出すべきだった第一歩だろう。だがらこれは、きちんと終わりに向かう一年越しの第一歩だ。


 病室のドアに背を向けて、白い廊下に足を踏み出す。


 俺は終わりに向けた最初の一歩を、今日ようやく踏み出すことができたんだ――。



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嫁さんが浮気してやがった! 高速イボコロラー @kusonokiwami-smell

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