04 名前

 大野月子に恋している、と気がついたその時は、妙に納得してしまっていた。でも、あとから冷静に考えてみると、やっぱりそれはおかしいし、自分の勘違いのような気もする。

 だって、相手は生徒で自分は教師なのだ。小説や映画でも、よくそんな話があるけれど、大抵ばれて面倒なことになっているし、そもそも俺には、相手の心の声が聞こえない状態で両思いになれることが信じられない。今までの恋愛は、相手が自分に好意を持っていると知ってから気になるようになって……の繰り返しだったから、これが本当に、恋をしている、の「好き」なのか、断言できなかった。

 ……よし、今のところは深く考えないでおこう。

 ふーっと息を吐くと、そのまま職員室の椅子から立ち上がった。今日は、両手は空っぽだ。

「ちゃんと勉強してるか、見回りに行ってきます」

「ああ、ありがとうございます」

「草原先生、スマホ使ってる奴いたら叱っといて」

 わかりました、と軽く返事をする。今日は小言は聞こえない。先生たちも、テスト直前でいっぱいいっぱいだ。いつもと違うその違和感が、ひどくくすぐったかった。



 階段の一段目に足をかける。すっと、冷たい空気が鼻から入り込んできた。静かな空気の中、時々、小さな叫びが混じる。誰か分からなくて悩んでいるんだなあ、とその必死さが、微笑ましくも、羨ましくもなる。

 この学校は、職員室が一階にあって、二階に一年生の教室がある。別校舎に二・三年生の教室がある、というなかなか面倒くさい構造をしている。俺のパーソナルスペースである生物準備室は、三階の一番端っこでちんまりと鎮座している。

「あーっ、草原先生。何にやついてんですか」

「ちゃんと勉強してるから見にきたんですよ。スマホしまってください」

「はーいっ」

「おつかれさまでーっす」

 階段のすぐ横、一組にいた女子二人に声をかけると、そのまま廊下をゆっくり歩き出す。残っている生徒はまばらで、空のクラスもあった。

 ……大野月子は、四組だよな。

 三組の前まで来た足が、そう気づいた途端に止まる。自分の思考より、心臓がうるさい。何度目かの唾を飲み込む。普通じゃないな、とはっきり分かった。

 そうだ、たとえいたとしても、声をかけなければいい。少しでもこんな下心がばれてしまったら、もう一生、彼女とは面と向かっては話せない。

 心に決めて、軽く深呼吸をして、四組を覗いた。

 

「……あれ」


 大野月子はいなかった。

 彼女の後ろの席に座る、彼女と仲のいい中田晴菜がいるだけで、それ以外には誰もいなかった。

 拍子抜けして、肩がふっと軽くなる。全身の緊張が一気に解けてしまった。

「晴菜さんしか、いないんですね」

 緩んだ気持ちと一緒に、そう言いながら教室の後方のドアから教室に入る。「あー、草原先生ー」とぼんやりとした返事が返ってきた。春菜の手元に置いてある問題集を覗き込むと、数学のものだった。

 数学なら、教えられるかなあ……。

(あっ、そうだ! 先生)

 ふわふわしていた俺の頭の中に、突然晴菜の叫び声が混じった。思わず顔を上げてから、しまった、と思う。心の叫びに反応してしまった。びっくりした晴菜の顔が、目の前に飛び込んできた。

 (なんか私の顔についてんのかな)と、晴菜は、目の当たりをぺたぺた触ると、少し考え込んでから、また、口を開いた。

「そうだ、月に会わなかったですか?」

「え?」

 (あーすれ違っちゃったか)と小さな鼻息の音とともに、そんな心の声が届く。

「……あの子、俺に何か用が」


「あーっ! 草原先生、こんなところに」

 突然、前方の入り口から声が聞こえてきた。反射で振り返る。余計なものは聞こえない、生身の声。体の奥底に溜まっていた重たい空気が一瞬で抜けていくような、そんな感覚に陥る。

「よかった、探してたんです」

「そ、うですか?」

 舌がうまく回らず、カタコトになってしまう。そうですか、なんて返答も間違ってる。

「生物でわからないところがあって……準備室まで探しに行ったのに」

 大野月子は、肩を落として、少し怒ったようにため息をついた。へなっとなった眉毛と、影を落としたまつ毛に思わず目がいって、胸がきゅっとなる。

「でも晴菜がいたからちょうどよかったです。いなかったら、先生いなくなっちゃってたかもだし、ねっ」

「うん、私も聞く。理解できるかどうかは別として、頭いいツキコチャンが分からないところなら、絶対私も分からないから。ねー?」

 じゃあ、先生。お願いします。

 このお星さまのところです。

 大野月子の差し出したノートを受け取って、先頭に星印がつけてある文章をなぞる。板書に忠実なノートの隅に、小さいタコみたいな宇宙人の落書きを見つけて、思わず笑みがこぼれてしまった。

「あ、ごめんなさい。消すの忘れてました」

「月ちゃんたらー」

「かわいいですね」

「……は、はっは」

 照れて、少し変な笑い方をしている大野月子の横顔を、かわいいなあ、なんて、思わず見つめてしまっていたからか。

「ちょっと先生、なに月のこと微笑ましくみてるんですか」

 晴菜が、俺と大野月子との間に割り込んで、(目がいやらしい)と牽制してきた。

 いやらしい目だったか、と目の当たりをぺちぺちと不自然に見えないよう叩いてみる。

「月は私のなんで、やめてください」

「……晴菜さんのなんですか?」

「そうです、もう十年近く私のですね」

「いつから仲良いんですか? 晴菜さんと、おっ……」

 ……あれ。


 なんで名前、うまく言えないんだろう。


「……え、先生もしかして、私の名前、知らないですか?」

「いや! それは、違います。そういうわけではないんです、けど」

 けど、のあとが、続かない。

 その理由も、わからない。俺の中ではもう、刻み込まれて痛いくらい、大野月子、って名前を反芻したはずなのに。

「あ、でも、私、草原先生に名前呼ばれたことないかもしれない」

「えっ、今十月だよ? そんなことある?」

 (ありえない……)と、晴菜の瞳がこちらに向く。袖の隙間を、冷たい空気がくぐり抜ける。

「そ、うですね……そうかもしれませんね」

「えーっ? 先生、それはひどくないですか? 月、先生のお手伝いとかやってるのに、ねえ」

 ……手伝いのこと、晴菜に話してたのか。

 そりゃそうだろう、と思いながら、小さく寂しさも感じてしまう。

「じゃあもう、今ちゃんと名前呼んでくださいよ。ね、月」

「んー、うん」

 二人の期待の眼差しが、ちくちくと俺を刺す。大野さん? 月子さん? どっちがいいんだ……あ、でも晴菜さん、って呼んでるから……。

「つ……月子さん」

「……お、おー! 言えましたね、先生」

 パチパチと拍手しながら、晴菜は(めでたいめでたい)(親の気分)なんて言っている。月子は、というと、唇を少しだけ噛んで、なんか微妙そうな顔だ。

「ねえ、月なんで口噛んでるの」

「な、なんか、気緩めたらにやけそうで……」

「なにそれっ!」

 ……そういう顔だったのか。

 自然と口元が緩むのを止められなくて、ノートに目を落とすふりをして、月子と晴菜から顔を逸らす。ごくんと唾を飲んで、それじゃあ、今度こそ始めますか、と並んで座る二人の前に椅子を引っ張ってきて、腰を下ろした。



「……やーっぱり先生、先生ですね! 教え方がわかりやすい。ブラボー!」

 晴菜は、三十分ほどの長い説明が終わると真っ先に、そう調子良く言うと、「いやあ、ブラボーブラボー」と、拍手をしながら立ち上がった。

「あ、帰る?」

「んーん、トイレ。月待ってて」

 わかった、という月子の声も待たずに、(漏れる漏れる)と晴菜は教室を飛び出していった。

「そんなに、危機的な状況だったんですかね」

「え?」

「晴菜ですよ。すっごい焦ってたから」

「あ、ああ」

 ちら、と月子の方を見た。廊下の方を見て、晴菜のドタドタした足音が聞こえるたびに、小さく揺れて笑っている。

 ふと、笑うたびに震える耳たぶに目がいった。黒いプツッとしたものが見えて、ピアスかと思って、慌てて目を細める。

 そんな俺の視線に気づいた月子は、ああ、と言って、俺に耳たぶを近づけてきた。ぬるい風が、顔に優しくあたる。

「ほくろなんです、ピアスみたいな」

 反射で、触れようと持ち上がった手を、ゆっくりと自分の首の後ろに回した。

「……ピアスかと思いました」

「時々言われるんですよ」

 へへ、と笑って月子は耳たぶを撫でる。見つめたままだと心臓がおかしくなりそうで、思わず目を逸らした。

「……あ、そういえば、草原先生」

 全く割に合ってないんですが、と月子は一粒のチロルチョコをトートバッグの中から俺に差し出してきた。

「この間のお煎餅と、今日の特別授業のお礼です」

 この間のお煎餅。

 そう聞いた途端に、ついさっき感じた寂しさが蘇ってきた。勢いのまま、口から溢れ出てきてしまう。

「……晴菜さんに、話してたみたいで」

 内緒って言ったのに、という女々しい文句は飲み込んだ。

「ああ、言われたんです。お手伝いして偉いって」

 明るく朗らかに話す月子と自分の温度差が、なんだか胸に痛い。

 こういう気持ちに名前を付けたら、きっと――……。


「でも私、自分でやりたくてやってるのに、偉いってちょっと変ですよね」

 ――……好き、になるんだろうか。


「あっ、もちろん、お煎餅のことは内緒です。あの子食いしん坊だから。ほら、早く晴菜帰ってくる前に食べちゃってください」

 返品不可です、と月子は手で俺を遮る。月子のたった少しの言葉だけで、寂しさが消え失せてしまった。笑顔の月子を横目に見ながら、甘いチロルチョコを口に放り込んだ。いちごの味がする。

 甘ったるいその味に、いつまでも酔っていられそうだった。

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