03 自覚
いつになく、いらいらする。頭の中を端から端まで釣り糸で引っ張られているような、そんな窮屈な痛みがする。夕焼けにはまだほど遠い空を見つめながら、今日の六時間目の授業を思い出す。
一年四組での授業だった。
九月も半ばでテストが近づき、前回平均点が低かった分、今回こそいい点数を取ってもらいたいと、自分なりに教え方も工夫していたからだろうか。遺伝の単元で、ややこしくて難しい話も、絵とか図とかそういうのを駆使して、なんとか叩き込もうとしていたからだろうか。以前手伝いをしてもらってから、放課後によく手伝いを頼まれてくれるようになった大野月子に、授業の感想を求めた時も、「絵とかいっぱいある方が分かりやすいし楽しいです」と言われて、余計にやる気も上がっていたからだろうか。
机に突っ伏してがっつり睡眠していた生徒が目に入ったとき、思わず、「なんで寝ているんですか」と言ってしまった。だいぶ威圧的に。
いつもなら、ここでやめる。俺泣きますよ、とか適当なこと言ってフォローする。そのはずだったのに、誰のもののかすらもよく分からなかった、(お前の授業がつまらないからだろ)という言葉で、平静の糸がぷつんと切れた。
「俺の授業がつまらないから寝てるのかもしれないですけど、そういうのは、失礼ですからね。こっちだって一生懸命やってるんですから、同じような態度で受けるべきですよね」
そう、やっぱり威圧的な口調で淡々と言い切ると、そのまま黒板に向き直った。もやもやと、空気が重くなっていくのを感じた。
(……なんなの、ほんと)
一瞬、チョークを滑らせる手が止まった。
(うざい)
(つまんないからに決まってるだろが)
(嫌いになったわ)
四方八方から、背中に棘が刺さってきた。うまく、振り向けない。真正面に向き直って、棘を浴びて負けない自信がなかった。
せめて誰かが声に出して言ったり、ため息をひとつでもついてくれたりしたら、何か言ってやれるのかもしれない。ちょっと言いすぎました、とか、テストでいい点数取ってほしいんですよ、とか。
(あー、だる)
(なんかもう授業やだー)
(上から目線ほんときもい)
(一生懸命とか笑う)
(いちいちうるさいんだよ)
尖った言葉が、自分の中に吸収されて、次第に怒りと焦りの混じったいらいらに変わっていった。
ちら、と自然な感じをイメージして、生徒たちを振り返る。突っ伏している生徒は一人もいない。少し目を回すと、こちらをじっと不安そうに見つめている大野月子が目に入った。
(こっち見んな)
刹那、どくっ、と心臓の音が強くなった。大野月子じゃない。男子の声だったし、彼女の声ではない。教卓の上に置いていたノートを見るふりをして、気づかれないようにゆっくり呼吸する。いつの間にか、呼吸が不安定になっていたらしい。
こっち見んな。
うざい。
嫌い。
絶対に、大野月子の声ではないのに、なぜか、彼女がそう言ったような気がしてしまった。まるで、彼女もそう思っているように感じられた。そう思ったら、今度は大野月子に対して、ごちゃっとした、訳の分からないいらいらが、沸き上がってきた。
授業の終わりの挨拶をするときまで、結局生徒たちのトゲトゲした心の声は、途絶えなかった。
……思い出せば思い出すほど、積もったいらいらはどうしようもなくなってくる。
スーツのポケットに煙草があるのを確認すると、職員室を出た。今日は、いつもの(また煙草)という小言さえ、いらいらに変わってしまう。
それが後ろめたくて、上手く顔をあげられず、階段を降りようとした時だった。
「草原先生」
自分の名前とその声に、頭が素早く持ち上がる。少し困ったような顔で笑っている大野月子が、踊り場の壁にもたれて立っていた。
「んー……今日は、お手伝いすること、なさそうですね。ボールペンしか持ってないし」
……ボールペン?
はっ、と右手に手をやると、煙草が握られている。思わず、手でそれを覆い隠してしまう。
「あー……どうしてそこにいたんですか?」
「期待して待ってました」
いたずらっぽく、はは、とはにかんで笑う。
期待して、の意味がわからなくて、少しぽかんとしてから、手伝いのことか、と思い当たる。いつもは待っていたりはしないのに、もしかしたら、六時間目のことがあって、気を遣わせてしまったのかもしれない。大野月子の笑顔を見たら、さっきまでのいらいらは、なんだかすーっと消えてしまった。
「期待はずれですみません」
「いえいえ」
「明日は期待しててください」
「承知しました」
ぴっ、と敬礼して、一礼すると、それじゃあ、と彼女は階段を下りていく。
……なんだか、物足りない。
「あの」
大野月子が、階段を二、三段降りたところで呼び止めると、何ですか、と彼女はすぐにこちらに目を向けてくれる。
「いつも手伝ってもらってるし、お礼がしたいんですが」
何言ってるんだろう。
お礼なんて、そんなことするタイプだったかな。
「今すぐですか?」
「今すぐです」
「それは、ふふ、唐突ですね」
そう言って笑いながら、喜んで、という返事に、彼女は階段を飛ばし飛ばしでスキップして上ってきた。
そのあと、二人で生物準備室で、机の引き出しに入っていたおせんべいを食べた。
先生私、おせんべい大好きなんです。
これはお手伝いしがいがありますね。
そう言って、せんべいを頬張る大野月子を見ていて、ぼんやりと、なんだか愛しいと思った。
月子を見送るとき、永遠の別れとかでは全くないのに、なぜか無性に名残惜しかった。一人になってから、夕焼けでピンクになった空を見て、あっ、と気づいてしまった。
大野月子へのこの感情は、たぶん、恋だ。
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