02 煙草
授業で使うプリントを印刷して、生物準備室へ向かう階段を上っていた時だった。
「あ」
「あ、草原先生」
大野月子だった。今から家に帰るのだろうか、手にはクジラのストラップがついた自転車のカギが握られている。
夏休み中に前髪をぱっつんにしたところ、大野月子のクラスで馬鹿にされた。「新学期なのでイメチェンです」とか言って。あの授業の時、大野月子に「似合いますよ」と言われてから、会うと真っ先に前髪を気にしてしまう。あと、「ありがとうございます」って返したら見せてくれた、あの笑顔も、思い出してしまう。
「それ、重そうですね」
はっと、自分の手の上に乗ったプリント、ざっと千枚、あと四角いファイルボックス二個に目をやる。ボックスの中に無造作に入った文房具と教科書類が目に入り、雑な男だと思われそうだ、と汗がにじみ出る。
「あ、はは、授業用のプリントです。この学校は印刷室が一階なので、三階の生物準備室まで行くのが大変で」
「お持ちします」
返事も聞かずに、大野月子はファイルボックスを両方とも手に取った。無造作な中身ががちゃりと音を立て、一瞬後ずさりしてしまう。でも、ふさがっている両手ではどうしようもなくて、そのままボックスは大野月子の手に渡った。
「あ、すみません」
「暇なので」
涼しい顔で笑うから、ボックスの中身の汚さは気にしていないように見える。いや、でも、汚いと思われていたらどうしよう。
「俺、鍵持ってるので、先行きます」
「わかりました」
どう思われているか、気にしないように、と思って階段を上る。途中すれ違った用務員さんが、ぺこりと一礼だけして、(今日の夕飯何かな)と言いながら階段を下りて行った。
階段を上っている間、ずっと何も話さなかった。
「今、開けますね」
「……はい」
少しトーンが低い声に、やっぱり、汚い、雑だと思われているのでは、とさっき遠くへ追いやったはずの不安が返ってくる。薄暗いオレンジに包まれた生物準備室に入ると、余計に沈黙が強調されているような気がした。
「あの、じゃあ、そこに置いてもらえると助かります」
「はい」
誰のものでもない空っぽの机を指さし、自分は窓際の棚の上にプリント置こうと歩を進める。後ろからことり、という音がして、お礼をするのを忘れていたことを思い出した。
「あの」
先に口を開いたのは、大野月子の方だった。
「……はい」
プリントを持ったまま振り返ると、あ、置いてください先に、みたいなジェスチャーをされた。今から大野月子が話すのは、悪い話か、いい話か。役立たずな自分の勘は働かなくて、無駄に心臓だけがバクバクしていた。
「何ですか」
「あの、先生」
「はい」
「先生、煙草、吸いました? 今日」
「えっ?」
吸った。印刷室に行く前に、今日も疲れたなあとぼやきながら。
……もしかしてこれは、遠回しに臭い、と言われているんじゃないか?
「すみません、嫌ですよね、煙草の匂いって」
「あ、いや、そう、じゃなくて」
「いや、平気ですよ。みんな俺のこと煙草臭いって思ってるの、知ってますし」
「せ、せんせ」
「んー、たぶん俺、中毒ですしね。ヘビースモーカーって自分でいうのも、かっこ悪いですけど」
口から言葉がポンポン出てくる。言い訳しているみたいだ。
全部本当のことなのに、言い訳できる理由なんて何一つないのに。
「先生なのに、生徒に何も言えないですよねえ」
「あのっ」
違います。
大野月子の言葉で、空間が再び、静寂に帰った。
「煙草の匂いは、嫌、ですけど! ……けど、先生のは、あんまり嫌じゃなくてっ、でも、健康に悪いから控えてほしいなあと、思っただけ、です」
「そんなに、嫌じゃないですか」
「はい」
「……煙草は、寿命縮めますもんね」
「はい。困ります」
じゃあ先生、さようなら。
晴れた顔で、大野月子は生物準備室を出ていった。困ったことに俺の緩んだ頬は、なかなか戻らなかった。その夜口にしたのは、煙草ではなく棒アイスだった。悪くないなあ、満月を見ながらのアイスも。
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