第4話 バカとヘンタイ
「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎッ!」
夜の帳が下りた。
オットイは未だ荷車の取っ手を掴んで引き続けていた。
彼の全身からは、汗が大量に溢れ出ている。
荷車は、彼が引き始めてから一ミリも動いていない。
そして……既に三時間以上が経過していた。
「んがあああああああああああッ!」
露店は営業時間を過ぎ、閉店している。
通行人もいない。
等間隔に並ぶ街灯が暗闇を明るく照らしていた。
すると、車輪が僅かに動いた。
もう一声、力が乗れば車輪が回るはずだ。
しかしオットイの力ではそこから先へ進めない。
回りそうだった車輪は、元の位置へと戻ってしまう。
「はぁ、はぁ……もう、一回ッ!」
「…………」
樽に腰かける少女は、文句の一つも言わずにただそこに座っているだけであった。
地につかない足をぶらぶらと宙に浮かせている。
「うぉ!? お前ら、まだこんな所にいたのか!?」
すると、垂れ幕のようなテントの裏から、扉の開閉音と共に現れた中年がいた。
つい数時間前までこの場で商売をしていた露店の店主である。
「すみません……、すぐに、行きます、から……ッ」
「ああ、いや、もう閉店してるからな、いつまでもいてもらっていいんだが……」
オットイが取っ手に全体重を乗せて力を入れるが、車輪は動く気配を見せない。
荷車も、展開も、進退の一つもなかった。
必死に引いても一向に進む気配のない絶望的な空気感に、店主が同情の念を感じた。
「ったく、俺も手伝ってやるよ」
「余計な事すんな」
少女は腕組みをして、実際に上から目線である。
「余計な事って、お前なあ……これじゃあ一生お前の家に辿り着かねえぞ。手伝っちまった方が早いじゃねえか」
聞いたオットイが、震える唇で言葉を出す。
「僕に任された役目です、僕一人で……!」
「そうは言ってもよお小僧……任された仕事にも、期限っつうもんがあってだな……」
そこでおかしな点が目に入ったのだろう、店主が少女を見た。
「……ティカ、なぜ手伝わない?」
「べつに。あたしがこいつにやれって言ったの。そしてこいつがやるって言ったの。なのに手伝うのは違うだろ」
「……帰りが遅いと弟が心配するんじゃないか?」
「一日くらいどうって事ない。この調子じゃあ一週間もかかりそうだけどな」
さすがにそこまではかからない、と思いたい。
だが今のオットイを見ていれば、やりそうな気がしてならないのだ。
「……お前、意地になってるだろ」
店主の言葉に、少女が反応した。
「してないな」
「嘘つけ。仕入れの品を早く運ぶ事に越した事はないはずだ。あの店を大事にするお前なら尚更だ。こいつになにを見出した? なにかを期待でもしてるのか?」
「期待、な……ないわけでもないな」
ほう、と店主が驚いた。
あのティカが、誰かに期待をするとは、珍しいとでも言いたげな表情である。
「期待とは言っても、いつ弱音を吐くかな、っていう期待だけどな」
オットイは今に至るまで決して弱音を吐かなかった。
文句の一つもない。
ただ気合いのかけ声を上げ、挑戦し続けていた。
休みなく、これまでずっとである。
「まさか、弱音を吐くまでこのままでいるつもりか?」
「それもない。弱音を吐いたら言ってやるんだ、ダメー! ってな」
「お前、最低だな……」
少女は両手を交差させバッテンを作っている。
「まあ、報酬なしなら、手伝ってやってもいいけどな」
遅いぞ遅いぞ-、と少女のつま先がオットイの後頭部をつついた。
「待たせちゃって、ごめん……家までの道案内、お願い……!」
がああああああああああッ! とかけ声が上がり、オットイが何度目か分からない、全体重をかけた力を入れる。
びくともしない荷車の光景、これも、見たのは何度目か。
「ティカ、いつまでもいるのは結構だが、深夜までには引き上げろ。分かるだろ? こんなこれ見よがしな大荷物、すぐに盗られちまうぞ」
「そんなの言われなくても分かってるから」
絶対だからな! と店主は言い残し、自分の家の中へ戻って行った。
色々と助言や忠告をしたりするが、結局、自分の手でなにかをしないのは、この町ならではである。
最終的に頼りになるのは自分であり、自分の力だけで切り抜けるのが当たり前だからだ。
誰だって自分が一番可愛い。
この町の日常は自己責任で回っている。
それから二時間後、オットイの力が尽きたのか、その場で膝が崩れてしまう。
汗が地面に滴り落ちる。
オットイだけ、まるで雨にでも降られたかのようだ。
「そろそろ限界だろうな。というか、随分前にギブアップしてもおかしくないんだけど。ここまでくると、今こうして粘っている方が異常な気がしてきたっての」
もはやオットイの弱音を待つだけの作業になってしまっている少女は、内心わくわくしながらオットイの背中を見つめる。
さすがに、ここから荷車が進むとは思えない。
それに関しては随分前に諦めがついていた。
今はオットイがいつ諦めるか、それだけが気になっている。
「な……」
な? オットイの呟きの先が、少女には予想できなかった。
「中々進まないな……」
「今更それ!?」
オットイが荷台を見上げた。
少女が口を手で押さえ、しまった、と目を逸らす。
思わず声を荒げてしまったのが、素を見せたようで照れ臭かった。
オットイがじっと見るので、少女が口調を強くした。
「なんだよ」
「そう言えば、名前聞いてなかったなと思って」
今言う事ではないだろうが、確かにそう言えばそうである。
ただ一泊させるだけの関係で、名前なんてどうでも良かった、とも考えてもいたが。
さっきとは心境が変わっている。
ちっとも諦めないこの変態の名前を、ぜひ知りたい気持ちになったのだ。
「僕はオットイ」
「なんだか、力の抜けそうな名前だな」
「よく言われるよ」
よく言われるんだ……、
少女の方が、力が抜けてしまった。
今度は少女が名乗る番である。
と言っても、露店の店主との会話内容を聞いていれば、何度も出てきているので新鮮味がないかもしれないが。
「あたしはティカだ」
「ティカさん」
呼ばれてすぐに鳥肌が立った。
寒気もあるし、変な感覚である。
「コツを掴んだから、もう少しで進むと思うよ」
嘘つけ、と思ったが、彼女は言わなかった。
なんというか、ダメだというのが分かっているのに、もしかしたら次には前に進んでいるかもしれないという期待を抱かせる。
まるでやめ時の分からない博打のようであった。
ふんぎぃ! と再びオットイの挑戦が始まった。
……なにも変わりはない。
まったく同じ光景を見せ続けられている。
でも、最初よりもこの光景を、嫌とは思っていない自分がいた。
やがて……、多分、その言葉は自然と出た。
ティカはきっと、言おうとはしていなかっただろう。
体が勝手に、そう口に出していたのだ。
「――がんばれ」
そして……、
距離およそ数センチ、車輪一回転分ほどだが、確実に回った。
荷車が、初めて前に進んでいたのだ。
「今……」
「今!」
二人が顔を見合わす。
進んでいた、その事実を確認するように。
「「前に、進んだ!」」
両手を離して喜ぶオットイと、それにつられて一緒に手を上げるティカ。
と、先に冷静さを取り戻したのは、ティカの方だった。
「……いや、やっと一歩目だから」
まるで大きななにかを成し遂げたかのような達成感だったが、スタートラインから進み始めただけだ。
本題は、ここから先である。
決して短くはない距離を、オットイは引かなくてはならない。
合計五時間で、数センチ。
単純計算した時、家に辿り着くおよその時間を導き出すのが恐くなる。
しかし当事者のオットイは、そんな事、まったく考えてはいないらしい。
「じゃあすぐに二歩目だね!」
うっ、とティカが左胸を押さえる。
オットイの真っ直ぐさに、心が痛かった。
「……変なやつ」
そして、彼女は荷台の上の樽から下りてオットイの隣に並ぶ。
目を点にしているオットイ。
彼の顔を無理やり前へ向かせて、ティカも同じように取っ手を掴んだ。
「あの、ティカさん、なんで……」
「あーもうっ、それ、気持ち悪いからやめろ。ティカでいい! あと、おまえが大変そうだから手伝ってやる。一泊をなしにしたりしないから。いいから余計な事を聞かずに力を込めて引っ張れ!」
わ、分かった! とオットイが力を入れる。
その隣で、ティカも同じように。
するとオットイの苦労がまるで嘘のように、荷車の車輪が回り出した。
「…………僕って、どれだけ力がないんだ……」
「気にすんな男の子。おまえにもすげえところあるじゃん」
……たとえば、諦めの悪い粘り強さとか。
ティカに褒められていたが、オットイの耳には入っていなかった。
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