第10話 一途な思い




 貴樹君がラスト半周の中間ラインを超えた時、わたしは5メートルほど後ろに付けていた。

 本来のわたしなら射程の範囲だが、ペース配分を考えずに突っ走ってきたわたしには、途方もないビハインドだった。

(余力はない……)

 今は引き離されないよう食らいつくしかない。

 最後のカーブを曲がった残り75メートルが勝負だ。

 そこで最後の力を振り絞れるかどうか分からないが、それに賭けるしかなかった。

 勝負の行方は思いの強さだと思った。

(わたしの方が、ずっと大好きだ!)




                    *




「ゴメンね、お父さん」

 お盆休みで、仕事でいつも忙しいお父さんが家にいるというのに、わたしは部活のため家を出なければいけなかった。

「父さんの事は気にするな。それにしてもお前も大変だな。夏休みも大会と練習に明け暮れて」

「お父さんの仕事に比べたら、大した事ないよ。今日も頑張ります!」

 わたしはお父さんの前では笑顔で明るくいたかった。

「ところで今日は何の大会だった?」

「正確に言うとちょっと長いけど、大阪高等学校総合体育大会陸上競技の部よ。長居競技場で行われるのよ。見に来る?」

 お父さんは笑って首を横に振った。

 だけど今日のように暇な時は、黙って見に来ている事をわたしは知っている。

「無理して体壊さないようにな」

「分かってるよ。気を付けるよ」

 わたしは笑顔で応えて家を後にした。



 大阪の大会はわたしにとって難関ではなかった。

 予選・準決勝と12秒を切るタイムでトップ通過したわたしは、順当に勝ち進んだ。

 決勝には八位の成績で佐藤さんもいた。

 第三レーンのわたしの隣り、第四レーンの彼女は、いいスタートを見せたが、間もなく追い抜き、わたしは優勝し、佐藤さんは七位だった。

 35度を超える猛暑の中で行われたレースは、いずれの競技も大会記録をやや下回っていた。

 レースの後、佐藤さんが笑みを浮かべ近寄ってきた。

「やっぱり速いわ」

 その日初めて佐藤さんと言葉を交わした。

 12.88秒で七位とは言え、佐藤さんのタイムは確実に伸びていた。

 されど、こんな時コメントするのはとても難しい。常に12秒切るわたしからの賛辞さんじおごりととらえられないからだ。

 それに、佐藤さんが話したい事はそれじゃないのも知っていた。

「貴樹君は来てないのね」

「うん」

「何かあったの?」

 わたしは小さく頷いた。

「告白したけど、振られちゃった」

「うそ…?!」

 佐藤さんは少し驚いたようだった。

「女はズルいから嫌だって言われた。もう傷つきたくないんだって」

 わたしは意地悪なのかもしれない。

 そう言いながらも佐藤さんの反応をうかがっていた。

「ズルいって言ったのね……」

 佐藤さんは少し険しい顔を見せ唇をんだ。

 その後わたしに向き返った。

「わたしにとって早瀬さんは、ずっと最強のライバルだったわ」

「えっ?」

 唖然とするわたしに、佐藤さんは苦笑した。

「100メートル走の話じゃないのは分かるわね?」

「え、ええ」

「彼と付き合い始めて間もなく現れた、早瀬さんの存在がわたしには怖かったわ」

「怖かった?」

「そうよ。怖いと思ったの」

「どうして?」

「だって、わたしが何度やっても上手に出来なかった貴樹君とのスタブロを、あなたたちはたった一回で息ピッタリにやってのけたのよ。わたしはあの時感じたの。この人にいつか貴樹君を取られるんじゃないかって」

「ないよ、それ。だってわたし…」

「きっとわたしのせいだわ」

 と佐藤さんは真夏の青空を見上げた。

「わたしが貴樹君を変えてしまったんだわ」

 そう言ったきり黙ってしまった。

(何があったの? 堀内君との間に?)

 知りたかった。

 しかし、今さら知った所でどうなるものでないのだ。

 わたしは尋ねる事をしなかった。

「ねぇ、携帯電話持ってる?」

 ふいに佐藤さんが尋ねた。

「持ってるけど」

「アドレス交換してくれる?」

「いいよ」

 断る理由もなかったので互いの電話番号を交換した。



 八月三十一日。夏休み最後の日だ。

 わたしの家から目と鼻の先にある狭原池の周遊路したの広場が、今日の練習場所だ。

 全国大会から帰ってから部活の練習に出るのは初めてだった。

 集合場所に着くと、狭原高校のジャージを着たあまり面識のない生徒たちが、三十名ほど集まっていた。

(集合場所を間違えたかな)

 と思ったが、

「早瀬、来たか」

 後ろから現れた黒木先輩が、戸惑っているわたしの手を引いて、集まっているみんなの前に出た。

「新入部員だ」

 と笑顔を向けた。

 一年生だけではなく二年生もいた。

「早瀬の活躍のお陰で、入部希望者がこんなに現れたのよ。わたしら三年生が引退したら陸上部はどうなるのか心配だったけど、これなら安泰だね」

 黒木さんたち三年生が引退すると、二年生の二人とわたしの三人になってしまうところだった。 

「他の三年生も挨拶に来て欲しかったんだが、受験モードで夏期講習に参加している者もいるしね」

 六月の近畿大会が終了した時点で三年生は引退することになっていた。

「なんかやっと部活っぽくなってきましたね。女子が少ないのは少し寂しいけど」

 女子部員は五名しかいなかった。

 わたしの言葉に黒木さんは意味深な笑みを浮かべて耳打ちした。

「早瀬の色香に惑わされたと言っても過言ではないな、男子は」

「先輩! 変な事言わないでくださいよ」

「早瀬の照れたところが可愛いから、ついからかいたくなるんだよね」

 相変わらずの黒木さんにわたしは笑った。

 夏休み明けにある大会に出場する選手はわたしだけだったので、新入部員の指導は黒木さんと二人の二年生が引き受けてくれた。

 わたしはひとりで黙々とメニューをこなしていた。

 ひょっこり貴樹君が現れるんじゃないかと、わたしは時々周囲に目をやるばかりで、中々練習に集中出来なかった。

(あんな別れ方したんだもん。来るわけないよね)

 スタブロ役がいない以上クラウチングスタートの練習は出来なかった。

「おーい! 早瀬」

 わたしを呼ぶ男子の声に、わたしは勢いよく振り返ったが、西村君だった。

「何だよ。そのガッカリ感は」

「そ、そんな事ないよ」

「いいって、いいって。分かってるから」

 西村君は意味あり気な顔でそう言った。

 どうやらサッカー部も練習があったらしい。今の陸上部と同等の人数と一緒に帰るところらしい。

「練習はまだあるのか?」

「わたし自身に任されているの。するもしないもわたし次第ってとこ」

「おれも終わって今解散したとこだよ」

 言いながら西村君は周遊路の土手の草むらに腰を下ろした。

「練習終わったんなら、少しいいかな」

 と自分の隣りの草の上をポンポンと叩いて座るよううながした。

 わたしが戸惑っていると、

「まるで痴話喧嘩ちわげんかだったぜ。おれの家まで丸聞こえだったよ」

 どうやら三週間前のを言っているようだ。

「聞かれていたのね」

 気落ちしていたせいか、羞恥心はさほど感じなかった。

「察していると思うが、貴樹の事で知って欲しい話があるんだ」

 わたしは小さく頷くと西村君の隣りに座った。

「あいつ、体の震えが止まらなかったんだよ。高校に入る直前まで」

 そう切り出した西村君の言葉の意味をわたしは理解出来なかった。

「あいつ中学の時、付き合っている娘がいたんだ」

「佐藤めぐみさんね」

「おおっ。知っているのか!」

 西村君は驚きを隠さなかった。

「そんなら話は早い。単刀直入に聞くけど、早瀬は貴樹が好きなんだよな」

 面と向かってそう聞かれ、わたしはたじろいだ。

「いきなり何よ。どうしてそんなこと西村君に話さなきゃいけないのよ」

「全部聞こえていたよ」

「ああ……だよね」

「だから貴樹が早瀬に話さなかった秘密を、おれが話してやろうと思ったんだよ。いつまでもトラウマ抱えたままじゃ、あいつはダメになってしまうからな」

「それって、わたしに堀内君の力になれって事?」

「そうだよ」

「……無理よ。振られたんだよ、わたし」

「聞こえてたよ」

「じゃあ、何で」

 と言いかけるわたしの言葉を西村君は手で制した。

「あいつはお前が好きだよ。絶対に、間違いなく」

 わたしはなんて言葉を返していいのか分からなかった。

「本気だから怖いんだよ。また、失うんじゃないかって怯えているんだ」

 それから西村君は、彼が知っている限りの貴樹君と佐藤さんの二年間の物語を聞かせてくれた。

 シークレットな恋だった事も、二人の仲がよかった事も、貴樹君がどんなに思いやりを持って佐藤さんに接していたか、目に浮かぶようだった。

「貴樹は本当にめぐみを大切にしていたんだよ」

「分かるよ。中学の時、ずっと競技場で見ていたから」

「そうだったな」

 と言って西村君は小さく笑みを浮かべた。

「早瀬ってさ、貴樹に似ているよな」

「どういう事?」

「一途なところなんかさ。あいつは優しい上にイケメンだから、本当によくモテたよ。おれが貴樹だったら、他の娘ともこっそり付き合ったりしていたかもしれないけど、めぐみと付き合うと決めた時からあいつは、めぐみ一筋だった」

 佐藤さんを気遣う貴樹君の優しい眼差しを、わたしは思い出していた。

「本当は貴樹のヤツ、小学校から一緒だった女子の中に気になる娘がいたんだ。めぐみが貴樹に告白して三ヶ月くらい後にその子が告白してきたらしいんだけど、貴樹は好きな子がいるからと言ってちゃんと断っていたよ」

 貴樹君らしい、とわたしは思った。

「それなのに、めぐみのヤツ貴樹を裏切りやがったんだよ」

 温厚な西村君には珍しく少し感情的な口調だった。

「何があったの?」

 西村君はためらうようにうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「キスしていたんだ」

「えっ?」

 わたしは一瞬、貴樹君と佐藤さんがキスしている場面を想像したが、話の流れからそうではないと悟った。

 西村君と貴樹君が、部活の後、陸上部の部室の前を通りかかった時だったらしい。

「めぐみは高柳ってヤツと抱き合ってキスしていたんだ」

 わたしは思わず口元を押さえた。

 想像もしなかった展開にわたしは大きな声を上げてしまいそうだった。

「おれは一瞬目を疑ったよ。わけは分からなかったが、とにかく貴樹には見せてはいけないと思って手をつかんで貴樹の足を止めようとしたんだが、間に合わなかったよ。自分の彼女でないおれにとっても衝撃的な光景だったんだ。貴樹の心の内はどんなだったろうな」

 貴樹君は大きく目を見開いて体を震わせていたらしい。

「おれも最初は高柳に無理やりキスされたんだと思ったが、どう見たって合意の行為だった。めぐみは貴樹と目を合わせても言い訳ひとつしなかったんだよ」

 その後、貴樹君は西村君の腕を振りほどいて駆け出したと話した。

「たぶんその瞬間から症状が出ていたんだと思う。貴樹自身は無意識だったと思うけど、走り去るアイツの足が変な動きをしていたんだ」

「震えていた、ということ?」

「そうだと思う。おれは危ないと思い貴樹を追いかけたんだが、あいつの足には敵わないからな。案の定花壇かだんに足を引っかけて、大転倒……。全治一週間の怪我をしてしまったのは、大会三日前だった」

「地区予選があったの。スタジアムでも話題になっていたわ。病気とか怪我とか」

「どちらも正解だな。でもアイツの謎の震えは多分おれしか知らないと思う。もしかしたら葛城先生は気づいていたかもしれないけど…葛城先生というのは…」

「知っているよ。顧問の校医さんでしょ?」

 西村君はよく知っているなと言わんばかりの顔をしたが、今はそんな事どうだっていい。

「家族の人には?」

「話してなかったはずだ。おれはずっと口止めされていたから」

 中学三年の時、西村君と貴樹君は同じクラスだったと話した。

「大変だったのはそれからだ。貴樹の成績不振は、めぐみとの一件で勉強に集中出来なかった事よりも、いきなり訪れる体の震えのせいなんだ。おれは貴樹を見ていたからわかる。大事な定期テストの時ほど発症していたみたいなんだ。答えが分かっているのに手が震えて回答できなかったんだよ」

「佐藤さんはどうしていたの?」

「あいつか? あいつは臆面もなく高柳と腕を組んで校内を歩いていたよ。それを目にした時の貴樹の気持ちも考えないで」

(ひどいよ、佐藤さん)

 何か事情があったのかもしれない。

 だけど……それはないよ。

(それともあなたはそういう人だったの?)

 貴樹君が佐藤さんに一途だったのは、遠くで見ているわたしにはよく分かった。 

『おれはもう傷つきたくないんだよ!』

 あの日の貴樹君の悲痛な叫びは、こういう事だったんだと、わたしは知ってしまった。

 大好きな恋人が他の誰かとキスしている所を目の当たりにしたとしたら……。

(そんなの耐えられないよ!)

 貴樹君の事だ。佐藤さんを問い詰める事はしなかったはずだ。

 受け止められない現実を、胸の中に押し込めようとして、押し込められず、一人で苦しんでいたんだ。

 涙する貴樹君の姿を想像してわたしは胸が痛んだ。

「早瀬の前でこんな話はどうかと思うんだが」

 と前振りをしてから西村君は話を続けた。

「貴樹は本当にめぐみに一途だったんだよ。高校も、大学も、そしてその先の事もおれに語っていた」

(つまり、結婚も?)

 わたしの心の声に西村君は頷いた。

「大人から見たら、ママゴトみたいに見えるかもしれないけど、あいつは真剣だった。もしかしたら、それがめぐみには重すぎたのかもしれない」

 そう言った後で西村君は、深くため息をついた。

「あの日、早瀬が帰った後でさぁ、おれ貴樹を怒らせちゃったんだよ。何とかしてあげたい気持ちもあって、あいつの触れて欲しくない部分に踏み込んじまって……。逆効果だったよ。余計意固地いこじにさせてしまった」

 貴樹君と西村君の間に何があったかまでは分からないが、なんとなく想像は出来た。西村君は貴樹君にとっていい友達なのだから。

「堀内君も分かってくれているよ。彼は優しい人だから、今頃きっと後悔しているよ、西村君を怒った事」

「そうだろな」

 と西村君はちょっぴり笑ってを見せた。

「やっぱり早瀬に話して正解だった。お前ならきっと貴樹を分かってくれると思ったよ」

「そうかな」

「そうだよ。だから」

 西村君が真面目な顔をした。

「貴樹を助けられるのは早瀬しかいないんだ。貴樹を見捨てないでやって欲しい」

 湖面から風が吹いた。

 湿気を帯びたそよ風は快適とは言えなかった。

「出来ないよ、やっぱり。わたし、振られたんだよ」

 わたしがそう告げると、西村君は肩を落とした。

「……だよな。やっぱ……」

「ごめんなさい。せっかく話してくれたのに……」

 貴樹君の気持ちは分かる。でも、わたしまでズルい女と言われたのはやはり許せなかった。

「あいつは本当に心の優しいヤツなんだ」

 と西村君は夏空を眩しそうに見上げてそう言った。

「小学生の時だけど、確か五年生だったかな。おれは持っていた千円を落としてしまったんだよ。いざ、お目当てのものを買おうとポケットに手を入れたら、千円札がなくなっていたんだ。そりゃ悔しくて泣いたよ。そしたら、貴樹のヤツが『おれが探してきてやるよ』と言って自転車に乗って飛び出していった。おれはその時泣いたけどすぐに諦めてケロリとしていたんだよ」

 しばらくして貴樹が濡れた千円札を持って帰って来たらしい。

「『溝に落ちていたよ』と言っておれに渡してくれてね。その時は『ありがとう』って受け取って一件落着だったんだが……。何日か後におれの机の引き出しから出てきたんだよ、無くしたはずの千円札が……。つまりあの時おれは、ポケットに入れたつもりで買い物に出かけていたんだよ」

「それって、まさか堀内君が?」

「そうだ。泣いているおれに心傷めて、自分の千円札をわざわざ濡らしておれにくれたんだ」

「堀内君らしいね」

「あいつはものすごく人の気持ちを大切に考えるヤツなんだよ。だからあの時おれは思ったんだ。アイツが本当に困っている時、絶対力になってやるって」

 わたしは堀内君の優しさを知っている。

 一途なゆえに、裏切られた反動の大きさも頷けた。

 わたしは彼の優しさとその一途さを手に入れたいと思った。

 だけど、彼は振り向いてはくれなかった。わたしは彼にとってそれだけの女でしかなかったのだ。

「冷却期間っていうのも必要だからな」

 そう言って西村君は立ち上がった。

「貴樹の事で動く気になったら声かけてくれよ。おれは全面的に協力するから」

 西村君は、返事もしないわたしに背を向けて駆けて行った。

 わたしは貴樹君を諦めたつもりでいる。

 でも、ほとんどの部分で、きっとまだ夢を諦めきれないでいる。

 三年間の思いはそう簡単に捨てきれるものではないのだ。

 彼の事を考えるだけで、胸が締め付けられるように苦しい。

(どうすればいいのよ)

 わたしは悩みを抱えるだけで、解決する術を知らなかった。



 新学期が始まった。

 貴樹君は相変わらず輪の外にいた。

 一方わたしは、押し上げられる形で輪の真ん中に祭り上げられていた。

 学校の外でも違う制服の人からもよく声を掛けられるようになった。

 最初はそれなりの対応をしていたが、近寄ってくる男子の中には好意的でない人もいた。

 わたしは外出する時は、練習でもサングラスと帽子を着用するようになっていた。

 ある時わたしは友達と一緒にいる直樹君と出会った。

 ランニングの後、狭原池東湖畔にあるさやか公園のベンチで休んでいると、背後のベンチに座る二人を見かけたのだ。

 わたしはサングラスと帽子を身に着けていたので、直樹君は気づかなかったようだ。

 わたしだと知られてはいなかったが、気まずさもあって立ち去ろうとした時、直樹君の友人の言葉が耳に引っかかった。

「直樹とは同じ高校に行けると思ったんだけどな。残念だよ。それで東京のどの辺りに引っ越すんだよ」

(引っ越す……? どういう事?)

「今お父さんが住んでいるのは新宿だけど、家族四人で暮らすとなると郊外になると思うよ」

 わたしは息をのんで会話に耳を傾けた。

「そうか。それより直樹、『お引越し』どれくらい進んでるんだ?」

「『お引越し』かい? ああ、今ちょっと編入手続きが大変なんだよ。おれは中学だから役所の手続きだけですんなり通るんだけど、兄ちゃんの高校が公立から私立への編入だから手続きが複雑なんだよ」

「へぇ、リアルじゃん」

「編入試験なんかもあってさ」

「超リアル!」

「それだけじゃないよ。自宅の売買とかもまだ残っていて、司法書士さんと掛け合っている最中なんだよ」

「笑えるくらいリアルだよ」

(何なのよ、この子! リアルリアルって、意味分からない!)

 黄色い声で笑う直樹君の友人に苛立ちを覚えながらも、わたしは黙るしかなかった。

「結構焦ってるんだよ。十月から新しい学校に通うから、九月中には引っ越し完了しないといけないんだよ」

 わたしは血の気が引く思いだった。

(十月には、貴樹君が東京に引っ越す? 貴樹君がわたしの前からいなくなるの?)

 そう考えただけでわたしは軽いめまいを覚えた。

(嘘……)

 直樹君とリアルを連発していた友達が去った後も、わたしは動けないでいた。

 わたしは高をくくっていたのかもしれない。

 始まってまだ間もない高校生活の中で、必ず訪れであろう貴樹君との時間に期待する思いがあったのだ。

 その悠長ゆうちょうな思いを、たった今砕かれてしまった。

(もしかして、わたしを避けていた理由の一つが、それだったの?)

 だとしたら……。

(わたしはこのままじゃ終われない。だけど……)

 たとえ振り向いてくれたって、残された時間を考えたら、余計辛さが残るだけだった。

 それでもこのまま終わるのは絶対に嫌だ。


 ふと、お母さんが亡くなる数日前の事が頭をよぎった。

 お母さんの具合がますます悪くなるのが分かった。

『綾乃、お母さんにちゃんと話してきなさい』

 お父さんがわたしの背中を押した。

 でもわたしはベッドに横たわるお母さんの前に進み出なかった。

 ありがとうの一言でも告げたらそのままお母さんが死んでしまう気がしたからだ。

 逝って欲しくないから別れの言葉を告げたくなかったのだ。

 わたしは病院を飛び出して護岸工事中の狭原池を目にしながら泣きじゃくった。

 しばらくして病室に戻ると、お母さんは意識不明になっていた。

 わたしはその時になって必死にお母さんに語り掛けた。

「お母さん今までありがとう」

「わたしを産んでくれてありがとう」

「お母さん、ごめんなさい」

 だけど、お母さんはわたしの声に反応しなかった。

 人工呼吸器を装着したまま、意識が戻ることなく三日後にお母さんは他界してしまった。

(なんであの時、最期の言葉を掛けてあげられなかったんだろう)

 お母さんの意識のあるうちに言葉を掛けていればよかった。たとえそれで逝くことになっても、ちゃんと向き合っていれば、こんなに後悔する事はなかったはずだ。

 何もしないで終わるなんて、もう嫌だ。

 わたしは同じ過ちを繰り返したくない。

 貴樹君はわたしにとって大切な人だから、もう一度向き合って話したい。

 たとえ数週間の間でも、わたしは彼の隣りに寄り添いたい。

 それが辛い別れになろうとも、わたしはもう逃げたくなかった。

 

 だけど……。

(わたしはどうすればいいの?)

 何の策も思い浮かばない。

(このまま離れたら、きっと後悔する……)

 それは分かっている。

 でもどうしていいのか分からなかった。

 わたしは頭を抱えるだけだった。

 その時、目の前を携帯電話で喋りながら通過する女の人を見た。

(そうだ。あの人ならどうする?)

 わたしは頼るべき人間を思い出した。

 他にいいアイデアがあったかもしれないが、今のわたしにはそれしか思い浮かばなかった。

 わたしはポケットにしまい込んだ携帯電話を取り出した。 

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