第8話 凱旋と告白
わたしが四回目の中間ラインを越えた時、前を走る貴樹君との距離は30メートル程に近づいていた。
120メートルも距離を縮めたんだ。
計算通りなら追いつくのは時間の問題だった。
だけどわたしはかなり無理してここまで追いついてきた。
いつ立ち止まっても不思議でないくらい疲労困ばいしていた。
(立ち止まったら、もう走れない)
わたしは貴樹君の背中を追いかけたかった。
どんな困難があってもわたしは自分に正直でいたかった。
(もうあなたから逃げたりはしない)
だからわたしを見てほしい。
お願い、わたしを見て。
*
「綾乃!」
聞き覚えのあるその声は、まさに天の声だった。
スタートに集中出来ず、綱渡りで決勝まで残ってきたわたしは、最早
(堀内君……)
わたしは胸が熱くなった。
貴樹君と二人きりだったら、
わたしは
貴樹君が笑みを浮かべて首を縦に振った。
わたしもそれに応えようと大きく首を振り、笑顔を作った。
そしてスタブロに足を掛けた時、初めて貴樹君にスタブロしてもらった時の記憶が、不意に
(堀内君、初めてわたしを綾乃って呼んでくれたね)
嬉しかった。
その思いの中、わたしは力みなくクラウチングスタイルに付いた。
パーン
号砲に素直に反応できた。
わたしの視界には山本さんしかいなかった。
彼女の背中がどんどん近くなり、やがて肩を並べた。
そして彼女すら視界の妨げにはならなくなった時、わたしは歓声の渦の中、フィニッシュラインを超えていた。
わたしは貴樹君が見下ろすメインスタンドに出来るだけ近づいた。
「
短いけれどわたしの全霊を込めた五音を貴樹君に投げつけた。
貴樹君も彼らしい照れ顔で小さく手を振ってくれたので、わたしは恥ずかしいくらい
わたしのタイムが大会新・高校新というので会場が大盛り上がりしたが、わたしにとっては、貴樹君が見に来てくれた事や「綾乃」と名前で呼んでくれた嬉しさに及ぶものではなかった。
わたしは表彰式にあまり集中出来なかった。
わたしがインフィールドで表彰の儀式を受けている間に、貴樹くんがメインスタンドから出て行くのではないかと心配だったからだ。
メインスタンドに貴樹君の存在を時々確認しながらの授与式になった。
最後まで貴樹君は付き合ってくれて嬉しかったけど、表彰式が終わった
(いたわ)
案の定、メインスタンドの出入り口から出てくる貴樹君を見つけた。
貴樹君もわたしに気づいて立ち止まってくれた。
(ねぇ、わたしすごいでしょ。
貴樹君に飛びついてやろう、と駆け出したわたしの前を報道取材陣が取り囲んだ。
(待って、わたしは貴樹君の傍に行きたいの)
心ではそう叫んでいるのにわたしは笑顔で彼らに接してしまった。
どうにかこの場を抜け出そうと試みた時、貴樹君は首を横に振って見せた。
《おれの事は気にするな》
と言っているのが分かった。
(違うの、待って)
わたしは泣き出しそうになった。
「早瀬さん、今頃
「表彰台では我慢してたんですよね」
「あの走り、すごかったですね。どんな練習しているの」
わたしは適当な言葉を並べながら、ここを切り抜けて貴樹君の所に行きたかったが、そんなわたしを見かねてか、貴樹君は小さく手を振り背中を向けて歩き出した。
(待ってよ堀内君。行かないで)
「ごめんなさい」
とわたしは我慢できずその場を離れようとしたが、女性記者たちに腕を掴まれた。
男性ならセクハラを叫ぶこともできた。
相手もそのことを承知の上での女性記者の出番だったのだろう。
貴樹君の背中が競技場の外の前庭広場を抜けてバス停に向かっていった。
(お願い、待って。わたしを置いていかないで)
わたしは我慢できずにその場にふさぎ込んでしまった。
(堀内君、行かないで)
何故だがわたしは永遠の別れのような心境に
「何があったの?」
帰りの新幹線で黒木先輩がわたしの身を案じてくれた。
「堀内君が来てくれたんです」
とわたしは
「よかったじゃないの。で、なんでそんなに落ち込んでるのよ」
「自分でもよく分かりません。ただ、せっかく来てくれたのに一言も喋れなかったからかもしれません。お礼も言いたかったのに」
黒木先輩はわたしの背中をポンと叩いた。
「帰ったら会えるじゃないの。気に病むんじゃないよ。あんたは、本当に堀内君が好きなのね」
「そ、そんなんじや……」
否定しかけたが、わたしは小さく頷いた。この人は
「他の誰よりも真っ先に報告したかった。ありがとうって言いたかった。でも言えなかった。それが悔しかったんです」
黒木さんは「ああ」と納得したようだった。彼女も報道陣に囲まれているわたしを知っていたからだ。
「彼だって分かってくれているよ。帰ったら話せばいいじゃないの。それよりあんた、忘れてる?」
黒木先輩はそう言いながらわたしの頬を軽くつねった。
「早瀬は今、100メートルの女王様なのよ。もう少し
「そうですね」
わたしは自嘲するように笑った。
「今の今まで忘れていました。わたし優勝してたんですよね」
「怒るよ本当に」
と黒木先輩は
その日のうちに狭原市に帰ってきた。
9時を回っているというのに、最寄りの駅の周辺は大勢の人がわたしの凱旋を待っていた。
真っ先に貴樹君の姿を探したが、この人ごみの中でそれは困難だった。
「早瀬さん」
「綾乃ちゃん」
「早瀬」
色んな方向から様々な呼び名が飛び交った。
こんなのに慣れていないわたしは、ひたすら笑顔で手を振るしか出来なかった。
「綾乃ちゃん、おめでとう。見てたよ、見てたよ。すごい、すごいよ」
「佳代ちゃん、来てくれてありがとう」
わたしは興奮気味の佳代ちゃんと抱き合った。
泳いでいる私の目線に気づくと、
「堀内君、来てないみたいよ。わたしもさっきから探してるんだけど」
少し
「知ってるよ。だって彼、競技場まで来てくれていたのよ。まだ帰ってないのかもしれないよ」
わたしは自分に言い聞かせるように言った。
「そうだったんだ。傍で応援してくれてたんだね」
佳代ちゃんの表情が和らいだ。
その後は市長やら議員やらがわたしの横に立ちながら、集まった人を意識した演説めいた話を延々と続けた。
その間もわたしは笑顔の裏で貴樹君の事ばかり考えていた。
(彼はまだ帰ってないんだ。きっとそうだ)
凱旋なのに、大勢の人が目の前にいるのに、わたしは言いようのない孤独感に取りつかれていた。
「よくやったね。おめでとう」
11時を回ってようやく家に帰る事が出来たわたしを、お父さんが待っていてくれた。
「お父さんゴメンね。早く帰ってこれなくて。ご飯とかまだなんでしょ?」
「気にするなよ。疲れているのはお前の方じゃないか。晩御飯は用意してあるよ」
言いながらテーブルの上の二つ重ねの寿司桶を指さした。
「うわぁ、お寿司だわ。しかも特上じゃないの」
五・六人前といった量だった。
「でもこんなに誰が食べるのよ」
わたしは苦笑した。
「おれは一人前少々だ。後は食べ
「ありがとう、お父さん。お腹ペコペコなのよ。いただくね」
「どうぞ。お吸い物も寿司屋さんのだよ」
鍋に火を掛けようとお父さんが立ちかけたので、わたしが先に席を立った。
「待って、それくらいわたしにさせて」
お父さんは微笑んだ。
「綾乃は本当にいい娘だよ。お前がいるからおれは何の不自由もないよ」
「わたしの方こそ、お父さんのお陰で何不自由ない生活を送れているわよ。いつも、ありがとね」
わたしにとってお父さんは、大切なたったひとり家族だった。
夜遅くまで仕事している父を労わるのは当然なんだ。
お寿司を食べ終えた後、
「綾乃にね、プレゼントがあるんだ」
「えっ? なに?」
いたずらな顔でお父さんがポケットから取り出したのは、折りたたみ式の携帯電話だった。
わたしにとっては大人の持ち物といった認識だったが、近ごろ携帯電話は高校生の間でも急速に普及し始めていた。
狭原高校でも1/3くらいの生徒が持っているようだが、折りたたみ式は最新機種だった。
「契約は済ませてあるからすぐに使えるよ」
「ありがとう。でも通話料は高いからなるべく使わないようにするね」
「気にするなよ。綾乃だから買ってあげたんだよ。お前だったら、必要な使い方しかしないだろうからね」
「そんなに信頼されたら余計使えなくなるよぉ」
「いや、ごめんごめん」
お父さんは頭を掻きながら笑った。
「本当、自由に使っていいんだよ。そろそろ彼氏なんかできたりするんだろ?」
「もぉ、いやだよ」
一瞬ドキッとしながらもわたしは苦笑いでかわしたが、お父さんに対しては後ろめたさがあった。
「もし彼氏が出来たら、きっとお父さんに紹介するよ。隠したりしないからね。絶対だよ」
大切な人に隠し事や嘘は付きたくなかった。
それは貴樹君に対してもである。
(わたしの気持ちをちゃんと伝えなければ)
部屋に戻ったわたしは、お父さんからもらったばかりの携帯電話を手にした。
開いた携帯電話の時刻が12時を回っていた。
(もう電話の出来る時間じゃないわ)
わたしは眠くなるまで取扱説明書を見ながら携帯電話と格闘していた。
翌日、お父さんの出社を見送り、片付け物を終えた後、貴樹君の家に電話を入れた。
もちろん固定電話からである。
電話に出たのは貴樹君のお母さんだった。
貴樹君はまだ東京から帰ってなかった。
「入院しているみたい。三日後に退院するって言ってたわ」
「えっ?」
「熱中症だって。炎天下で4キロばかり走ったらしいよ。あの子体力ないからね」
貴樹君のお母さんは他人事のように笑った。
「すみません。また電話します」
「貴樹が帰ったら電話させるわよ。それよりありがとうね。いろいろ力になってくれて」
「とんでもありません。こちらこそ貴樹君のお陰で優勝できたんですから」
(熱中症になっていたのね)
受話器を置いた後、わたしは貴樹君の熱中症の原因を探ってみた。
100メートル走があったあの日、車両事故があって一部でダイヤの混乱が起きていたのは場内放送で聞いていた。
(だとしたら…)
最寄りの東海駅ではなく、もう少し離れた駅から走って来たのではないだろうか。
(心配してくれたのかも)
予選・準決勝とも不甲斐ない走りをしていた自分を思い出し、わたしのために汗だくになって駆けてくる貴樹君の姿を想像した。
(だとしたら、わたしは嬉しい)
わたしは早く貴樹君に会いたいと願った。
しかし、インターハイ優勝者のわたしは、その後いろんな所に引っ張り出されて、貴樹君からの電話もなく、ようやく貴樹君の家に電話できたのは一週間も後だった。
「はい、堀内です」
電話の主は貴樹君だった。
「堀内君、早瀬です」
「ああ、早瀬か。インターハイ優勝おめでとう」
「ありがとう堀内君。それと応援に来てくれて本当にありがとう。堀内君のお陰で優勝出来たわ」
「早瀬の実力だよ。決勝戦のスタートは本当によかった。山本美優とほぼ同時のスタートだったな。彼女はスタートダッシュタイプだから最初は離されたけど、中盤からの早瀬の勢いは山本さんを遥かに
「実はわたしもよ。へへへ……。ところで、上菅谷駅ってどこ?」
「えっとね、笠松陸上競技場から見て、東側を走っているのが常磐線で、上菅谷駅は西側を走っている水郡線なんだよ」
「ところで堀内君。体の具合大丈夫なの?」
「ああ、聞いたのか。熱中症だなんて、ぜい弱だよな。あははは…」
貴樹君は自嘲気味に笑った。
「もしかして、その上菅谷駅からなの? 走って来たって言うのは」
「うん。まあ、そうだ」
「あのさ、堀内君」
とわたしは切り出した。
「わたしの事心配してくれた?」
しばらく反応がなかった。
「堀内君?」
「早瀬……もうおれのコーチ必要ないよな」
「え?」
突然の話題にわたしは戸惑ってしまった。
「だって、インターハイまでだって言ったし、これ以上おれが教える事はないから」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、契約更新してよね。改めてコーチお願いしたいのよ」
「もう止めにしようよ」
貴樹君は強い口調で言った。
「インターハイで優勝したんだよ、早瀬は。これからいろいろ注目が集まる中で、おれと一緒にいたら、写真週刊誌とかで変な噂が流されたりするかもしれないぞ」
「そんなの気にしないわ。わたし達何も悪いことしてないよ」
「そういう話じゃないんだ」
「堀内君…」
「学校だって、今までのように陸上部を粗末な扱いにはしないさ。設備も指導者もきっとよくなると思うよ。だから、おれはもう必要ないよ」
「違うの。違うのよ、堀内君……」
「お弁当美味しかったよ。ありがとな。二学期からは作らなくていいから」
それだけ言って一方的に電話を切った。
(ちょっと、何なのよこれ)
不安や悲しみよりも怒りの方が強かった。
確かに約束はインターハイまでだった。
でも……。
(わたしたちって、本当にそれだけの関係だったの?)
軽く手を振りわたしに背中を向ける、笠松競技場での貴樹君の姿が脳裏をよぎった。
あの時感じた寂しさが現実になろうとしているのだ。
(そんなの嫌よ)
わたしが嫌いならそれでいい。仕方のない事だ。
でも、いつか貴樹君の口をついて出た「女はズルいから」なんて枠に収められてわたしを判断しているのなら、絶対に納得出来なかった。
(こうなったら、真っ向勝負だ)
明日以降、お母さんのお墓参りの後、大会と強化合宿で夏休み最終日まで自由な時間はなかった。
(今日しかない)
インターハイの決勝戦よりも手強いかもしれないけど、わたしがここまで頑張ってきたのは、貴樹君に認められたかったからなんだ。
わたしはお父さんからもらった携帯電話を手にして家を飛び出した。
貴樹君の家の前で自転車を止めると携帯電話を掛けた。
「はい、堀内です」
貴樹君の声だった。
「早瀬です」
「あ、早瀬か」
少しトーンが下がったが、今はどうでもいい。
「今,ひとり?」
「家にか?」
「そうよ」
「ああ、ひとりだけど……」
「じゃあ入るね」
わたしは家族不在を確認すると玄関のドアを開いた。
そこに受話器を持ったまま目を丸くする貴樹君の姿があった。
「えっ、早瀬。携帯電話なのか?」
「そんな事どうでもいいよ。それより何なのよ。さっきの電話」
わたしは出来るだけ言葉和らげに、それでいて強気で行くつもりだった。
「確かに期限は決めていたけど、インターハイが終わったら、国体があるのよ。お願い協力して」
「だめだ。インターハイまでだと約束しただろ?」
「そこをなんとかお願い」
「もうやめてくれよ。電話でも言ったけど、早瀬にはきっといいコーチを付けてくれるはずだ。その方が早瀬にとってもいいはずだ」
「わたしは堀内君がいいの。堀内君がいたから、インターハイで優勝できたのよ」
「それでも、もう終わりにしたいんだよ」
そんな言い方されるとわたしは
「どうして堀内君はそんなに
「ああ…そうだ」
飽くまで否定的な貴樹君にわたしも感情的になった。
「そんなにわたしが嫌いなの!」
「そんなわけ……ないだろ…」
貴樹君は小さく首を横に振って、目を逸らした。
「だったらなんでわたしを避けるのよ。わたし何か気に
「そんなんじゃ…ないんだ」
「じゃあ何よ! 言ってくれないと分かんないよ」
貴樹君は「チッ」と舌打ちした後、険しい顔を向けた。
「早瀬こそ、何でおれに
「何勝手な事言ってるのよ。わたしはね―」
「女はみんな同じだ! ズルいんだよ! だから嫌なんだよ。もう、あんな思いはしたくない! もう二度と傷つきたくないんだよ!!」
最後は悲鳴のような声だった。
きっと佐藤さんとの間にあった事を言っているんだ。
(でも…)
「わたしは違う。わたしはずっとあなただけを見てきた」
「もう帰ってくれ……! これ以上おれの心をかき乱さないでくれ」
わたしは俯いたまま貴樹君のTシャツの裾をつまんだ。
「何でわたしの言葉を聞いてくれないの? そんなにわたしが信じられないんだ……わたしが、わたしが堀内君を好きだという事を、どんな風に話せば信じてくれるの?」
貴樹君は大きく目を見開いた。
「100メートル走なんかどうでもよかった。ただ、堀内君の傍にいたかっただけなのよ。だってわたし、堀内君が好きなの。初めてスタブロしてくれた時から、ずっとずっと、あなたが好きだったのよ!!」
あざとい真似はしたくなかった。
わたしはどうやら涙腺が
ポロポロと
「わたしが嫌いならはっきりそう言ってよ! もういいよ、バカ!」
わたしは勢いに任せて貴樹君の家を飛び出した。
(こんなはずじゃなかった)
後悔先に立たず。
振り上げた
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