第7話 綾乃への思い めぐみのトラウマ
四週目のスタートラインを超えた時、ぼくの視界に綾乃はいなかった。
振り返ると、直線上に迫ってくる綾乃がいた。
(60メートル…いや、50メートル近くまで接近しているのか)
ぼくのペースが遅いのか綾乃が速すぎるのか分からなかったし、そんなこと考えている余裕はなかった。
(おれにだって意地がある)
綾乃が捨て身の走りで来ているのが分かった。
(焦るな)
勝負はラスト半周だ。
とはいえ、このペースすらぼくには苦しかった。
(ラストスパークの体力、残っているだろうか)
それでもこのペースは譲れない。
綾乃には勝たなくてはいけないのだから。
絶対に。
*
綾乃を駅まで見送って帰ると、ぼく宛に現金書留が来ていた。
送り主は堀内春樹だった。
(今さら何の用だ)
封を切ると東京までの往復の新幹線の特急券と乗車券。それと一万円札が三枚入っていた。
添えられていた手紙には、短いあいさつ文に今住んでいる父の住所と、最後に『夏休み中に一度来てほしい』と記されてあった。
(東京か……茨城県はそんなに遠くない)
まさにタイムリーだった。
「行って来たら?」
郵便局員から直接書留を受け取った母がそう言った。
その日は週一日しかない母の休日だった。
「でも」
「母さんは仕事があるから無理よ。それに貴樹にって書いてあるでしょ? 何か話したいことがあるんだと思うわ。心当たりある?」
心当たりと言われて、ぼくは「ああ、あれか」と頷いた。
「何なの?」
ぼくは綾乃がした事を母に話した。
それには母も合点顔だった。
「どうりで最近あの人の本が話題になっているわけね。そういうカラクリだったの」
母は何度もうなずいた後ニヤリとした。
「ところで、その娘はなに? 彼女?」
「そんなんじやないよ」
まったく母親に話す話じゃない。
「あっ、知ってるよその人」
と横から三つ年下の弟・
「おれ二回会った事があるよ。家で料理作ってくれてたよ。兄ちゃんその子に料理習っているんだぜ」
「直樹! 余計なことをペラペラと」
ぼくが手を伸ばすと直樹は素早く身をかわした。
「それで最近料理作るようになったのね。ほんと助かるわ。一度母さんにも会わせてよ。ねぇ、どんな娘なの? 美人?」
「めちゃ美人だよ。兄ちゃんにはもったいないよ」
「てめぇ、こら、直樹!」
ぼくが一歩踏み出そうとすると、直樹はスリッパに足を突っ込んで玄関を飛び出していった。
「まったく、クソガキめ」
直樹の去った後を、忌々しく思いながら睨めつけているぼくの頭を、母はポンと軽く叩いた。
「よかったよ。出会いがあったのね。母さん少し安心したわ」
ぼくは母のその言葉にハッとした。
ぼくとめぐみの間に何があったかまでは知らないけど、母はめぐみを知っている。
時々家に来ていたからだ。
だからこの一年めぐみが来ていないのも承知していた。
何も話していないけど、何か感じるものはあったのだろう。
(もっとも、あからさまに成績落としていたんだからな。気づかれるよな)
母も秘かに心配していた事を初めて知った。
翌日、ぼくはテレビでインターハイの開会式を見た後、東京へ向かった。
どうせ行くのなら父に会うだけではつまらない。
(親父の凡打をタイムリーヒットにするのも息子の役目だからな)
笠松陸上競技場まで便乗させてもらおうと思った。
新幹線に乗りながらも、綾乃を考えずにはいられなかった。
綾乃を見送った時、たくさんの見送り人の中に、多数の高校生男子が混じっていたのを思い返した。
テレビカメラもあったし、雑誌記者らしき人もいて写真を撮っていた。
12秒を切った一年生で、背が高く美人で、それにスリムなモデル体型の女子高生だ。
話題には事欠かない。
それだけ注目が集まっていた。
確かに今、綾乃はぼくに何らかの興味を示している。
好意を持ってくれていると言っていいかもしれない。
でも、これから先は分からない。
むしろ、これ先出会うであろう、
(もう、泣くのはごめんだ)
ぼくの心に入り込んだ綾乃の存在は決して小さくない。
だからこそ、潮時だと思った。
(インターハイを見届けたら終わりにしよう)
窓の外に進学塾の看板が立ち並ぶビル街が見えた時、アナウンスが名古屋の到着を告げた。
東京駅に着いたのは六時過ぎだった。
晴れているにも関わらず薄暗かった。
「貴樹かい?」
声を掛けられ振り向くと、父・春樹がいた。
老けたと言うべきなのか、少しやつれて見えた。
五年前は見上げていた父の顔が、今はぼくの目線より少し低くなっていた。
ぼくは何から話していいのか分からなかった。
「東京は暮れるのが早いんだね」
どうでもいい事を口走った。
「そうだよ。大阪よりも東寄りだからね」
「そうなんだ」
父の言葉に乗じたが、それ以上の会話は出来なかった。
「
「172センチだよ。まあ、平均くらいかな」
父は170センチなかったと記憶している。
「母さんとは、連絡しあっていたの? ずっと」
ぼくは気になっていた事を訪ねた。
父は小さく頷いた。
「父さんの上京を許可する条件が住所と電話番号を教える事だったからね」
「じゃあ、おれたちが堀内の姓を名乗っているのも知っていたわけだ」
「すまないな。苦労かけて」
「いや、別にいいよ」
いいわけではないが、取り敢えずそう言っておくしかなかったし、別に今さら責めるつもりはなかった。
「本売れているみたいだね」
「ああ、貴樹の彼女のおかげでな」
「彼女じゃないさ」
(早瀬の事も連絡済みなのか…)
自分だけ置いてきぼりを食わされた不快感は否めなかった。
父は東京駅近くのビジネスホテルを用意してくれた。
ホテルのレストランに父はぼくを誘った。
「父さん、大丈夫なのか」
「お金の心配かい?」
「だって、印税なんかまだ入ってないだろ?」
「金一封って言ったらいいのかな? 前金のようなものをもらったんだよ。公務員時代のボーナスの半分くらいだけどね」
「あのさ。変なこと聞くけど、何を副業にしているの?」
「ああ、それね。確かに売れない小説では食えてないからね。父さん市役所勤めだったろ? だから税理士や行政書士の資格もあってね、なんとかやっていってるさ。それと小説の下読みもしているし」
「下読みって?」
「公募で集めた小説を読んで一次審査通過作品を決める仕事だよ。下読み人はおれのような新人の売れてない作家で、ひとり二十作品くらい担当して、その中から二つか三つ、一次審査通過作品を推薦するんだ」
「責任重大だね」
「そうなんだよ。公募に出す人の切実な思いは身に染みているからね。表面的には推薦って形で提出するが、実は決定って事だからな。おろそかに評価はできないさ」
ここまでスムーズな会話が成立しているかのようだった。
だがぼくはそわそわと落ち着かない父の仕草が気になっていた。
久しぶりの息子との対面に緊張しているからなのか。
(いや、違う)
何か大切な話があるのだ。
それは今のぼくたちの生活を変えてしまうような事ではないのか。
「貴樹」
父の口調が変わった。
ぼくは改めて父を見つめた。
「今おれの小説が十万部を超えて、次作の話が来ている。まあ、それは不安定なものなんだが、さっき話したように、おれは税理士と行政書士の資格があって、結構重宝がられているんだ」
父はそこで少し間合いを取った。
「おれが小説を書いている事も承知の上で、税理士として働いてほしいと誘われているんだ。二足の
「家族で東京に来てくれというのか?」
「そうだ」
「母さんたちには?」
「話している。母さんも直樹もOKだ」
「そうか」
ぼくは溜息をついた。
「すでに四面楚歌になっていたわけだ」
「すまん。そんなつもりはなかったんだが、なんかお前が一番手こずりそうで、後回しになってしまったんだよ」
ぼくは後回しにされたのを怒るつもりはなかった。
それよりも真っ先に頭に浮かんだのは、綾乃だった。
(マジであいつと離れる事になりそうだな)
胸の中を風が通り抜ける、そんな感覚の中にいた。
ぼくはまどろみの中にいた。
部室のドアを開けると、高柳に抱きしめられるめぐみがいた。
めぐみは笑っている。
ぼくを見て可笑しそうに笑っていた。
(やめろ)
めぐみの目がぼくを見下していた。
からかうように笑っている。
(やめてくれ)
ぼくは顔を両手で覆った。
そして指の
めぐみではなく綾乃に代わっていた。
(なんで…?)
綾乃が笑っている。
高柳の腕の中でぼくを
(おまえもなのか! おまえもこいつがいいのか!)
「ちくしょう!」
自分の声に驚いてぼくは目が覚めた。
見慣れない部屋を見渡し、ホテルのベッドで眠っていた自分を自覚した。
朝の光がカーテンの隙間からこぼれていた。
(結構日が高いな……!)
と思った瞬間ぼくは「あっ!」と叫んでベッドから跳ね上がった。
枕もとのデジタル時計が10時03分を示していたのだ。
(しまった)
ぼくはホテルのガウンを脱ぎ捨てて着替えを探した。
そのついでに見つけたテレビのリモコンを手にすると、取り敢えずスイッチを入れた。
ちょうど100メートル走の予選が始まっていた。
(早瀬は終わったかな?)
九組中二組目が終わったところだった。
次に始まる三組の中に綾乃はいなかった。
着替えを終え荷物を手にしてテレビを切ろうとした時、四組目の中に綾乃を見つけて、ぼくはベッドに座った。
ホームストレートの第一レーンに立っていた。
選手紹介された時、手を上げる綾乃がアップで映った。
緊張した面持ちの綾乃を、場違いにもぼくは今までにないくらいきれいだと感じた。
第五レーンには優勝候補の山本美優がいた。
全員がクラウチングスタイルで構えた。
パーン
号砲とともに八名のアスリートが飛び出した。
先に出たのは先行型の山本美優だ。
綾乃は相変わらず出遅れ気味だった。
四位で50メートルラインを通過すると、二人抜いてトップの山本美優に迫りながらも二位でフィニッシュした。
ともあれ準決勝に進む事が出来た。
山本は11秒81。
綾乃は11秒98だった。
(少し硬いな)
とにかく急がないといけなかった。
東京駅から特急ひたちに乗り水戸で常磐線に乗り換えて、笠松陸上競技場のある東海駅に行かなくてはならなかった。
東京駅では11時20分発の特急ひたちに乗る事が出来た。
これなら13時頃には東海駅に着く事が出来る。
(14時スタートの準決勝には十分間に合う)
徒歩なら30分かかるがタクシーなら10分だと、下調べしてくれていた父が、昨夜話してくれた。
特急ひたちのリクライニングシートにもたれかかりながら、ぼくは昨日のホテルのレストランでの会話を思い返していた。
「二年後に貴樹と直樹が高校・中学を卒業するのを機会にこちらに呼び寄せたいと考えているんだ。今はまだ売れ始めたばかりで、安定しているとはとても言えない。二年後に、もし作家一本で食べて行ける状態なら、父さんが大阪に帰るが、まあ恐らくは二足の
「そんな自信のない事言うなよ」
「泣き言は言いたくないが、ほぼそれが現実になるだろうな」
「小説をあきらめる事はないの?」
「それをあきらめられるなら、お前たちを残して東京なんかに来ないよ」
「そうだよな」
「すまんな」
「別にいいよ」
今さら謝るなよ、とぼくは思ったが口には出さなかった。
「返事は急がないから。よく考えて置いてくれないか」
「母さんや直樹は、いいって言ってるんだろ?」
「そうだ」
「なら、いいんじゃないの」
「いや、そうい訳にもいかないだろ……お前の気持ちもあるからな。だって今、おまえには好きな娘がいるんだろ? 高校卒業しても大阪の大学でもいいんだよ」
ぼくは苦笑を浮かべた。
「えらく物分かりがいいんだね。普通親と言うものは子供の事情に気を回さないものだと思うけど」
「皮肉を言うなよ」
父は
「父親らしい事していない親に、息子の恋路を引き裂く権利なんてないからな」
恋路とか好きな娘とか言われ、付き合っているわけでもないのにと、反論したい気持ちもあったが、今はそんなのどうでもよかった。
「おれは別に東京でもいいよ。狭原に固執する理由なんてないんだから」
「父さんが悪いんだろうな」
父は軽く唇を噛んだ。
「お前変わってしまったね。物言いとか、なんか投げやりな感じで……。以前のお前はどこまでも明るく、傍にいるだけでこちらまで楽しい気分になれたのに……。今のお前見ていると、辛いな」
「……やめてくれないか」
ぼくは吐き出すように言った。
「父さんがどうとか、そんなんじゃないんだ。おれ自身の問題なんだよ。おれもいつまでも子供じゃないんだ。子供の笑顔なんていつまでも出来ないんだよ」
「そうだな。人の心は変わるもんだからな」
ちょうど注文していたコース料理が運ばれてきた。
それを機に二人の会話は途絶えてしまった。
13時少し前に水戸に到着した。
ここからは常磐線に乗り換え普通列車で東海駅までは三駅。15分ほどだ。
ところが常磐線が運転停止していた。
構内放送によると車両トラブルのようだった。
(ちょっと高くつくがここからはタクシーにしよう)
駅の改札を通りコンコースを抜けて通りに出ると、長蛇の列が出来ていた。
列の先頭はタクシー乗り場だった。
ぼくと同年代の男女が大勢いた。彼らも笠松陸上競技場を目指しているのだろうか。
(何か別の方法を考えないと)
時間には少し余裕があるからバスに切り替えようとも考えたが、そこも長い行列が出来ていた。
(歩くか。でも何キロあるだろう)
構内の周辺地図に笠松陸上競技場が載っていたからそう遠くないのは分かったが、直線距離で10キロ以上はあった。
空を見上げると、真夏の太陽がサンサンと輝いている。
(きついなぁ)
短い距離を走るのは自信あるが、持久力となると別物だった。
「なあ、水郡線で上菅谷駅にいかないか」
と誰かの声が耳に入った。
ジャージを着た男子が連れのジャージ姿の女子にそう告げていた。
「上菅谷駅だと笠松競技場まで4キロほどだろ。ここから歩くよりも三倍くらい楽できるぜ」
「4キロもぉ、やだよぉ。そんなに歩いたら本番でへばっちゃうよ」
どうやら出場選手かあるいは応援団員らしい。
彼女にはいい情報ではなかったらしいが、ぼくには朗報だった。
ぼくは駅の路線図と駅員の説明を聞いて、それがベストの選択だと確認して行動に移った。
混雑の中、ぼくは何とか水郡線の上菅谷駅に到着する事が出来た。
ここでもタクシー乗り場には長い列が出来ていた。
14時になろうとしていた。
(準決勝が始まる時間だ)
駅構内のテレビにその様子が映し出されていた。
決勝の始まる時間は16時。
歩いて4キロの距離は1時間もあれば、ヘタレのぼくでもたどり着く事は出来る。
準決勝を見てからでも大丈夫と判断した。
第一組に綾乃がいた。
第三レーンの綾乃の隣り、第四レーンに再び山本美優の姿があった。
クラウチングスタイルに付いた。
号砲とともに先に出たのは、やはり山本美優だった。
綾乃は7位スタートだった。
上位に食い込むほど綾乃のスタートの悪さは
50メートルラインを超えたが5位。
(早瀬! やばいぞこれ)
80メートルラインを超えたところで二人を抜いたが、フィニッシュは2着の選手とほぼ互角だった。
トップは山本美優で11:77。
そして写真判定の結果、バックスタンドの電光掲示板が綾乃の3位を表示した。
綾乃のタイムは2着に遅れる事1/100秒差の11:92だった。
決勝出場確定は2着までだった。
(早瀬……)
中腰で膝に手を置いた綾乃の後ろ姿が痛々しかった。
とにかく競技場に急ごうとぼくは思った。
終わった後で何が出来るか分からないが、綾乃に声を掛けずにはいられなかった。
上菅谷駅を出たぼくは駆け足になっていた。
走る必要はなかった。ゆっくり歩いても問題ないんだ。
それでも、一刻も早く綾乃の元へ駆け寄って行きたかった。
(走れメロスの気分って、こんな感じなんだろうな)
意味のない事を考えてしまった。
走ったかいあって、三時前には笠松陸上競技場に到着した。
メインスタンドに入ると、中距離走が始まったばかりだった。
黒木先輩が出場できなかった3000メートル予選だった。
ぼくはこの後どこを目指せばいいのか分からなかったし、久しぶりに走ったせいか少しめまいがあった。
ぼくは日陰に入り、空いているベンチに腰を下ろした。
虚ろな気分で、何気なく目をやったバックスタンドの電光掲示板に、次の種目100メートル決勝の出場メンバー八人の名前が掲示されていた。
(あった?!)
八人の中に早瀬綾乃の名前を見つけて、ぼくは思わず立ち上がり目をこすった。
疑問はすぐに解けた。
準決勝三組の一位・二位の六名とタイムの先行順で二名選ばれるのだった。
綾乃がその二名に選出されたのだ。
ぼくは100メートル決勝が行われるまで日陰で体を休めることにした。
体調は回復とはいかなかった。100メートル決勝のファンファーレが鳴ったので、体を起こしたものの立ち
それでも最前列を目指して、先客に文句を言われながらも、ぼくは割り込んだ。
ダッグアウトから出てくる綾乃をぼくは見つけた。
「綾乃!」
苗字ではなく名前が口をついて出た時、ぼく自身が驚いていた。
それは綾乃も同じだったに違いない。
第一レーンのスタートラインに立つ綾乃は、口元を両手で覆い、目を大きく見開いてぼくを見上げていた。
ぼくが大きく頷くと、綾乃も深く頷いた。
(大丈夫だ。やれる)
実際は
綾乃が笑みを浮かべた。
そして号砲とともに先に出たのは、ここまで負けなしの山本美優だった。
綾乃も悪くないスタートだった。50メートルラインを三位で通過するとすぐさま二位に躍り出た。
そして80メートルを超えた辺りで山本美優と肩を並べた。
ここからの綾乃は無敵だった。
山本美優を1メートル以上離してフィニッシュした綾乃は、満面の笑みを浮かべてメインスタンドに手を振った。
「ありがとう!」
綾乃は他の誰かではなく、しっかりぼくを見ていた。
ぼくが照れながら小さく手を振ると、綾乃はその三倍くらい大きく手を振った。
綾乃のタイムとそれに付随する文字が電光掲示板に表示されると、場内に更なるどよめきが起こった。
11:61。
インターハイ新記録。
高校女子新記録。
湧き上がる歓声の中でぼくは夢の中をさ迷っている気分だった。
(おめでとう早瀬)
表彰台の真ん中に上る綾乃の姿を含め、一連の表彰行事を見届けた後、ぼくはグラウンドに背中を向けた。
メインスタンドの階段を下りたところで、ぼくを見つけた綾乃が200メートルほど先から駆けてきた。
ぼくも駆けだそうとした時、周囲から報道陣やら観客とも野次馬ともつかない連中が綾乃を取り囲んだ。
綾乃は笑顔を向けたまま彼らとやり取りしながらも、ぼくに意識を向けていた。
(気にしなくていいよ)
ぼくは笑みを浮かべて首を横に振った。
(もうおれの傍に
この瞬間綾乃は日本陸上界の期待の新鋭となったのだ。
ぼくが傍にいる事は彼女にとって
ぼくは肩口まで上げた手を小さく振ると綾乃に背中を向けた。
もう振り返ってはいけないのだ。
(もう泣きたくない)
そう強く願うぼくの瞳から一筋の涙がこぼれた。
(ばかやろ)
誰に対してそう思ったのか自分にも分らなかった。
ぼくは軽いめまいに襲われながら東海駅行きのバスに乗り込んだ。
バスが動き出してからぼくのめまいは更に
東海駅到着が告げられた時、バスの天井が大きく揺れたかと思うと、女の人の悲鳴が聞こえた。
「だいじょうぶですか?」
ぼくの顔を覗き込む人がいた。
どうやらぼくは横たわっているようだったが、今ひとつ状況がよく呑み込めなかった。
(何があったのですか?)
そう聞こうとしたが声を出せなかった。
持ち上げた右手が緩慢な動きしかしなかった。
バスの乗務員らしい人がぼくの体を揺すっているのが分かった。
どうやらぼくはバスの座席から倒れ落ちたようだ。
やがてぼくの意識は薄れて行った。
中学一年の春だった。
「あの、堀内君」
南中学校陸上部の部室に一人残るぼくの背後から、佐藤めぐみが小さな声で呼んだ。
めぐみは部室のドアの前で
「どうかしたの?」
聞くと、めぐみは進み出し、艶のある黒髪をなびかせてぼくの前で立ち止まった。
「どうかしたの?」
ぼくがもう一度聞くと、めぐみは意を決したように
「あなたが好きです。わたしと付き合ってください」
突然の告白だった。
めまいにも似た動揺がぼくの体を揺すった。
おとなしくてあまり喋らない、だからといって暗いわけじゃなかったが、こんな風に堂々たる告白をやってのける女子には見えなかった。
(からかってるのかな?)
中学に入学してまだ十日しか経っていなかったし、陸上部に入部して三日目だ。
めぐみに限っては今日入部してきたばかりで、クラスメイトくらいの情報しかなかった。
要するに互いの事はまだよく知らないはずなんだ。
だけど、めぐみは恥ずかしそうに顔は
差し込んだ夕映え染まるめぐみの顔と漆黒の髪が、とても魅力的できれいだと思った。
めぐみの事はまだよく知らないけど、初めての告白に舞い上がっていたのかもしれない。ぼくは小さく頷いていた。
「ありがとう」
ホッとしたみたいに肩の力を抜いためぐみは、傍にあった椅子に座り込んだ。
「大丈夫?」
ぼくが聞くとめぐみは恥ずかしそうに笑みを浮かべて頷いた。
「立っていられないの。足が震えて」
(緊張しているのか)
と思ったが言葉に出来なかった。
今言葉を
ぼくもドキドキしていたのだ。
しばらくの間ぼくたちの間に会話はなかった。
何も言わない、何も聞かない。
この二人だけの空間の中で、時々目が合い、そして笑顔を作った。
(でも嫌じゃない、この感じ)
緊張感の中にも、充足感もあった。
それでも、ぼくはまだ、付き合うという事に戸惑いを感じているのは確かだった。
不明瞭なままじゃいけないと思い、ぼくは正直な気持ちをめぐみに告げた。
「実を言うとおれはキミをよく知らないんだ。それに、付き合うってまだよく分からない。だから、
めぐみは微笑みを浮かべて頷いた。
「それでいいわ。わたしもよく分からないで口走ったから。とりあえず今は、堀内君と仲良くなれたらそれでいいの。わたしを彼女に出来ると思ったら、その時はちゃんと言ってね」
「分かったよ。よろしくね、佐藤さん」
「めぐみよ。貴樹君」
「めぐみ……」
女子を名前で呼ぶなんて小学生の低学年か幼稚園以来だった。
「はい。よろしくね、貴樹君」
口調穏やかなめぐみだが、
彼女とはまだ呼べないが、入学間もなくできたガールフレンドに、ぼくは有頂天だった。
めぐみはマネージャーを希望した。
めぐみは結構足が速かったので、ぼくとして100メートルをやらないかと推したのだが、
「貴樹君の力になりたいの」
そう言って譲らなかった。
マネージャーは各学年に一人ずついて、基本的には同学年の世話をするのだが、三学年合わせて十人しかいない選手の補佐に、学年の垣根は必要なかった。
めぐみは一番下の後輩というのもあって、下働きのような事を、
「無理してないか?」
ぼくは気になって声を掛けるが、めぐみは笑って首を横に振ると言った。
「その代わり、貴樹君のスタブロ役は誰にも渡さないわ」
クラウチングスタートに必要なスタブロがなかった陸上部では、マネージャーや下級生がスタブロ役をする
ぼくは脚力が強いから、クラウチングスタートの衝撃に負けなかったので、上級生たちはぼくを指名する事が多かった。
だけど、南河内地区予選大会の選抜メンバーを決めるとき、50メートル走でぼくが6.3秒を叩き出してから、ほくも専属のスタブロ役を持てる身分になったのだ。
とは言え、先輩たちのスタブロ役も指名があれば応えるようにしていた。
先輩たちとの関係も良好だった。
一年生のぼくが100メートルで選抜されても、
めぐみのスタブロ役は、脚力の差もあってか、なかなかタイミングが合わなかったが、時間をかけた練習の甲斐あって、大会前には成果を出せるようになっていた。
マネージャーだからその必要はないのだけど、めぐみはぼくのスタブロ役のために、空いた時間は筋トレとスタートダッシュの練習をしていたのだ。
(おれのために一生懸命頑張ってくれているんだ)
ぼくは胸が熱くなる思いで校庭を走るめぐみを見つめた。
めぐみは教室でも部活でも、
しかし、二人だけの時は無口に見える印象とは程遠いくらいお喋りになるのだ。
(人前でベタベタするのが恥ずかしいタイプなんだな)
そんな内気なところもぼくは好きになっていた。
みんながいる時はいつもぼくより一歩下がってついてくる、奥ゆかしい所も好きだった。
漆黒の髪も、
告白から二週間しか経っていないというのに、ぼくの心の中はめぐみで一杯になっていた。
ぼくとめぐみが付き合っている事はきっと誰も知らないとだろう。
シークレットラブってやつなのか。
(それはそれで面白いや)
いつか大衆の面前で交際宣言でもやってやろうかな、と思った。
ぼくの中学生活は満ち足りたものになっていた。
初めての大会が万博記念競技場で行われた。
大会直前の緊迫した空気の中、メインスタンドで軽くストレッチをしていると、
「堀内、こっちに来てくれるか」
葛城先生の呼ぶ声がした。
「なにか用ですか? 葛城先生」
葛城先生の傍に駆け寄ると、見知らぬ栗色の髪の女子がいた。
先輩だろうか、長身でいかにも走れそうな感じの女子は、とても困った顔をしていた。
葛城先生の話で、狭原市の東中学の彼女はスタブロ未経験なのでどんな走り方をしていいのか分からないようだった。
葛城先生に指示され、芝生広場でぼくは彼女のスタブロ役をするよう言われた。
(女子相手のスタブロ役は初めてだな)
そう思いながら、互いに靴底を合わせて、葛城先生の合図で彼女のスタートと同時にぼくは力を入れた。
その瞬間、言いようのない一体感をぼくは感じてしまった。
彼女の蹴り出すタイミングや足裏に伝わる衝撃の感触は、スタブロ役してきた中で、誰よりも最高の手応えだった。
「上手い! バッチリのタイミングだ!」
走りゆく彼女の背中を見ながら、葛城先生が珍しく興奮気味だった。
「本当に初めてなのか? ベターハーフと言ったらいいのかな。この娘と堀内のスタブロの相性は最高だよ」
「先生。意味深な言い回しは止めてくださいよ」
ぼくはそう
「あのお、もう少しお付き合い願いますか?」
30メートルほど走って戻ってきた彼女が、ぼくと葛城先生を見て頭を下げた。
「いいですよ」
とぼくが答えて再び彼女と足裏を合わせた。
二度目のスタートも、さっきと同じ感触が足裏から伝わった。
その後、何度やっても彼女とのタイミングはベストだった。
(この感覚は間違いない、ベストマッチしている)
七・八回ほど繰り返した後、100メートル男子の予選を告げる場内放送があった。
ぼくは名も知らぬ彼女を気にしながらも、笑顔でその場を去った。
南河内地区予選100メートルは予選・準決勝・決勝とも危なげなく勝ち進んで、大阪大会への切符を手に入れた。
だが、めぐみの様子が少しおかしかった。
人前ではいつもおとなしく言葉も少ないので、一見いつも通りに見えるが、時折向けるぼくへの視線に違和感があった。
「どうかしたの?」
部員たちと離れた所でぼくはめぐみに尋ねた。
「あの人はダメよ」
「えっ?」
「さっきスタブロ役してあげたでしょ? あの人とは関わらないで欲しいの」
めぐみの言わんとする意味が分からなかった。
だけど、それを訪ね返すのも許さない、そんな強い意志も伝わってきた。
(もしかして、女子相手のスタブロ役に嫉妬したのかな)
めぐみのスタブロは、最近ようやくぼくの足に馴染み始めていた。
かなり努力していたのも知っている。
それを誰とも知れない女子と最初の一発でベストタイミングを決めてしまったのだ。
めぐみなりに思うところはあったのだろう。
「分かったよ」
ぼくは出来るだけ明るい笑顔をめぐみに向けた。
「今日おれはたまたまいいタイミングでスタブロ役をした。これからも誰かのスタブロ役をするだろうけど、それだけだよ。おれのスタブロはめぐみしかいないから」
めぐみの顔が一瞬で華やいだ。
「でも今日の人はやっぱり嫌よ」
「きっとビギナーズラックみたいなものだよ。でも、めぐみが嫌がるのなら次に会う時は、絶対スタブロ役はしないよ。約束するよ」
「うん。分かったわ。変な話してゴメンね」
そう言って恥ずかしそうに顔を赤らめるめぐみを、抱きしめたくなるくらい可愛いと感じた。
それを意識したわけじゃないが、栗色の髪の彼女はぼくの記憶から消えていた。
全国大会に出場出来たのは狭原南中学でぼくだけだった。
めぐみは応援団の一人として参加は許されたものの、スタジアム内に出入りする事は出来なかった。
ぼくは決勝まで進んだが三位に終わった。
「いい走りだったわ」
スタジアムの外で掛けてもらっためぐみの言葉が何よりの労いだった。
トップとの差0.2秒という僅少差の敗北なので悔しさはかなりあった。
「おれも満足しているよ。写真判定にもつれ込んだ、見ごたえあるいいレースだった」
葛城先生も
「フィニッシュ手前でかわされたわけだから、スタミナをつけないとだめですね」
ぼくの言葉に葛城先生は首を横に振った。
「確かに、後半のスタミナも鍛える必要はあるが、一番必要なのは堀内が得意とするスタートダッシュを磨き上げる事だ。苦手な部分を鍛えるのは負荷が強すぎで壊れる可能性が高いが、得意な部分は無理が利くものだ。短距離選手がアスリートでいられるのは30歳が限界だ。それから先のより長い人生を考えた上で、潰れないよう体を鍛えるのがおれの考え方だ」
(自分の事を言っているんだ)
葛城先生はまだ二十代だった。
だけど、歩いているといきなりといった形で顔をしかめて膝を押さえる時がある。
しばらくすると収まるのだが、ぼくが知るだけで五回ほどそんな場面に出くわした。
元全日本三位のスプリンターだった葛城先生は身を以て怪我の怖さを知っているのだ。
秋風が吹く頃になると、めぐみのスタブロはかなりしっくり来るようになった。
三都神社前の3%の勾配でのスタートダッシュの練習は、めぐみなしには成り立たなくなっていた。
学校での練習が早く終わると、ぼくたちはここへ来ることが多くなっていた。
中学生はまだまだ行動範囲が狭いものだ。
そんな中でこの神社に来るのはぼくたち二人の
「貴樹君にめぐみちゃん。お芋焼いたから食べていきや」
すっかり顔なじみになった神社近くの旧家に一人暮らしの松原のおばあちゃんが、アツアツと言いながら、アルミホイルに包んだ焼き芋を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「いつもすみません」
ぼくとめぐみは口々のおばあちゃんにお礼を告げて受け取った。
「気にせんといてな。あんたらウチのひ孫みたいなもんやからなぁ」
そんな感じでおばあちゃんはいつも話しかけてくる。
ここでの練習の楽しみのひとつでもあった。
めぐみの家は狭原市の中でも高級住宅街の一角、狭原ニュータウンにあった。
南中学校から自宅が遠いぼくは自転車通学が許されていたが、めぐみは徒歩通学圏内だった。
シークレットラブのぼくたちは冬の暗がりが好きだった。
夜陰に乗じてめぐみを自転車の後ろに乗せて帰宅できるからだ。
南中学校は長く続く
行きは
「貴樹君、スピード出し過ぎ。怖いよ」
「めぐみが重いからスピードに拍車がかかるんだよ」
「まあ、ひどい。いじわる!」
めぐみがぼくの脇腹をつねった。
「わあ、痛い。ごめん、ごめん」
そんな冗談を言い合いながら、ぼくたちは自転車の上で笑った。
大会や記録会の
めぐみはマネージャーだから大会や記録会にはいつも一緒だが、時々気になる反応を見せる事があった。
誰か気まずい人と出くわせたように、顔を
「どうかしたの?」
と聞くがめぐみは首を横に振るだけだった。
それは陸上競技場に限ってそんな反応を示したが、それ以外の所では至って普通だったので、深く追及はしなかった。
二年に進級して、ぼくとめぐみは違うクラスになったが、それ以外は順調だった。
その頃からぼくは負ける事がなくなった。
記録会でも、地区大会、大阪大会、近畿大会においても全体トップの成績で、全国大会への出場を決めていた。
「めぐみ、ありがとう。お前のお陰でおれはここまで来れたんだよ」
「わたしが力になれたのなら、それで嬉しいわ」
めぐみも喜んでくれていた。
そのはずなのだ……。
でも、どこか浮かない感じだった。
「めぐみ、大丈夫? なんか変だよ」
「何でもないわ」
「心配があるなら、おれに話してくれよな」
「うん。ありがとう」
そう答えるだけだった。
競技スタジアム以外の所ではいつものめぐみだった筈なのに、全国大会が決まってからは元気がなくなっていた。
ぼくが全国大会に向かうその日、東中学校でも全国大会出場の
「東中も100メートルで女子が出るらしいぜ」
「メチャ可愛い娘だよ」
「ああ知ってる。モデル体型の長身でボン・キュ・ボンの女子だろ?」
男子の間でそんな会話が飛び交っていた。
「東中からも出るんだね、100メートル」
「知らなかったの? 近畿大会にも来ていたでしょ?」
「ああ、あの栗色の髪の娘か」
「早瀬綾乃さんよ。知ってるでしょ?」
「いや、初めて聞く名だけど」
「そうなの」
めぐみは何故か嬉しそうな笑みを浮かべた。
電車の発車のベルが鳴った。
「じゃあ、競技場で待ってるから」
「うん。待ってて」
ドアが閉まり電車が動き出した。
ぼくは怖いくらい順調だった。
全国大会も予選から決勝まですべて一位のタイムで完全優勝を果たした。
嬉しかったのは、優勝した後、先輩から後輩まで全ての部員がぼくを囲んで胴上げしてくれた事だ。
その中で最も嬉しかったのは、めぐみが傍にいてくれた事だ。
涙に濡れるめぐみの目を見た時、ぼくは人前はばからず抱きしめてやりたいと思ったが、手を握るのが精一杯だった。
奥手なめぐみを困らせたくなかったからだ。
ぼくにとってめぐみは誰よりも一番大切な人になっていた。
全国大会が終わるとぼくの環境は一変した。
女子からのラブレターや告白が日課のようになっていたが、もちろんぼくはすべて断っていた。
陸上においても出場する大会の数と規模も大きくなった。
中学のアジア大会とか、世界大会にも呼ばれ、断ろうとしたのだが、周囲がそれを許さなかった。
ぼくは満ち足りた時間を過ごしていたのかもしれない。
でも、その中で
海外から帰るとぼくは真っ先にめぐみの家を訪ねた。
買ってきたお土産を渡した後、時間の許す限り遠征先での出来事や、その国の文化や遺産について、たくさん喋った。
めぐみはぼくの話を目を輝かせて聞いていた。
「いつか、めぐみと一緒に行きたいんだ」
「連れていってくれる?」
「大人になったら、絶対に連れて行くよ」
「約束よ」
ぼくたちの関係は最高だった。
また冬が来た。
寒いのは嫌いなぼくだけど、めぐみと出会ってからは暮れるのが早い冬の夕方が大好きになっていた。
背中にめぐみの温もりが伝わる自転車の二人乗りが出来るからだ。
それに最近、めぐみが傍に来るととてもいい匂いがするようになっていた。
「めぐみ、香水つけてる?」
めぐみは不思議な顔して首を横に振った。
「どうして?」
逆に尋ねられたが、ぼくは正直に話すのが恥ずかしくて
「ごめん。何でもないよ」
と答えてしまった。
めぐみの肌からいい匂いがするなんて言ったら、きっとイヤらしいヤツだと思われたに違いなかった。
クリスマスに初めて夜の街へ飛び出した。
「イルミネーションを見たいわ」
何気なく告げためぐみの言葉にぼくが乗っかったのだ。
イルミネーションがどこで催されているのか全く情報を持たないまま、ぼくたちは大阪南の通りをあちこち捜し歩いた。
結局どれがイルミネーションなのか分からないまま、一時間ほど捜し歩いて見つけた、ライトアップされたクリスマスツリーの下で立ち止まった。
「これでいいわ」
めぐみが笑った。
「そうだね」
ぼくも頷いた。
ぼくたちは最初からお奨めスポットのイルミネーションが見たかったわけではなかった。
今こうして、手を
めぐみもきっとそうに違いない。
「あのさ、めぐみ」
「なあに」
「おれは今忙しくて、中々めぐみと二人きりになる機会がなくて…」
「うん」
「めぐみは何か不安を抱えているようだけど…」
「うん」
「おれ、めぐみだけだから」
「うん」
「おれの事、信じてほしい」
「うん」
「高校も同じところに行きたい」
「うん」
「その先も、ずっと同じ場所にいたいんだ」
めぐみの返事がなかった。
覗き込むと、めぐみは瞳に涙をためていた。
「心配かけてゴメン」
ぼくが強く手を握ると、めぐみも強く握り返してきた。
映画とかドラマではきっと、キスで愛情表現をする場面なのかもしれない。
でもぼくたちにはそんなのまだ必要ないと思った。
ぼくたちの心は誰よりも深くつながっていた。
これから先の未来にはずっとめぐみがいる、そう信じて疑わなかった。
三学期に入るとぼくとめぐみは受験モードに入った。
周りはまだ浮かれた気分だったが、ぼくたちが目指したのは最難関の国立教育大付属高校だった。
「わたしの実力では難しいかもしれないけど、トライしてみるわ」
めぐみは学力優秀だったが、教育大付属高校を受けるとなるとC判定だった。
ぼくは現段階でB判定で可能性は高かった。
「めぐみが目指したいところでいいよ」
暗に受験校のランクを下げる提案をしたが、めぐみは
「貴樹君がわたしに合わせちゃいけないわ。わたしが頑張るから。だからわたしの力になってくれる?」
「もちろんだよ。めぐみと同じ高校に行きたいからね」
ぼくは相変わらず陸上関係で多忙だったが、時間があればめぐみを自宅に招いて勉強をしたし、めぐみの家を訪れる時もあった。
その甲斐あって、三年に進級した最初の模擬試験で、ぼくたちはともにB判定の結果となった。
「この調子で努力していればきっと大丈夫だよ」
「うん。そんな気がしてきたわ」
好調なのは学業だけではなかった。
三年になって最初の記録会でぼくは10秒71の自己新記録をマークした。
何もかも上手くいっていた。
くじけそうになる時もあったが、めぐみが傍にいてくれるだけで、ぼくはなんだって叶えてしまう、そんな気がした。
南河内予選大会を三日後に控えたその日、練習を終えたぼくが部室に戻ると、先に戻っていためぐみが備品の片付けをしていた。
「ごめんなさい。散らかったままで」
その時、道具が散乱する部屋の中を移動しようとして、めぐみはハードルに足を取られて倒れそうになった。
「危ない」
ぼくは
「ありがと…」
言いかけためぐみの顔が数センチの所にあった。
最近大人っぽくなっためぐみはとてもいい香りを放っていた。
ぼくたちは抱き合った姿勢のまま、呪縛されたように動けないでいた。
めぐみは頬を赤らめながらもぼくの視線を逸らそうとはしなかった。
(ヤバい……)
ぼくはこの状況に耐え切れなかった。
「ゴ、ゴメン」
言いながらぼくはめぐみの肩を引き離して立ち上がった。
「あ、忘れ物を思い出したんだ。取りに行ってくるよ」
ぼくは部室のドアも閉めないで走り去った。
めぐみの顔をあんなに近くで見たのは初めてだった。
(近くで見ると、もっと可愛いいんだ)
今し方の出来事を振り返るだけで、ぼくはドキドキした。
あんなに優しくて可愛い子が彼女だと思うだけで、ぼくは
「おい、堀内。ダンスの練習か?」
振り向くと同じ陸上部の高柳が笑っていた。
「恥ずかしいとこ見られたな」
「いや面白かったよ。ところでマネージャー見なかったか?」
「めぐみ? あいつなら部室にいるよ」
「ああそうか。ありがとう」
高柳は軽く手を振って駆けて行った。
しばらくしてぼくは気が付いた。
(今だったら高柳がいるから気まずくはないよな)
そう思って部室に戻ろうとしたら、五つほどサッカーボールを抱えた西村と出くわした。
「貴樹か、ちょうどよかった。部室に戻るんだよ。サッカーボール二つ持ってくれないか?」
「ああ、いいよ」
サッカー部の部室は陸上部の隣りだった。
「なあ貴樹、最近めぐみのヤツ色っぽくなったよな。何かあったのか?」
歩きながら西村が冷やかした。
「何だよ。なんにもないよ」
家が近所の西村には早い段階で、ぼくの家から出てくるめぐみを発見されていたから、全て白状していた。
「いいなぁ、お前にはあんな美人の彼女がいるんだから」
ぼくと西村はドアが開けっ放しになっている陸上部の部室を通り過ぎようとした。
と、いきなり西村がぼくの腕を掴んで、開いたままのドアの前で立ち止まった。
「どうした……!!」
めぐみが高柳に抱きしめられ、そして唇を重ねていたのだ。
(なに…? これ…)
状況が全く掴めなかった。
(無理やりされたんだ)
そう思おうとした。
だが、めぐみはみずからの意思で高柳のキスを受け止めていた。
高柳の背中に回すめぐみも手が、それを物語っていた。
ぼくが落としたサッカーボールの音で二人が振り返った。
めぐみは驚いた顔でぼくを見たが、すぐに視線を落とした。
「うわぁ、見られてたんだ。恥ずかしいな。今おれ、めぐみに告白したとこなんだよ」
悪びれない高柳の様子から、ぼくたちが付き合っているのは知らないようだ。
それに何よりも決定的なのは、ぼくの目線を避けるめぐみの右手が、高柳のシャツを
(二股掛けられていたのか? いつから? なんで?)
目の前の事実を理解出来ないまま、ぼくはそこから逃げ出した。
(嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!)
「待てよ、貴樹!」
後ろから西村が追いかけてくるのが分かった。
でもぼくは走るのを止められなかった。
目の前で違う男に彼女を取られた悔しさや恥ずかしさで、身の置き所がなかったのだ。
ぼくの自尊心はズタズタだった。
「お前…速すぎるよ」
追いついた西村が倒れ込むぼくに手を差し伸べた。
西村の手を借りて立ち上がろうとしたが、膝に痛みが走って、もう一度倒れこんだ。
「大丈夫じゃないぞ。腫れてるじゃないか」
西村はぼくの膝を見て痛々しい顔をした。
だが今のぼくにはそんな膝の痛みなどどうでもよかった。
そんなものより遥かに苦しい胸の痛みに耐えかねていた。
ぼくは叫びたいのを我慢して、動物の唸り声のような嗚咽をした。
「貴樹…お前とめぐみの間に、いったい何が…」
「そんなの知るかよ! おれが聞きたいよ!」
もうぼくは何も考えられなかった。
(裏切られた)
めぐみの笑顔が目の前に浮かび、すっと消えた。
(信じていたのに……なんで……)
「ああああ!!」
ぼくは耐え切れずついに叫び声をあげた。
その後ぼくは西村の肩を借りて保健室に連れていかれた。
葛城先生がいた。
「今日は水曜日だから昼から診察はないんだよ」
そう言いながらぼくの膝の具合を診てくれた。
「これは…ちょっと、きつい打撲だな。一週間は安静にしておいた方がいいな。あのさ、堀内。言いにくいんだが、南河内の地区予選は走らない方がいい」
三日後に南河内地区の予選がある。
「いいですよ。辞退します」
ぼくが淡々と答えると、葛城先生拍子抜けした顔をした。
「意外だったよ。何があっても出場する言って聞かないと思っていたから」
「ついでに引退したいと思います。明日から部活には来ないつもりです」
「おい、貴樹」
と西村が
「放せよ。おれは引退するんだ」
葛城先生はぼくの顔をマジマジと見つめた。
「何かあったのか? 話してくれないかな?」
「話したくありません。もう、走りたくないんです」
ぼくはさっきの光景を思い出し泣きそうになったがここは
葛城先生はしばらく宙を見ていたが、視線をぼくに戻すと答えた。
「分かったよ。何があったのか分からないが、それはお前の意思だ。引退を認めるよ」
「先生、ちょっと待ってくださいよ。理由もわからないのに認めるんですか?」
西村が口を挟んできた。
(余計な事を言うなよな)
「西村、おまえ」
ぼくが何か言おうとすると葛城先生がそれを制した。
「いい機会だと思ったんだ。堀内はオーバーワーク気味だったからね。少し体を労わって欲しいと思っていたところなんだよ。受験もあるし、しばらく休んで高校に入ったらまた走ればいい。とにかく今はその怪我を治さないとな。引退は受理した。明日から来なくていいけど、気が向いたらいつでも顔を出してくれよな。みんなにはおれから話しておくよ」
穏やかな口調でそう締めくくった。
ぼくは何も聞かない葛城先生に感謝するべきだったかもしれないが、相手に気配り出来るほど、ぼくの心は追い付いていなかった。
あの日以来、学校は苦痛でしかなかった。
救いはめぐみのクラスが離れている事だった。
それでも廊下ですれ違う時がある。
ぼくもめぐみも互いに何の反応も見せないですれ違うのだが。
高柳とめぐみが腕を組んで歩いている姿が、校内の噂になっていた。
出くわさないよう心掛けてはいるものの何度か目に入った。
そんな時、ぼくに出来る唯一の行動は、無関心を装う事だった。
五月下旬に体育祭が開かれた。
普段は接触する機会などないのだが、フォークダンスでめぐみとの番が回ってきた。
男子と女子はなんだかんだ言いながらも、手を取り合って踊るのだが、ぼくはめぐみの指には触れなかった。
めぐみは一度ぼくの指を掴もうとしたが、ぼくがそれを拒絶するとそれ以上の接触はなかった。
ぼくは毎日を無気力に過ごした。
授業も上の空で、成績も下がっていった。
夏休みには今まで受けたことのない補習授業というものに、英語で出席させられた。
ほくは何度もめぐみの夢を見た。
手を取り合い笑いながら草原を駆け回っている夢。
いつか見たクリスマスツリーのオブジェの前でキスをする夢。
みんなが見ている白昼堂々の自転車での二人乗りの夢。
いずれも楽しい夢ばかりだが、目覚めた時、楽しいほどにその反動も大きかった。
夢なら醒めないで欲しかった。このまま夢の中に閉じこもっていたかったのに…。
そんな時の朝の光は、ぼくには
(めぐみぃ……なんでだよ…)
ぼくは涙で枕を濡らす日々が続いた。
夏休みが終わった頃から、ぼくの体の震えは酷くなっていた。
寒いわけではない。
何かに思いつめると体が震えだすのだ。
震える箇所は、手だったり足だったり、体そのものが震える時もあった。
「貴樹、体は大丈夫か?」
めぐみとの一件を知る西村にはすべて話していた。
「それ病院に行った方がいいんじゃないのか?」
「母さんには絶対言うなよな」
「だけどさ…」
「絶対言うなよ!」
母には心配かけたくなかったし、余計なお金を出させたくなかったのだ。
田んぼの
「高柳と佐藤、別れたみたいだぜ」
そんな噂が流れていた。
いつも寄り
(また新しい男でもできたんだろう)
そんなつまらない女に心かき乱された自分は、本当に愚か者だと自嘲した。
ともかく、今は成績を上げる事に全力を傾けないといけなかった。
ぼくの成績は正直なところ
当初目指していた国立の教育大付属は、今や受験票を提出できるレベルにはなかった。
「今の調子では偏差値六十以下の所が妥当だと思うよ」
担任はそう言った。
それでも、ぼくは国立が無理でも進学校を望んだ。
担任は深いため息をつきながらも妥協案を出した。
「それじゃこうしよう。併願で受ける偏差値六十五の清南高校に合格したら、偏差値六十七の
ぼくは承知するしかなかった。
それからぼくは時々起こる手足や体の震えに怯えながら、懸命に受験勉強に励んだが、清南高校に合格は出来なかった。
「狭原高校はどうかね」
と担任が勧めた。
「
「分かりました。お願いします」
ぼくに選択の余地は残されてなかった。
(もう、どうでもいいや)
進路指導室を出たぼくは無駄な抵抗は止めようと思った。
窓の外に目をやると、陸上部の部室が見えた。
(おれはこれまで何をやってきたんだろう?)
何を思うでなくしばらく呆然と窓の外を眺めていた。
ふと、気配を感じて振り返ると、めぐみが立っていた。
ぼくは無言で立ち去ろうとした。
「高校、どこに決めたの?」
背後からめぐみに声を掛けられ、ぼくは立ち止まった。
久しぶりに聞くめぐみの声に、ぼくは震えた。
病気が出たのかと思ったが、そうではなかった。
忘れていた…いや、抑え込んでいた胸の痛みが、愛おしさとともに込み上げてきた。
(振り返ったらだめだ)
ぼくはめぐみに返事もしないでその場を離れた。
立ち止まったら、振り返ったら、ぼくはまた元の場所に引き戻される。そんな気がしたからだ。
卒業式だった。
ぼくは去年の卒業式で、在校生代表として送辞を読んだのを思い出した。
夢や希望、そして未来などの言葉を並べ立てて、それらしい大言壮語を吐いていた。
(中にはおれみたいに、夢とか希望とかが分からなくなっている人もいただろうな。先輩、すいませんでした)
夢や希望が分からなくても、十五歳のぼくはとにかく前に進むしかなかった。
卒業式の後、葛城先生に挨拶したものかどうか思い
ぼくは自転車にまたがると、いつもの帰り道を走った。
二つ目の信号で、あの日以来そこを避けて通るのだが、その日はうっかり直進してしまった。
めぐみの家が近くにあるのだ。
(会う事はないだろう)
めぐみの家の前を通りかかったとき、玄関の階段を上がろうとしている制服姿のめぐみがいた。
めぐみはぼくに気づくと階段を降り、近づこうとした。
だけどぼくは、勢いそのままで、めぐみの横を通り抜けて行った。
「さようなら……!」
めぐみの耳に届いたかどうかは分からない。
ともかくぼくは、言えなかった言葉をようやく口にする事が出来た。
これでお別れだ。
ぼくは自転車を力一杯こぎながら、あふれ出る涙の処理に困っていた。
何故だか分からないが、その日から体の震えは止まっている。
間もなくぼくは狭原高校の生徒になった。
その数日後だった。
ぼくは渡り廊下を歩いていた。
「ねぇ、南中の堀内貴樹君よね」
声を掛けられ振り返ると、キラキラと光る栗色の髪の女子が、ぎこちない笑顔を向けていた。
春の光を浴びたその女子は
目を覚ますと、白い天井が見えた。
(ここはどこだろう?)
辺りを見回すと、父と目が合った。
「貴樹、気が付いたか?」
「父さん? おれはどうしたの? ここは何処?」
「病院だよ。救急車で運ばれたんだよ」
父は苦笑した。
「熱中症らしい。丸二日寝ていたよ」
「そうだったんだね。ごめんな、迷惑かけて」
「気にするなよ。変な話、息子の世話が出来て、なんか嬉しかったんだよ。父親らしい事してなかったから」
父は自分の発した言葉を恥ずかしそうにしながら、新聞紙をぼくの前に差し出した。
綾乃の記事が大きく取り上げられたスポーツ新聞だった。
日本一速い女子高生は アイドルをしのぐモデル体型美少女
笑顔で手を振る綾乃の写真が新聞紙の1/4の大きさで掲載されていた。
(美人は得だな)
高校野球ならいざ知らず、高校陸上競技をこれだけ大きく取り上げるなど普通はなかった。
それだけ綾乃には注目する価値があるのだ。
(本当に遠くに行ってしまったんだな)
めぐみの二の舞はもうごめんだ。
ぼくはこの時、綾乃とはここまでにしようと決意した。
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