第6話 インターハイへ
貴樹君が三回目の中間ラインを超えた。
残り750メートルだ。
(あと半分…)
貴樹君の背中が70メートル程先にある。
今のところ射程には収めている。
(わたしの体力次第よね…)
息は上がっているけどまだ大丈夫だ。
このペースをキープしていれば、ラスト半周の勝負に持ち込む事が出来る。
(絶対に捕まえて見せる)
わたしは貴樹君の背中を睨みつけた。
*
わたしは貴樹君には内緒にしている事があった。
大阪大会で100メートル予選のスタジアムダックアウトで、わたしは佐藤さんと会った事だ。
そもそも貴樹君は、わたしが佐藤さんを知らないと思っている。たぶんだけど。
だから佐藤さんが選手として出場しているのを貴樹君には伝えるのは不自然だし、その必要もなかった。
佐藤さんは予選一組。わたしは二組。
順番が近いから当然会話のできる距離でもあった。
「こんにちは」
と向こうから声をかけてきた。
「早瀬さん、ひさしぶりですね」
「こちらこそお久しぶりです。佐藤めぐみさん」
と相手に合わせて丁寧語で返した。
「選手だったんですね」
佐藤さんは照れたように笑った。
「優勝候補の早瀬さんには遠く及ばないですけどね」
予選一組のメンバーにスタート位置へ出るよう指示が出た。
佐藤さんはわたしに軽くお辞儀をすると、一組のメンバーとともにホームストレートに出た。
間もなくだった。
「あの娘かたまっているよ」
「緊張で動けないのかな」
そう言う声が聞こえてホームストレートを見ると、メインスタンドを見上げて立ち尽くす佐藤さんがいた。
(どうしたの?)
わたしはダックアウトから佐藤さんの視線の先を
貴樹君だった。
そして彼も驚いた顔で佐藤さんを見つめ返していた。
佐藤さんとの再会に貴樹君がどんな思いを抱いているのか計り知れなかったけど、恋人だった人との再会は、
棒立ちする佐藤さんに係の人の注意が入って、レースが始まった。
佐藤さんのスタートの反応は、貴樹君のそれとよく似ていた。
終盤にもろさを見せながらも、辛うじて準決勝に残った。
走りでは決して彼女には負けない。
でも、貴樹君の中にある彼女への思いがどれ程のものなのか、わたしには分からなかった。
マネージャーだった彼女が選手として出場した事や、貴樹君を真似た走り方を見せつけられて、わたしは強く感じてしまった。
(佐藤さんは堀内君を今も好きなんだわ)
スタートラインに立ちながらもわたしはその呪縛の中にいた。
わたしはメインスタンドにいる貴樹君を見上げた。
(あなたはまだ佐藤さんが忘れられないの?)
心が
「早瀬! 集中!」
貴樹君が声をかけてくれた。
われに返ったわたしだが、スタートで出遅れてしまった。
予選という事もあってトップを譲ることはなかったが、少し肝を冷やしたレースだった。
そして準決勝一組の中に佐藤さんがいた。
「中学の時とは逆ね」
佐藤さんはダッグアウトでわたしの顔を見るなりそう言った。
「貴樹君は今、あなたの傍にいるのね」
わたしは苦笑した。
「彼はまだわたしに心を開いていないわ」
「そう」
「まだ、佐藤さんがいると思うよ」
「まさか」
と苦い顔をした。
「わたしあんな酷いことしたのよ。恨んでいるはずよ」
「どうかな、それ。わたしあなたと堀内君との間に何があったのか知らないから」
「貴樹君からは聞いてないの?」
わたしは首を横に振った。
「だって堀内君は、わたしのコーチでしかないのよ」
「そうなの……」
佐藤さんは何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。
気まずい間があったが、しばらくして佐藤さんが言った。
「手を抜かないでね。わたしが負けるとは限らないわよ」
先ほどとは違って挑戦的な言い回しだった。
「分かったわ。全力で行くわ」
わたしもそれが礼儀だと思った。
佐藤さんは小さく笑みを浮かべて頷いた。
競技の結果、佐藤さんは八位だった。
でも彼女はどこか誇らしげだった。
「わたし13秒切ったの初めてなの。それにわたしの走り、貴樹君に見てもらえたしね」
そう言って背中を向けた彼女だったが、泣いているのが分かった。
涙をこぼさない、そんな泣き方だった。
貴樹君に話してない事がもう一つあった。
それも大阪大会の時だ。
優勝を果たした後、大阪のテレビ局と雑誌のインタビューを受けた時だった。
「休日は何しているんですか?」
地方雑誌社の女性ライターがわたしに質問してきた。
ちょうど、堀内君のお父さんが駆け出しの小説家だと聞いて、三作ある彼の小説を読んでいるところだった。
「堀内春樹の小説を読んでいます」
と売名行為を思いついたのだ。
「ほりうち? 村上春樹じゃないんですね」
(やっぱり、そっちなの?)
と思いながらもわたしは笑顔で首を横に振った。
「新人作家なんです。本屋さんでたまたま見つけて読んだら、わたしの感性にはまっちゃって、最新作も含めて三冊全部買っちゃったんです」
その後わたしは、100メートルのウィナーに対するインタビューそっちのけで、小説の内容について、相手があきれてドクターストップかけるまで喋り続けた。
取材を受けた雑誌は週刊誌なので、掲載されたのは早かった。
(思惑通りいったかな)
わたしは自分の記事が載っているかどうかよりも、堀内春樹の名前が出ているかどうか、そっちの方にドキドキしていた。
果たして……。
【陸上よりも、新人作家・堀内春樹にお熱な15歳】
わたしの記事の見出しだった。
(やったぁー!!)
わたしは小躍りして喜んだ。
近畿大会でもその企みを秘めていた。
だからわたしの髪を「茶髪」と
それに近畿大会の取材陣は、大阪大会とは違って雑誌テレビなど十数社も来ていた。
いずれもローカルなテレビや雑誌ではあるけど、わたしが堀内春樹を絶賛しているシーンを、一部カットはあるもののオンエアしてくれたテレビ局もあった。
効果のほどは分からない。
少なくとも校内では堀内春樹はちょっぴり話題になっていた。
無理のない練習のおかげでわたしの膝は問題ないところまできた。
高校のグラウンドは野球やサッカーなどの広いフィールドを要する部活が入り混じる戦場のようなものだ。
そんな戦場から離脱した人数の少ない陸上部は、狭原池の周遊路や堤防下にいくつもある広場を利用する事が多くなった。
わたしの練習メニューは三ヵ所巡りだった。
三都神社前の3%勾配のダッシュに始まり、次は狭原池の周遊路で後ろ向きジョギングで後ろ太腿辺りの筋トレを行い、最後に校庭の隅でスタートの反射速度の練習と入念なストレッチで締めくくるのだ。
狭原池の水面の反射が少し
池の南側に見える狭原高校の校舎も赤く染まっていた。
後ろ向きジョギングの後、狭原遊園跡地のさやか公園のベンチで、わたしは足の筋肉をほぐしていた。
中間試験が終わって二週間が経過していた。
その日成績表が返ってきた。
「堀内君のおかげで苦手な数学と物理が、それぞれ85点と90点だったわ。ありがとうね。学年ベストテンに入るなんて思ってもみなかったわ」
「いや、おれも早瀬のおかげで、苦手な英語が90点超えたよ」
「総合で学年トップだったんでしょ?」
貴樹君ははにかみながら頷いた。
「早瀬は英語100点だったんだろ? 両方とも」
わたしは苦笑した。
「ヒヤリングは100点だったけど、リーディングで98点。ひとつスペルミスっちゃった」
「バイリンガルでも間違うんだ」
「からかわないでよ。漢字でハネルところハネテなかった、みたいなものよ」
「なるほど。うまい事言うな」
そう言って貴樹君は笑った。
(なぜだろう。今日の堀内君、すごく柔らかい)
そう感じた。
が、間もなく答えが返ってきた。
「早瀬、ありがとうな」
「いいよ。わたしも教えてもらったんだから」
「そっちじゃないんだ。親父の事なんだ」
「……ああ。勝手な事したから怒られるかなって思ったわ」
貴樹君は赤く染まる横顔を
「最近、親父の新刊を店頭に置く本屋さんが増えてきたんだ。以前は置いてすらいない本屋さんの方が多かったのに……。早瀬のお陰だ。ありがとう」
「お父さんの実力よ。堀内春樹に力量がなかったらそんな事にはならないよ。今まで気づいてもらえなかっただけだから」
「そうかもしれない。でも、機会を作ってくれたのは早瀬だから…。だからおれ、早瀬の事ちゃんと応援するよ。今年のインターハイは優勝させてやる」
「そうね。出来るかな、優勝」
「出来るとも」
貴樹君は右手で握りこぶしを作った。
「葛城先生は日本陸上連盟にコネがあるからいろんな情報を持っているんだ。ここにある高校陸上の都道府県大会の結果もそのひとつだよ」
言いながら貴樹君はズボンの中から小さく折った紙を取り出し、その場で開いて見せてくれた。
「見てくれ、上位ランク順に選手の名前が書かれてあるだろ? 早瀬の名前は、ほら、三番目にあるだろ?」
タイムの速い順で上から三番目にわたしの名前が書かれてあった。
「しかも12秒を切った事のある者は五名。早瀬はすでにベストファイブにあるって事だよ」
「でも、一番早い神奈川県代表の山本美優って人、11.75よ。ちょっと届かないよね」
「まだ一ヶ月以上あるじゃないか。早瀬は成長株だからきっと追いつくよ」
現在わたしのベストタイムは11.89だけど、大阪南地区大会では12秒切ってなかったわけだし、それを考えると不可能な気はしなかった。
それにわたしの一番の目標はインターハイの後にあった。
インターハイで優勝して貴樹君と同じ高みに立つ事が出来たら、きっとわたしは勇気を持つ事が出来る。
その時わたしは、温めていた三年間の思いを……。
(堀内君に告白する)
強く心に誓った。
七月に入って葛城先生から「無罪放免だよ」と冗談交じりに、膝の怪我の完治を言い渡された。
「筋肉トレーニングは怪我しないためにも大切だが」
と言いながらも、
「無理・無茶なトレーニングは絶対しないこと。度が過ぎると、それによって怪我を引き起こすことになるからね。必ずストレッチをして疲労物質である乳酸を放出してやることだ」
と筋トレ以上にストレッチの重要性をいつも口にするのだ。
貴樹君もそれを理解したトレーニングメニューを組んでくれている。
梅雨の晴れ間の土曜日だった。
葛城医院の帰り道、夏空広がる狭原池の遊歩道を歩きながら貴樹君が話してくれた。
「葛城先生はタイプ的に早瀬に似ているんだ」
「わたしと似ている?」
「100メートルで葛城先生がトップスピードに至るのは、50メートルを超えてからなんだ。つまり後半に伸びてくる、早瀬と同じタイプだ。大学時代全日本でどうしても勝てない選手が二人いて、そのどちらかに勝てない限り100メートルの日本代表枠に入れなかった。そこで葛城先生のコーチだった人が、スタートダッシュがあれば勝てる、と考えたそうだ。それから毎日ロケットスタートの練習をしていたんだが……」
「それでどうなったの?」
「半年続けても効果がなく、それでも必死でトレーニングに耐えていたんだけど、タイムが伸びる前に膝の半月板が損傷して、普通に走る事さえ出来なくなって、それで引退したんだ」
無理・無茶をしてはいけない、と繰り返す葛城先生の思いがようやくわたしにも理解できた。
「だからと言って葛城先生は、コーチの人を悪く言ったりはしてないんだ。情報や知識が足らなかっただけだって、他人事のように笑っていたよ」
「だからなのね。整形外科医として身体の安全を考えながら、陸上競技の指導に
「そうだよ。おれが部を止めるって言った時も、先生は理由も聞かなかった……」
言いかけて貴樹君はハッとしたような顔で言葉を切った。
わたしは貴樹君の顔を
(何を言おうとしたの?)
貴樹君は何かを拒むように狭原池の方に顔を背けていた。
(触れてはいけないんだ)
わたしは直感的にそう感じ取った。
それからは笑顔を見せないいつもの貴樹君に戻ってしまった。
もうすぐわたしの家が見える。
(今日こそはわたしの家に招こう)
家の門の前まで来るも、いつも素通りする貴樹君だった。
でも今日は、誘えば家の門を潜ってくれるかもしれない。
たった今までそんな思いもあった。
(ダメみたいね、今日も)
わたしは微笑みを浮かべるしか出来なかった。
それでも貴樹君は勉強と練習には付き合ってくれた。
基本貴樹君は優しかった。高校で再会したころと比べたら笑顔の数も断然多くなっている。
だけど彼の感情は気まぐれだった。
今し方談笑していたかと思うと、ふとした瞬間、いきなり寡黙になってしまうのだ。
最初はどんな時にそうなるか
ほとんどが二人でいる時だった。
周りから見れば恋人みたく見える、そんな雰囲気になりかけた時、貴樹君は思い出したみたいにいきなり態度を固くしてしまうのだ。
最初戸惑っていたわたしも、近ごろは慣れたもので、そんな時は言葉を
わたしの笑顔に貴樹君はとても困った顔をする。
きっと、わたしとの距離の取り方に迷っているのだと思う。
貴樹君は純粋すぎる人なんだ。
乱暴な物言いをした後は必ず、すまなそうな態度を見せる。
相手に対しても自分に対しても繊細で、ガラスのように壊れやすいハートの持ち主なのだ。
傷ついて震えている子犬のような彼だから、わたしに必要なのは信頼だと思った。
(急いではいけないのかもしれない)
わたしはインターハイでの優勝を、一つの切っ掛けにしたいと思っているが、それが正しいのかどうか、まだ分からなかった。
期末試験が終わり、貴樹君は学年トップを譲らなかった。
わたしは意外にも学年三位につけていた。
すべては貴樹君のおかげだった。
夏休みに入った。
明日から始まるインターハイに向けての準備は、体調も含めてまずまずと言ったところだろう。
最寄りの駅にはたくさんの人が見送りに来てくれた。
声を上げての
「早瀬、おれはいけないけど応援しているから、頑張れよ」
電車に乗り込む時、珍しく貴樹君が握手してくれた。
「ありがとう、堀内君」
気の利いた言葉で返したかったが、何も思い浮かばなかった。
それは貴樹君も同じだったようだ。
「さあ、行くよ」
黒木先輩がわたしの肩を叩いた。
ラムセス二世は額の汗をぬぐいながら、応援に駆けつけてくれた人たちに何度も頭を下げていた。
電車のドアが閉まった。
動き出す電車の窓越しに、わたしは貴樹君を見つめた。
軽く手を振る貴樹君にわたしは笑顔を絶やさなかった。
「なんか名残惜しそうね。恋人との
黒木先輩がからかうように言った。
「やめてくださいよ、黒木先輩。わたしたちそんなんじゃないですよ」
「悪い悪い。あんたのおかげで生まれて初めての上京だからね。感謝してるよ、早瀬」
天真爛漫な黒木先輩が傍にいるのは心強かった。
何よりも気がまぎれる。
(ヤッパリ、緊張するなぁ)
明日は開会式だ。
そして翌日に100メートル走の予選・準決勝そして決勝が行われるのだ。
それを一人で乗り切らなければならないかった。
ホームストレートに立てば誰の助けも得られない。
わたしだけの戦いだ。
それでも貴樹君の姿があるだけでどれほどの安心感があっただろう。
大阪大会でも近畿大会でも、彼がいてくれただけで、わたしの心は強く保たれていた。
(来て欲しかったなぁ)
車窓越しに見える狭原池の堤防が左へ流れてゆく。
三日後、どんな結果を持ってわたしはここに帰るのだろうか。
そしてわたしは堀内君とどんな風に向き合っているのだろう。
「ゴメンね、早瀬」
と黒木先輩がそう言った。
「えっ? どうかしましたか?」
「わたしなんかより、堀内君に来て欲しかったよね、本当は」
「いえいえ、そんなこと考えてないですよ。第一堀内君は正式な部員じゃないですから」
協会からの予算は顧問とキャプテンと出場選手の交通費と宿泊費のみだった。
わたしが自腹を切って堀内君に予算を回そうとも思ったのだが、そんなこと彼が承知するはずもなかった。
逆の立場だったら、わたしだって嫌だ。
そんな事もあってか、インターハイ出場の快挙をなしたというのに、わたしの心は浮かなかった。
『コーチはインターハイまでだ』
貴樹君の言葉がわたしの胸に深くのめり込んでいた。
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