第5話 二人の距離




 三週目のスタートラインにぼくが達した時、綾乃は中間ラインをすでに50メートル以上超えていた。

(150メートルあったハンディが100メートルもないのか)

 このままでは間違いなく追いつかれる。

 だからと言ってここでのベースアップは命取りだ。

 ぼくの体力を考慮すれば、最後まで走り切ることは出来ないだろう。

(ここは我慢だ)

 普通に100メートルを走ればぼくの方が速い。

 それまでスタミナが残っているかどうか分からないが、最後の100メートルに賭けるしかなかった。

 それに……。

(綾乃だって、辛くて苦しいんだ)

 だからぼくも、苦しみ抜いて答えを出さなくてはならないんだ。 





                    *




 綾乃が南河内地区大会を優勝して一週間がたっていた。

 練習のない日曜日の昼下がり、ぼくは初めて綾乃を自宅へ招いた。

「堀内君の家って二階建てなんだ」

「母子家庭定番の1DK文化住宅と思ったかい?」

「えっ? ち、違うわ。そんなつもりで言ったわけじゃ…わたしん平屋だから…」

 焦る綾乃にぼくは苦笑した。

「分かっているよ。別にそんな受け取り方してないから」

 ぼくは綾乃と一緒にスーパーで買った食材を両手に持って、玄関から入った。

「親父が出て行くとき、この家を慰謝料代わりに残して行ったんだ」

 綾乃はコメントに困った顔をした。

「気にするなよ。おれの独り言だ」

 死別と生き別れの違いはあるが、同じ年頃に片親をなくした同士と言うのだろうか、ぼくは少しばかり心を開いてしまった。

『大変だったのね』

 数日前、そう言った綾乃の言葉には、共感するものがあった。

 これが両親に恵まれたヤツの言葉だったら、ぼくは反発しかいだかなかっただろう。

 大変さを本当に知る者としての、短くても重みのある言葉だった。

 ぼくたち残された家族三人は、父がいなくなった後の寂しさを噛みしめる暇もないくらい、何もかも一変した。

 それでもぼくの場合、いつか会える日が来るかもしれないと言う希望が心の片隅にあった。

 だけど綾乃は希望すらいだけない現実を背負っていたのだ。

 台所に立つ綾乃の後姿をぼくは見つめた。

(友達にはなれるんじゃないのか)

 男女の仲がすべて愛とか恋とか、そんなもので縛り付ける事はないのかもしれない。

(だけど……)

 ぼくは怖かった。

 ぼくは本当に、異性を友達として見られるのだろうか。

 めぐみの時のように、仮にもし、綾乃が大好きでたまらなくなった時、何の前触れもなく背中を向けられたとしたら、今度はきっと二度と立ち上がれないだろう。


「堀内君?」

 怪訝な顔で綾乃が振り返った。

「あっ、いや、綾乃の髪って、ブラウンって言うのか、栗色の髪って言ったらかな……なんて思っていて…」

(何を訳の分からないこと言ってんだよ!)

 心の中で自分をののしったが、口に出したことは取り戻せない。

「ああ、この髪ね」

 綾乃は半身を向けたまま短くそろえた自分の髪に指をからめた。

「お母さんの形見なの」

 と事も無げに笑った。

「わたしのお母さん、日本人とイギリス人のハーフなのよ。お母さんは亜麻色の髪って言ったらいいのかな? わたしよりも淡いブラウンなのよ」

「つまり、早瀬ってクォーターなんだな」

「まあ、そうね」

 商社勤めの綾乃の父が、イギリス勤務の折、支社長の娘だった綾乃の母に一目惚れしたのだと綾乃は話した。 

 綾乃の祖父は日本人だが祖母がアングロサクソン人、つまりイギリス人だという事だ。

「わたしが今住んでいる家は、おじいちゃん、つまりイギリス支社長の生家せいかで、空き家になっていたのを、お父さんの帰国を切っ掛けにゆずってくれたって訳なの。旧家の家屋だから、平屋だけど敷地は結構広いのよ。親娘二人暮らしでは、使ってない部屋が多くて寂しいくらいよ」

 さて取り掛かろうか、と綾乃は買い物袋から食材を取り出した。

「おれは何をすればいい?」

「ジャガイモと人参の皮むきお願いしていい?」

「わかった。それなら出来る」

 食材も献立もすべて綾乃が選んだ。

 ぼくは彼女の指示に従うしかなかった。

 二家族分まとめて買って作った方が経済的だという理由と、ぼくの調理実習も兼ねて、両家の今夜の夕飯作りが始まった。

 食費はもちろん折半だ。

 ジャガイモの皮をむきながら、ぼくは思いついたことを訪ねた。

「もしかして、早瀬はイギリス育ちなのか?」

「ううん。わたしは日本で生まれたの。お父さんたちが結婚したのはイギリスだけどね」

「早瀬って、バイリンガル?」

 綾乃は苦笑した。

「どうかな? 確かに英語はわたしのテストの平均点を押し上げているけど、日本にいるとお母さんたち以外に英語を話す相手はいなかったから、本当に会話できるかどうかは分からないわ」

 そう言った後で綾乃は小さく笑った。

「どうしたのかな? 今日の堀内君、わたしの事知りたがるのね」

 そう指摘されて、ぼくはジャガイモをく手を止めた。

「ゴ、ゴメン。いろいろ尋ねて、ウザかったよな」

「違うよ、堀内君」

 綾乃の口調は穏やかだった。

「嬉しいの。だって堀内君、いつも邪険なんだもの。わたしなんてどうでもいいって感じで」

「そんなつもりはないけど……」

「ゴメンゴメン、ちょっと意地悪言っちゃったね。わたしの話も聞いてほしいけど、わたしは堀内君をもっと知りたい」

「おれは大した話は出来ないけど、早瀬が母親の話したんだから、おれも親父の話をしようか?」

「うん。知りたい。あっ、でも、無理に話さなくても」

「大丈夫だよ」

 本当に綾乃は人に気を遣いすぎるヤツだ。

「親父は小説家になると言って東京に行ったんだ。ずっと公務員だったけど、若い頃から小説を書いていて、それが五年前にある文芸小説で準入選を取り、東京の出版社からこっちに来ないかと誘われたんだ」

「それで堀内君たちを置いて出て行ったって言うの?」

 綾乃の言葉に少し感情がこもっていた。

「離婚届と家の権利書と親父が持っている全財産を母さんに差し出して、土下座して泣いていた」

「何でよ。何で一緒に行こうって言わなかったの? 堀内君のお父さんは」

「即デビューってわけじやなかったからね。編集者の膝元にいれば何かと力になってくれるらしいが、それでも食べていけるようになるには、何年かかるか分からない。親父は一応デビューして二年ほどたつけど、まだまだ無名作家だ。印税だって大したことないと思う」

「お父さんとは連絡しあっているのね」

「ないよ。書店を見かけると親父の本を探すけど、置いてない本屋さんの方が多いから、売れてない事くらい想像できるさ。村上春樹は知っていても、堀内春樹は聞いたことないだろ?」

 綾乃はためらいがちに間を置いて頷いた。

「こんなこと言うの、なんだけど、それって大切な家族を捨ててまでしなきゃいけない事だったのかな? 家族の元で公務員しながらでは、頑張れなかったの?」

「分からないよ、おれにも」

 父の気持ちは分かるようで本当のところ分からなかった。 

「夢だと言っていた。もうすぐ四十歳になろうとしていた親父にとっては最後のチャンスだったんだろうな。だから小さなボストンバック一つだけ持って親父は家を出たんだ。家族にすべてを残してね。だけど母さんはそのお金に手を付けないでいる。親父が文壇に上がるのにお金が必要になった時の為にって、残してあるんだ」

「わたしには分からないわ。家族を捨ててまで叶えたい夢なんて…」

 感情を押し殺した声で、綾乃はつぶやいた。

「おれだって思うところはあるよ。正直言って親父には許せない部分もある。でも母さんは親父の味方なんだ」

「………」

「家の権利書も通帳もすべて親父の名義のままだ。クシャクシャに丸めた離婚届も翌日ゴミ収集車が持って行ったよ」

「だから、苗字は堀内のままなのね」

「ああ」

「そうだったんだ……。堀内君のお母さん、すごいね」

 綾乃の目は少し赤く潤んでいた。

「ゴメンね。あざといよね、ここで泣くなんて」

「そんなことないさ」

 それこそが綾乃の優しさだとぼくは思った。

「わたし、何か力になれないかな?」

「いいよ。弁当作ってくれているだけで充分助かっているよ」

「他にも何かあったら言ってね。わたし協力するから」

「はいはい、分かった分かった」

 邪険にあしらいながらも何故かぼくは、ほのぼのした気分だった。

 誰にも話さず心に留めていたものを吐き出したからなのか。

 それもあったと思う。

(いや、違う。話した相手が早瀬だったからなんだ)

 綾乃の存在はぼくの中で大きくふくらみ始めている。

 しかも急速に。

 綾乃は思いやりがあって素直で性格も悪くない。

 見た目にも可愛く美人だ。

 いい娘だと思う。

 それはすべて認める。

(だけど……)

 めぐみもそうだった。

 あんなにぼくを思いやってくれていた。

 優しかったんだ、本当に。

 この娘しかいないと信じていた。

 それなのに……。

(やっぱり二度とあんな思いはしたくない……)

 過去に囚われているもう一人の自分が、込み上げてくる今の気持ちを抑えつけてくる。

(おれはどうすればいいんだ!)

 ぼくは綾乃とどう向き合えばいいのか分からなかった。

 出会ってからたった一ヶ月しか経っていないのに、綾乃はぼくの心の中に土足でズカズカと上がり込んでいた。


「大丈夫?」

 綾乃に声を掛けられぼくはハッとした。

「なんか固まっていたから」

「ああ、ちょっとボーっとしていただけだ」

 ぼくはジャガイモを握り直した。

「ねぇ、肉じゃがって、ある料理の失敗作って知ってた?」

 そうなのだ。これから作るのは肉じゃがだった。

「失敗作って? 何を作ろうとして失敗したんだ?」

「ビーフシチューよ」

「ああ、何となく分かる」

「東郷平八郎がイギリスで留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず、日本に帰ってからシェフに作らせたのよ。でも、料理にうとい東郷さんは、じゃがいもと人参と牛肉が入った料理、としか説明できないものだから、当然デミグラスソースやワインは使われず、砂糖と醤油の和風味になってしまったの」

 東郷平八郎とは日露戦争で日本海軍を率い、ロシアのバルチック艦隊を破って日本に勝利を導いた司令官の事だ。

「怒ったんだろうな。写真で見る限り恐そうな感じだから」

「ううん。これはこれでいいって、絶賛だったらしいよ」

 綾乃は笑顔で答えた。

 他愛のない話だった。

 だけど、一時的とはいえ、もう一人のネガティブなぼくから解放されるには、それで十分だった。

 それは綾乃の配慮だったのかもしれない。


「下ごしらえ完成よ。始めるね」

 綾乃はステンレス鍋の中に水とお酒と牛肉だけを入れて火をかけた。

「最初はお肉だけ入れて煮込むのよ。沸騰したら火を弱めて、出てきたアクを取るの」

 人参、ジャガイモ、玉ねぎの順に、火の通りにくい物から入れていくのがセオリーだと、綾乃は説明した。

出汁だしなんかの味付けは野菜に火が通ってからよ。アクセントに七味唐辛子を一振りってとこね」

 肉じゃがを弱火で煮込んでいる間、ぼくたちはほうれん草の和え物や鳥の胸肉を使った唐揚げを作った。

「どう、できる気がするでしょ? 最初の一歩を踏み出さないと何事も前に進まないわよ。わたしもそうだったから」

「そうだよな」

 ぼくは綾乃の言葉に同調した。

 一歩踏み出さないといけないと思った。

 いつまでもめぐみとの事引きずっていたら、前に進めないから。

(友達でいいじゃないか。それから先を考えてウジウジするのはよそう)

 ぼくは綾乃との関係をそう位置付けようとした。



「よお、貴樹……あれ、早瀬も一緒なのか?」

 綾乃の夕食分を入れた袋を綾乃の自転車の前カゴに乗せた時、住宅の路地から自転車に乗った西村が現れた。 

 ぼくは咄嗟とっさの答えにきゅうした。

 代って綾乃が、屈託のない笑顔で西村の話に応じた。

「そうなの。夕食の指南していたのよ。陸上のコーチのお礼としてね」

「おお、そうか。頼んだぜ、そいつの事」

「任せといて」

「じゃあな」

 と挨拶は綾乃ではなくぼくの方を見て言うと、細い路地裏に入って行った。

 ぼくを見る西村の目は、冷やかしではなく、頑張れよと励ましているのが分かった。

(余計なお世話だ。早瀬とは友達なんだからな)

 西村はぼくとめぐみの関係を知る数少ない人間の一人だった。

 だからその気遣いはうとましい時もあるが、今は悪くなかった。

「西村君ってこの近くなのね」

 綾乃が聞いた。

「おれの真裏の家がそうだ」

「幼馴染なのね」

「そう、あいつはおれの幼馴染だ」

 ぼくは噛みしめるよう綾乃の言葉を繰り返した。




 それからもぼくと綾乃は料理と勉強と、そして100メートルのトレーニングを共に過ごした。

 そして六月の最初の日曜日。近畿大会選考会を兼ねた大阪高校陸上選手権大会が開催された。

「ありがとう、来てくれて」

 万博記念競技場で顔を合わせると、駆け寄ってきた綾乃は真っ先にそう言った。

「堀内君、わたしらと一緒に来たらよかったのに」

 と綾乃とともに地区予選を勝ち抜いた黒木先輩がそう言った。

「まあ、部外者だから気を使ったんだよね」

 と付け加えて笑った。

「狭原高校からはわたしと黒木さんだけだから、一緒でも構わなかったのよ」

 綾乃も黒木さんの言葉に乗っかって来たが、ぼくは笑ってやり過ごした。

 綾乃とはここで別れなければならなかった。

「早瀬」

 背中を向けかけた綾乃を、ぼくは呼び止めた。

「早瀬の走りはまだ未完成だから、スタートダッシュは意識しなくていい。後半の驚異的な伸びが早瀬の売りだから、落ち着いて行けよな」

「分かったわ。ありがとう」

 綾乃は手を振りながら再びぼくに背中を向けた。

 綾乃たちはメインスタンド下の選手控室に入って行った。

 時計は九時少し回っていた。

 100メートル女子の予選は九時半開始だった。

(早瀬の出番は相変わらず早いな)

 ぼくはメインスタンドの最前列から、ホームストレートのスタートライン集まってくる予選一組の選手たちに目をやった。

(早瀬は予選二組だからこの後か)

 今から疾走する八人のアスリートたちはストレッチなどの準備運動をしていた。

 その中に一人だけたたずんだままメインスタンドに目をやっている長い髪の選手がいた。

(え? ぼくを見ているのか?)

 そう思った瞬間、ぼくは何かで頭を殴られたような錯覚に陥った。

 トラックのホームストレートにいるその選手は、間違いなく佐藤めぐみだった。

 めぐみはぼくを見ていた。

 みんながスタブロに足を掛けても動かなかった。

 係員がめぐみの傍に来て何か言った。

 めぐみは少し慌てた様子で頭を下げるとスタブロに足を掛けた。

(おまえが100メートル走るのか…)

「セット」

 一斉にクラウチングスタイルを取った。めぐみは四レーンだ。

 ピストルの音が鳴り、めぐみはいいスタートを切った。

 50メートルラインを超えた。

 まだトップだ。

 残り20メートルの所で、両隣りの選手に追いつかれ、ゴール直前で右隣の選手に並んでフィニッシュした。

 結果はすぐに出た。

 めぐみは13.08秒の2着で準決勝進出を決めた。

(なんてことだ)

 ぼくが南地区予選に顔を出さなかったのは、どこかの高校でマネージャーをしているかもしれないめぐみと鉢合わせになりたくなかったからなのだ。

 大阪大会南地区予選にエントリーした出場選手名簿にめぐみの名はなかった。もちろんマネージャーもである。

(まさか、他校区からエントリーしてくるとは思わなかった……)

 ゼッケンには大阪教育大付属高校と書かれていた。

(合格していたんだ。教育大付属に……)

 一緒に目指していた国立高校にめぐみが受かっていた事を、ぼくは今初めて知った。

 めぐみはダックアウトに向かいながら、その姿が消えるまで、メインスタンドにいるぼくから視線を離さなかった。

 気を取られている間もなく、予選二組の選手たちがホームストレートのスタートラインに出てきた。

 栗色の髪の綾乃はよく目立った。第1レーンだった。

 綾乃の様子がおかしかった。

 さっきのめぐみと同じように、ストレッチもしないでぼくの方を見上げていた。

「早瀬! 集中!」

 ぼくが短く指摘すると、綾乃はストレッチを始めた。

 間もなく全員が位置について、スタートを切った。

 綾乃は信じられないくらい出遅れた。

(何やっている!)

 前半八位スタートだったが、中盤からの驚異的な伸びで、何とか一位でフィニッシュした。

 タイムは12.78だった。

(あいつ、何考えているんだ!)

 ぼくは綾乃の傍に向かおうと5・6歩駆け出した所で足を止めた。

(今降りたら、めぐみに会うかもしれない)

 もう顔も見たくなかった。

 動けないぼくはメインスタンドで待つ形となった。

 しばらくしてラムセス二世と黒木先輩、苦笑いを浮かべた綾乃が頭をかきながらやってきた。

「ゴメン、ゴメン。ちょっと出遅れちゃって」

「出遅れってレベルじゃないだろう」

「だから、ゴメン。予選だからって油断しちゃったのよ。次はちゃんとするから」

 綾乃は苦笑しながら顔の前で両手を合わせて見せた。

 釈然とはしなかったが準決勝に備えてぼくは苦言を飲み込んだ。



 午後に入って黒木さんが3000メートルで四位に入り近畿大会出場を決めた。

「早瀬さん、黒木さんに続いて頑張りなさい」

 授業以外は寡黙なラムセス二世が珍しくコメントを出した。

 準決勝は三組。綾乃は第一組でその中にめぐみの姿があった。

 八レーンのめぐみは予選の時のようにぼくを見止めることはなく、むしろ選手の方に意識を向けていた。

 一レーンの綾乃も同様、メインスタンドのぼくではなく選手の方に視線を向けていた。

(気のせいだろうか?)

 ぼくには綾乃とめぐみが互いに見つめあっている風に見えた。

(二人に面識があるのか?)

 係員の合図で全員がスタートラインについた。

 珍しく綾乃が勝気な顔をした。

 号砲とともに綾乃はいいスタートを切った。めぐみもだ。

 30メートルまでは綾乃とめぐみの争いだったが、50メートルを超えるとめぐみは他の選手たちに飲み込まれた。

 綾乃はそこからが強かった。

 さらに加速を見せて、余裕を以てフィニッシュした。

 電光掲示板に記録が点灯すると、場内がどよめいた。

 11.98。

 綾乃の自己新記録だった。

 フィニッシュラインを超えた綾乃は、ぼくに向かって手を掲げようとしたが、めた。

 周囲を気遣っての事だろう。

 一方で視線を落とした選手もいる。

 8位に終わっためぐみもその一人だ。

 記録は12.99。

(きっとめぐみも自己新記録なんだろうな)

 めぐみなりに頑張ったんだろうと思った。

 中学時代のめぐみを知るぼくだからそれが分かった。

 ふと、めぐみがメインスタンドを見上げた。

 ぼくは小さく頷いて見せた。

 めぐみの目が大きく見開いた。

 この瞬間だけは、過去のしがらみではなく、全てを出し切ったアスリートとして、ぼくはめぐみにエールを送った。



「12秒切ったわよ、ついに」

「インターハイ決勝のタイムだ。頑張ったな、早瀬。おれも嬉しいよ」

 ぼくが言うと、綾乃はポロリと涙をこぼした。

 ぼくも驚いたが、当の本人も驚いていた。

「なんなのよ、これ。泣くつもりないのに、いきなりこぼれてきたのよ」

 と言った後で、

「だいたい堀内君が悪いのよ」

「なんでおれなんだよ」

「いつもとがっているくせに、いきなりねぎらいの言葉掛けてくるんだもの……」

(あざといなぁ)

 そう思いながらもぼくは、目頭を押さえる綾乃を見下ろしながら少し胸がキュンとした。

 忘れていた、いや忘れようとしていた気持ちが込み上げてきた。

(ズルいよ、早瀬)

 だが、綾乃の栗色の髪に手を掛けようと右手を上げた時、誰かの視線を感じてぼくは振り返った。

 30メートルほど先のメインスタンド西側の昇降口付近に、こちらを見るめぐみの姿があった。

 めぐみはぼくが気づいたと知ると、漆黒の髪をなびかせて昇降口に消えた。

 その瞬間、高揚していた気持ちがえてしまった。

 高柳に抱きすくめられる、あの時のめぐみの姿が脳裏をよぎった。

(やっぱり、あんな思いは二度とゴメンだ)

 ぼくは栗色の髪に触れようとした右手を下げた。 



 100メートル決勝も綾乃は12秒を切って快勝した。

 弱小陸上部から二人の近畿大会出場者を出したことは、少なからず校内の話題になっていた。

「黒木先輩はともかく早瀬はインハイ確実だな」

「さすがスーパーガールだな」

「早瀬って、あの茶バツの女子の事か」

「高校陸上って茶バツOKなのかよ」

 いいことも悪いことも含めて、綾乃は校内では時の人だった。

「こら、そこの男子。茶バツ茶バツって、この娘は脱色なんかしてないよ」

 気の強い黒木先輩が耳にしようものなら黙ってはいなかった。

 だいたいの男子はこれで尻尾を巻いて逃げ出してしまうのだ。

 だけど綾乃は笑っていた。

「わたしは大丈夫ですよ、黒木先輩。だって、お母さんが残してくれた栗色の髪なんだもの。大切なナチュラルヘアーですから」

「堀内君も黙ってないでなんか言ってあげなよ。彼氏なんでしょ?」

「おれが、彼氏!? 何言ってんですか?」

「先輩! 違うんですよ。ほんと、友達ですから!」

 ぼくと綾乃が取りつくろうと、黒木先輩は意味ありげに笑った。

「ホゥホゥ、息ぴったりじやないの」

 と冷やかされた。

 だがそういった事は黒木先輩だけに限ったものではなく、周囲の認識も同様のものだった。

 小・中学校と綾乃と同じだと言う向かいの席の山際佳代もそうだった。

「あんたを見直したよ。正直いやな奴だと思っていたけど、その裏、他の女子には目もくれず綾乃ちゃんに一途なだけだったんだね」

「はぁ? 何言ってんだ、おまえ」

「照れなくていいよ。分かってるんだから」

 と取り付く島もなかった。

「堀内君はずっと綾乃ちゃんの王子様だったのよ」

「王子様?」

「そうよ。彼女本当は中距離選手になりたかったんだよ」

 ぼくは山際の話に向き返った。

「小さい頃から狭原池に沿った旧街道をずっと走っていたのよ。お母さんと一緒にね。お母さんは日系イギリス人で、インカレで世界大会に出た事もあったそうよ。3000メートルで」

 山際は綾乃の母が病気で亡くなったと告げた。

「ショックから立ち直れなかったと思うよ。しばらく走るの止めていたんだよ。でも中学になると再び走り始めたの」

「じゃあ、どうして100メートルに変わったんだい?」

「3000メートルに黒木先輩がいたからよ。それに100メートルは綾乃ちゃんが一番早かったからね。そこで堀内君と運命の出会いがあったんでしょ?」

 と最後は冷やかし混じりだった。

「綾乃ちゃんはいつも堀内君の話ばかりしていたんだよ。記録会がどうだった、大会でどうだったって、いつもあんたの話題で持ち切りだったのよ。分かりやすい娘よ、綾乃ちゃんは」

 確かに分かりやすいヤツだと思う。

「綾乃ちゃんは小学校の時はあんまり人懐っこい娘じやなかったんだよ。お母さんが亡くなってからは特にそうだった。それが王子様を見つけてから、人が変わったみたいにみんなの中に入ってきたの。堀内君のように爽やかで明るい人になりたいって、そう言って今の綾乃ちゃんが出来上がったんだけど……」  

 山際はぼくの顔をマジマジと見つめた。

「あんたのどこが爽やか? 何が明るいの?」

「う、うるさい。いつまでも昔のおれじゃないんだよ」

 ぼくは話をそこで打ち切って教室を飛び出した。

 廊下に出ると前を通る綾乃と出くわせた。

 綾乃は笑顔を浮かべて軽く手を振った。

(本当だな。爽やかで、明るい笑顔だ)



 近畿大会は奈良県の鴻池陸上競技場で行われた。

 昨日までの雨が上がった六月下旬の梅雨の晴れ間は、湿度が高くてアスリートにとってはいいコンディションとは言えなかった。

「条件はみな同じよ」

 と意気込んで3000メートルに挑んだ黒木先輩は八位入賞を果たしたが、インターハイのチケットを得ることは出来なかった。

 それとは対照的に綾乃は予選・準決勝ともトップのタイムで決勝に挑んでいた。

 綾乃はスタートダッシュのタイプではないが、スタートの反応は問題のないレベルに達していた。

 三都神社前の3%勾配の練習が功を奏したのか、後半からの伸びはさらに磨きが掛かっていた。

 ロケットスタートが売りのぼくは、トップスピードに至るのは40メートル過ぎだった。

 70メートルくらいまでならトップスピードを持続できるが、それを超えるとスピードを落としたままフィニッシュラインを超えるのだ。

 一方綾乃のトップスピードは60メートルを超えてからだ。

 そこからは並外れたスタミナで、トップスピードを維持したままフィニッシュラインを駆け抜けるのだ。 

 中距離でもインターハイレベルの力を持つ綾乃の強みがここにあった。 

 100メートルファイナリスト八名の中で12秒を切っているのは綾乃だけだ。

 今回ぼくはマネージャー枠でベンチ入りが許されていた。

 ホームストレートを間近まぢかのぞむこの位置なら、指示も出しやすかった。

 六位以内ならインターハイに出られる。

 転倒でもしない限り綾乃の枠外は考えられなかった。

 とはいえ、人間のする事だ。

 何が起こるか分かったもんじやない。

 そして、一番のウィークポイントは、心につかえている物があると走りが乱れる綾乃のメンタルの弱さだ。

 綾乃には少し力みが感じられた。

 こういう時の処方箋を、ぼくは葛城先生からもらっていた。

「早瀬」

 トラックに向かう綾乃を呼び止めた。

「ん?」

「いいアイスクリーム屋さん見つけたんだ。後で食べに行かない?」

「あい…?」

 一瞬拍子抜けした綾乃だったが、やがて笑い声が漏れた。

「アハハハ、なによ、もう。こんな時に」

「優勝したらおれのおごり。それ以外だったら綾乃のおごりだ」

「いいよ。優勝するから堀内君のおごりね」

「ああ、覚悟しているよ」

 綾乃は手を振ると軽やかに駆けて行った。

 クラウチングスタートからフィニッシュまで、綾乃はまるで笑っているかのようだった。

 綾乃の優勝タイムは11.89。

 また自己ベスト更新だった。


「アイスおごってね」

 そう言ってぼくを促してダックアウトを飛び出した綾乃だが、群がってきた取材記者やカメラマンに行く手を阻まれた。

「話聞かせてよ」

「まだ15歳だって? 一年生なのにすごいな」

「こっち向いて。笑って笑って」

「キミの学校って茶バツOKなの?」

 礼儀も何もなくマイクとカメラを向けられて綾乃はかなり戸惑っていた。

「待ってください。早瀬が困ってます」

 ぼくはその中に割って入った。

「なんだよお前は」

 カメラを持った男は無礼な物言いだった。

「マネージャーです。取材するなとは言いませんが、節度を守ってお願いします」

「なんだと、生意気な」

 別の一人が怒声ともつかない荒げた声を出した。

 ムッとしたぼくが一歩前に踏み出した時、綾乃がぼくの腕をつかんだ。

 綾乃は首を横に振って見せた後、記者たちに笑顔を向けた。

「取材もカメラもOKしますから、みなさん仲良くお願いしますね」

 その場を取りつくろった。

 綾乃はもう一度ぼくを見て頷いて見せた。

『わたしは大丈夫よ』

 綾乃の目がそう告げている。

 ぼくも頷いて返すしかなかった。

(早瀬…大人なんだな)

 カメラとマイクを向けられても、笑顔で受け答えしている綾乃が、とても遠くに感じてしまった。

 綾乃がぼくから離れてしまった。そんな感覚におちいった。

(何考えているんだ。そもそもおれたちは付き合っていないだろ)

 そうなんだ。ぼくたちには何もない。

 そしてぼくはもう必要ではなくなるんだ。

 綾乃はもっと大きく羽ばたかなくてはならないんだから。

(インターハイが終わったら、おれたちの関係は終わりだ)

 でも、それまでは出来るだけ力になってやるつもりだった。

 ぼくは少し離れた所で待つラムセス二世や黒木さんのかたわらへと引き下がった。

 綾乃は茨城県立笠松陸上競技場で行われるインターハイへの出場チケットを手に入れた。

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