第4話 ツンデレ男子




 貴樹君が一周半の中間ラインを越えた時、わたしはまだ100メートル以上引き離されたままだった。

(貴樹君、ペースを上げたね)

 手抜きではなく、真剣に勝負してくれている事が、わたしは嬉しかった。

 それでも今のペースなら、最後の一周の中間ラインを越えた辺りで追いつけるはずだ。

 わたしがバテなければの話だが……。

(苦しい…)

 わたしはペース配分なんて考えていなかった。

 これはゴールでぶっ倒れる800メートルの走りだった。

 このペースを続けていれば1500メートルは持たないかもしれない。

 それは分かっている。

 それでもこの走り方を選択した。

 わたしの真っ直ぐな気持ちを彼に信じてほしかったから。

 (とどけ! わたしの思い! ) 



                     *




 処方薬が切れるその日、練習の後でわたしは再び葛城医院を訪れた。

 もちろん貴樹君も一緒だ。

 葛城医院は狭原池の北西湖畔にあって、池の東岸に近いわたしの家からだと、周遊路を自転車で走れば五分程のところにあった。

 葛城医院の夕方の開業は六時からだった。

 五時まで南中陸上部の指導をしているから、通常の開業医よりも遅くしたのだと葛城先生は言った。

「わたしと先生の家って比較的近いのに、今まで気が付かなかったわ」

 わたしがそう言うと葛城先生はわたしの右膝を触りながらニコリとした。

「狭原池の〈平成の改修〉以前は、おれの家の裏側は密林地帯だったからね」

「そうだったんですね。わたしが生まれた時すでに狭原池の改修工事が始まっていたから、以前の姿は知りませんけど、今のような周遊路がなかったことは分かります。家の前が狭原池でしたから、ダンプカーやショベルカーとかいつも来てましたね。そうそう、新聞屋さんの無料チケットをもらったりして、狭原遊園にはよく行きましたよ。だいたいは夏のリバープールとは冬のアイススケートでしたけど」」

「ああ、分かる分かる。おれもそうだったから」

「でもなくなっちゃいましたね、狭原遊園。結構思い入れあったんですけど、マンションとか公園に変わってしまいましたね」

「そうだね。赤字続きだったから、仕方ないのかな。……よし、いいよ」

 葛城先生はわたしの膝がしらを軽く叩いて立ち上がった。

「膝の具合は大丈夫だと思うよ。堀内から聞いていると思うけど、スタートダッシュの練習はしばらく控えて置こうな。100メートルダッシュはスタンディングスタイルで行う事と、テーピングは地区予選の時もつけて走るように」

「は…はい」

 わたしは愛想笑いした。

 クラウチングスタートの練習ができない事と、本番でテーピングの負荷を感じたまま走る事への不安があった。

「心配しなくてもいいよ」

 とさっきまで窓の外を見ていた貴樹君が振り返った。

「中学の時の公式記録での早瀬の自己ベストタイムは12秒25だったよな」

「そうよ。一年位前のタイムだけど」

「なら大丈夫だ。おれが見る限り、今は12秒そこそこ。もしかしたら12秒切れるかもしれない。スタートダッシュで無理しないで、後半追い込めば大阪の地区予選レベルなら絶対大丈夫だ」

「堀内の言うとおりだ」

 と葛城先生が新しいテーピングを戸棚から出して、わたしに渡してくれた。

「いろいろ調べたが、南地区大会で13秒を切った事のある選手は二・三人しかいない。地区大会ではキミが一番速いと思うよ」

 わたしは照れ笑いを浮かべるしかなかった。

「先生、トイレ貸してください」

 と貴樹君が部屋を出た。

 トイレのドアの開け閉めの音がした後、葛城先生がわたしに近づいてきて聞いた。

「あいつ、最近どうしてる?」

「えっ?」

 にわかに葛城先生の意図するところが分からなかった。

「ああ、いや、なんだ……。堀内とキミは、その……」

 と言いかけて口ごもった。

 葛城先生の聞きたいことは分かった。

「いえ、わたしと堀内君は師弟関係といったところかな。先生が思っているような間柄ではないです」

「ああ、そうか。ゴメン変なこと聞いて。ただ、あいつのことが気になっててね。もう踏ん切り付いたのかなって……それだったら良かったなと思ったんだが……。いや、ゴメン忘れてくれ」

 照れ隠しに頭をかく先生にわたしは思い切って訪ねてみた。

「佐藤めぐみさんの事ですか?」

 葛城先生はわたしの想像をしのぐ驚愕きょうがくの顔を見せた。

「もしかして堀内が喋ったのか?」

 わたしは首を横に振った。

「他の誰かに聞いたわけでもありません。わたしはスタブロしてくれた時から、ずっと堀内君の事を見ていました。堀内君の眼中になくても、それでも追いかけていました。だから、気が付いたんです。堀内君と佐藤さんが付き合っているって事……」

 そんなこと誰かに話すつもりはなかった。

 他の誰かだったらきっと口にしなかったはずだ。

 わたしと貴樹君を引き合わせてくれた葛城先生だから甘えてしてしまったのだろう。

「そうかぁ」

 葛城先生は夕暮れる狭山池を窓越しに見ながら、何もかも察したように軽く溜息ためいきをついた。

「やっぱり、まだ引きずっているんだな……。屈託のない笑顔とキラキラした瞳……いつも輪の中心にいたなぁ、あいつ」

 早瀬さん、と改まった口調で、葛城先生が振り返った。

「堀内の事さ、頼まれてくれないかな。正直なところあいつと佐藤の間に何があったのか、おれは知らないんだ。だからおれには処方箋しょほうせんを出すことは出来ないけど、早瀬さんなら見つけられる気がするんだ」

「わたしなら処方箋を出せると?」

「たぶんね」

「なぜ、そう思うのですか?」

「キミと堀内ほど適合したスタブロ、見たことないからね」

「えっ? それだけですか?」

「そう、根拠はそれだけだよ。相性ってそんなもんだよ」

 あまりに短絡的な先生の答えに、わたしは笑ってしまった。

 トイレの開け閉めの音が聞こえた。

 貴樹君が診察室に入ってきた時、わたしは立ち上がった。

「また明日からよろしくお願いね、堀内君」

 わたしはあの頃の貴樹君を真似た満面の笑みを、あざといくらい見せつけてやった。

 



 今の貴樹君は輪の外にいた。

 決して人の群がるところには入っていかない。

 誰かに自分から話しかける様子もない。

 だからと言って話してくる相手を邪険にする事もなかった。

 軽い笑みを浮かべ、一見談笑しているかに見受けられるが、相手がその場から離れた途端、冷めた顔に戻るのだ。

 それは男子の場合だ。

 相手が女子だと言葉も少なく笑顔もない。

 目に見えた態度で嫌悪を露わにしていた。

「何よ、あいつ。ちょっといい顔してるからって、態度悪い!」

「女性軽視ってヤツよね。なんかムカツク」

「中学の時100メートルで全国大会一位になったから、テングになっているのよ」

 女子の評価は散々だった。

「綾乃ちゃんも、アイツはやめといた方がいいよ」

 貴樹君の前の席にいる、小学校からわたしと同じ学校に通っている山際佳代が耳打ちした。

「アイツ中学三年の時、怪我してすべての陸上大会に出れなくなってから今のような陰気な奴になったんだって。人間の本性って何かあった時に出るって言うじゃない。あれがアイツの本性だったのよ。だから綾乃ちゃんのようないいが係わる相手じゃないよ」

 わたしは苦笑するのが精いっぱいだった。

「ありがとう、佳代ちゃん」

 佳代ちゃんの言葉に少し苛立ったが、溜飲りゅういんを下げる言動は敢えて出さなかった。

(わたしが敵を作ってはいけない)

 貴樹君とみんなの仲を取り持つためにも、わたしは八方美人にならなくてはならないのだ。

(そう言えば、怪我をしたと言ってたわね)

 話の出所は恐らく中学の時の貴樹君の同級生だろう。

 貴樹君の怪我と佐藤めぐみさんの因果関係を計り知ることは出来ないけど、遠からず核心に触れる部分はあるような気がした。

「佳代ちゃん、ご忠告ありがとう。悪いけど、お昼休みは今まで通り席貸してね」

 精一杯の笑みを浮かべるわたしを、佳代ちゃんはいぶかしげに見た。




 葛城医院の再診の翌日から練習場所が変わった。

 わたしと貴樹君は狭原市の西端に位置する三都さんと神社に来ていた。

 三都神社から西に勾配のゆるい山道を200メートル程歩くと、天野街道にぶつかる。

 その街道は堺市との境界でもあった。

 昔、三都神社は熊野詣に向かう街道のすぐ傍という事もあって、賑わいを見せていたと聞くが、今は人影まばらな鎮守の森だった。

 貴樹君は三都神社の境内に向かう石段の手前で立ち止まった。

「三都神社は初めて?」

「ううん。初めてではないけど、そんなに来てないわ。わたしの地元の神社は狭原神社だから」

「ああ、あの辺りは狭原神社だね」

「もしかして願掛けに来たの?」

 わたしが聞くと貴樹君は珍しく笑った。

「まさか。神社に用があるんじやないんだ」

 そう言って貴樹君は石段に背中を向けた。

 そして今し方歩いてきた舗道を指さした。

「平坦に見えるけど、この道は3%の勾配があるんだ」

 貴樹君はすぐ近くの電柱に手を置いた。

「この電柱から三つ向こうの電柱を過ぎたところに外灯があるだろ? 分かるかい?」

「うん。分かるよ」

「ここから外灯までの距離がほぼ100メートルの直線なんだ」

 その外灯を過ぎるとゆるいカーブになっている。

「なるほど。あの外灯まで走るって事ね」

「そうだ。この神社が舗道の行き止まりになっているから、車はめったに来ないし、見晴らしがいいから車が来てもすぐに分かる。それにこの3%の勾配っていうのが足を鍛える練習にはいいんだよ。勾配のないグラウンドでは出来ないトレーニングなんだ」

「どういう感じで走ればいいの?」

「スタンディングスタイルであの外灯まで走って、戻ってくる時は軽い駆け足でいい」

「ダッシュしていいのね」

「スタートは80%くらいの力でいい。中ほどを超えたらダッシュだ。途中で少しでも違和感があったら即中止しろよ。酷使しない、無理しない。それが鉄則だ」

 わたしは頷いた。

 貴樹君が言った事はそのまま葛城先生の教えでもあった。

『いいね。体を痛めるのをトレーニングとは言わない。疲労した筋肉はそのままにしないでちゃんとほぐしてやる事。つまりストレッチや体操、温かいお湯で長く入浴するのもいいと思うよ。そして週一回は休息日を作る事。具体的には日曜日はお休みにする。日曜に大会がある時は土曜日は軽いストレッチだけでもいい。酷使しない、無理しない。これがおれのやり方だ。具体的な内容は堀内が熟知しているから、彼の指導に従えばいい』

 葛城先生は熱血トレーニング信者とは違って、冷徹な合理的トレーナーだとわたしは感じた。

 とその時、近くの古民家から顔を覗かせた八十歳くらいのお婆さんが、貴樹君の方に近づいてきた。

「あらぁ、貴樹君。久しぶりやね。大きくなったやんかぁ」

「あっ、松原のおばあちゃん! お久しぶりです。元気でしたか?」

 貴樹君はわたしには見せない満面の笑みを向けた。

「元気、元気。それより、どないしとったん? しばらく見んかったけど」

「いえ、高校受験があったんで走るのを止めていたんです」

「ああ、そうやったんかいな」

 お婆さんの目がわたしに移った。

「めぐみちゃんやね? あんたも大きくなったなぁ」

 言いながら近づいて来た。

「あ、あの、わたし……」

 わたしはなんて言っていいのか分からずそのまま口ごもってしまった。

「あらっ、違うわ。あらぁ、堪忍やで」

 お婆さんはバツが悪そうに貴樹君の方を見た。

「うち、目がうといさかいに……。てっきりそうやと決めつけてしもうたわ。ゴメンやで」

 貴樹君は苦笑していた。

「気にはなくていいですよ」

「そやけど、この娘は気ぃ悪いがな……いらん事言うたなぁ」

「大丈夫です。言い訳しないといけない相手じゃないですから」

 その言葉は結構グサリと胸に突き刺さった。

 ともあれこの場は貴樹君に合わせないと。

「大丈夫ですよ。堀内君はわたしのコーチなんですから」

「そんなら…ええんやけどな。まあ、気を付けてなあ」

 お婆さんはそう言うと、ガニ股で逃げるように家へ戻って行った。

(ここは貴樹君の練習場所だったんだ。そして傍には佐藤さんがいたのね)

 わたしはその事には触れないで、スタンディングスタイルを取った。

「始めていい?」

「ああ…いいよ」

 どこか心うつろな貴樹君に背中を向け、わたしはスタートを切った。





 狭原高校を中心に見た時、北北東に直線距離で600メートルの所にわたしの家がある。

 貴樹君の家は西南西に200メートルの所で学校からの距離はわたしの家より近かった。

 ちなみに三都神社は方角的には貴樹君の家と同じく西南西だが、そこより更に1キロ先にあった。

 わたしは三都神社に通うのは嫌いではなかった。

 正確に言うととても嬉しかった。

 放課後、練習のため神社に向かうのだが、彼は一度自宅に戻り、自転車に乗って、わたしが待つ三津屋の交差点へ迎えに来てくれる。

 そして自転車の後ろにわたしを乗せて連れて行ってくれるのだ。

「余分なトレーニングは避けないといけないから」

 とわたしを気遣っての事だが、その心遣いもだけど、貴樹君の背中に抱き着いて自転車に二人乗りの数分間は恋人気分だったからだ。




 三都神社での二週間の練習ののち、ついに大阪大会南地区予選が長居陸上競技場で行われた。

 だけど、貴樹君は競技場に来なかった。

『おれは部外者だから行かない。選手控室にも入れないんだから行く意味もない』

 そう言いながらも当日の朝、貴樹君は集合場所である陸上部の部室には来てくれていた。

 わたしの足に入念にテーピングを施すと、「無理はするなよ」とだけ言い残して部室を出て行った。

 狭原高校は陸上部員男女合わせて七名のエントリーだった。それと顧問のラムセス二世が仕方なくといった感じで付いてきていた。

(来て欲しかったな、貴樹君に)

 大会だとかそんなの関係なく、ただ傍にいて欲しかった。

「綾乃、そろそろ出番よ」

 キャプテンの黒木さんがわたしの肩を軽く叩いた。

 女子100メートルの予選が始まった。

 わたしは第一組だった。

(しょぱななんて……緊張するぅ…)

 ホームストレートについた。

『いいな。スタートにいい反応することだけ考えて、スタートダッシュは意識するな。早瀬の特徴は中盤からの伸びだ。忘れるなよ』

 今朝の貴樹君の言葉を思い返した。

 選手たちは一様にスタブロに足を掛けた。

(よし!)

 100メートル先のゴールラインを睨みつけた。

「セット」

 一瞬の静寂せいじゃくの後、ピストルが鳴った。

 いいスタートが切れた。

 30メートルを超えた辺りで、他の選手達が視界に入らなくなっていた。

 わたしがトップスピードになる60メートル辺りから、体が軽くなる感じがして、その勢いのままフィニッシュラインを超えた。

 メインスタンドがどよめいた。

 電光掲示板の一着のタイムが12.18と掲示されていた。

「すごいよ、綾乃!」

 黒木先輩が抱き着いてきた。

「インターハイのタイムだよ、これ」

「早瀬、二位以下を1秒以上開けての大差だよ」

「おめでとう。余裕で準決入りね」

 貴樹君がいない事の寂しさはあったが、部員全員の祝福を受けてわたしはとても嬉しかった。

 そして、勢いに乗ったわたしは決勝も12.10秒の自己新記録で優勝して、大阪大会入りを果たした。

 そして、次なるステップ、大阪陸上競技大会は五月下旬。中間テストが終わった最初の日曜日だった。




 南地区予選が終わって間もない頃の事だった。

「ねえ、一緒に勉強しない? 数学で教えて欲しいところがあるの」

 いつものように貴樹君の机を挟んで弁当を広げている時、わたしは切り出した。

 貴樹君は少し考えてから、

「いや、止めておこう」

 と静かに答えた。

「コーチは引き受けたが、それ以外の所で馴れ合うつもりはない」

 わたしはちょっとショックだった。

 貴樹君のかたくなな態度はいつもの事だが、少しは打ち解けてくれたのではないかと思っていた矢先だったからだ。

 窓際まどぎわ前列に陣取っている佳代ちゃんが貴樹君をにらみつけていた。

 わたしは何事もなかったように笑みを作った。

「ゴメン、ゴメン。堀内君も忙しいわよね。コーチしてもらっているのに家庭教師まで頼むなんて図々しいよね」

「悪いな。あんまり深く関わりあいたくないんだ」

 その言葉も結構こたえた。

 わたしには慢心まんしんがあったのかもしれない。

 中学の時、わたしは四人の男子から告白された。

 もちろん断った。わたしは貴樹君しか眼中になかったからだ。

 それとは別に「わたしはモテる」と言う自惚れがあったのかもしれない。

 だから貴樹君にも積極的になれた。

(わたしの事きっと振り向いてくれる)

 そう思っていたのだ。

 だけど甘かった。

『女はズルいから……』

 初めて一緒に昼ご飯をした時の貴樹君のつぶやきが、わたしの脳裏をよぎった。

 そうなのだ。一年前のあの時……。

 貴樹君と佐藤さんは四月半ばの記録会では、何の問題も感じられなかった。

 それなのに、五月初めの地区大会に貴樹君はいなかった。

 そして佐藤さんは400メートル走選手の高柳と言う男子の傍にいた。

 この辺りの急変を考えても、二人の間に何らかの異変があったのは間違いないだろう。

(佐藤さんの心変わり)

 そう考えるのが自然だろう。 

 裏切られたと感じたのではないか。

 『女はズルい』という言葉はその辺りから来ているような気がした。

(でも……)

 だからと言ってわたしまでそんな目で見られるいわれはない。

(わたしは何もしてないわよね)

 何だか腹が立ってきた。

(こうなったら、トコトコ押しまくってやる!)

 やけっぱちだ。

(佐藤さんと何があったのか知らないけど、だからと言ってわたしまで否定しないで! )

 恥ずかしがってはいられない。もっと積極的に出ようと思った。

「夕御飯はだれが作っているの?」

 わたしの唐突な質問に貴樹君は目を丸くした。

「なんだよそれ? 意味が分からないんだけど」 

「堀内君のお母さんが、帰ってから作っているの?」

「ああ、そうだよ。時々スーパーで総菜そうざいや弁当を買ったりするけど」

 そう答える貴樹君は後ろめたそうだった。

「おれが作ってやればいいんだが、どうも苦手で……。洗濯や掃除や弟の面倒は見ているんだけど」

(弟がいるんだ。一人っ子だとばかり思っていた)

 今それはどうでもいい。

「ねえ、晩御飯作ってあげようか?」

「えっ?」

「部活に付き合ってくれているお礼がしたいの。作り方も教えてあげるよ。そのうち堀内君も作れるようになるよ」

「いや、でも。いいのか?」

 断るかと思いきや、意外とあっさり受け入れてくれた。

(お母さんに負担を掛けたくない思いが強いのね)

 貴樹君の優しさの一面を見た思いだった。

「おれにも作れるようになるかな?」

「大丈夫よ。わたしだってお母さんが死んじゃった後、教えてくれる人もいないのに、テレビクッキングとか記憶にあるお母さんの見よう見まねで、ようやく今に至っているのよ」

「早瀬のお母さんって、そうだったのか……いつ?」

「小学校の五年生の時」

「そうか…おれの父親が家を出て行ったのと、同じ時期だったんだな」

「堀内君も大変だったのね」

 その言葉が精一杯だった。

 死別の場合、ほとんどの場合は事故死か病死だ。

 人に隠すような要因はあまりない。

 でも貴樹君のような生き別れだと、様々な事情を抱え、中には秘匿ひとくの必要な事だってある筈だ。

 ともあれ、今まで口にしなかった自身の話しをしてくれた事はとても嬉しかった。

「さっきは、言い方も含めて、悪かったな」

 と貴樹君が視線を斜め下にらせてそう言った。

「料理教えてくれるなら…そのお返しってわけじゃないけど…分からないところ一緒に勉強しようか…」

 照れているその仕草が可愛くて、わたしはクスクスと笑ってしまった。

「なんだよ…」

「ゴメン、何でもないよ」

(これって、逆ツンデレよね)

 ツンデレ好きな男子の気持ちがよく分かった。

 わたしはもう一度クスクスと笑った。

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