第3話 スーパーガール
ぼくが二週目のスタートラインに到達したのは、綾乃が最初の中間ラインを駆け抜けた5秒くらい後だった。
(早瀬のヤツ、早いなあ)
このまま走り続けたら、間違いなく追いつかれるだろう。
(負けたって問題はない)
いや、むしろ負けた方がぼくにとっても都合がよかった。
だがそれだけはしてはいけなかった。
真剣に追いかけてくる綾乃に対して、ぼくも真剣に逃げ切らなければならなかった。
(だって、おれも真剣なんだから)
*
一・二組合同の体育の授業だった。
「あいつだ、あいつ。噂のスーパーガールだ」
隣にいたクラスメイトの男子がそう言って、校庭のトラック付近に集まる女子の一角を指さした。
その中に昨日ぼくに声をかけてきた綾乃がいた。
「あの背の高いヤツだろ?」
「そうそう、茶髪の女子だ」
「茶髪はないだろ? ヤンキーかよ」
噂のスーパーガールが綾乃を指している事は、男子達の会話で分かった。
綾乃を含む四名の女子が50メートルのスタートに立った。
「位置について」
先生の合図で、綾乃たちはスタンディングスタイルを取った。
ホイッスルと共に四人はスタートを切ったが、真っ先に飛び出した綾乃は、団子状態の二位以下を10メートル以上引き離してゴールした。
男子の間でどよめきが起きた。
「6.8秒」
のコールでもう一度どよめいた。
「堀内、おまえより早いじゃないか」
「だよな」
とぼくは苦笑いを浮かべて相槌を打った。
スタンディングスタイルで6.8秒とは大したものだ。
100メートル12秒ちょっとで走れるという事か。
(インターハイレベルだな)
どうやらいい加減な気持ちでコーチを願い出た訳ではなさそうだ。
(だとしても、おれには関係ない)
「あいつスゲーな。短距離も早いんだな」
「短距離もって事は、他もすごいのか?」
とぼくは尋ねた。
「お前見てなかったのか? 先週おれたちが1500メートルの後、女子は1000メートル走っただろ?」
「いや、疲れてたから見てなかった」
「なんだよ。女子の走っている姿に興味ないなんて変態だぜ」
ぼくは苦笑するしかなかった。
「で、何分だったんだ?」
「3分3秒」
「すごいな」
素直にそう思った。
インターハイ女子3000メートルの優勝タイムは9分10秒前後だ。
(3000メートルに換算すれば9秒9って事か)
あくまでそれは単純計算で、1000メートルのペースで3000メートルを走り切るのは難しいのだが。
(それでも、やっぱりすごい)
つまり綾乃は中距離においても全国レベルという事だ。しかも優勝を狙えるタイムだった。
(おれにコーチを頼んだのは100メートルだったよな)
100メートルも確かに速い。
インターハイ出場基準にあると思う。
だが、インターハイに出場を果たしたところで、今のタイムでは恐らく予選落ちになるだろう。
組み合わせに恵まれて準決勝に進めたとしても、12秒を切れなければ決勝はまず不可能だ。
(それよりも…)
インターハイに置いて成績を残したいと考えるなら、100メートルではなく3000メートルあるいは1500メートルを選択した方が、より大きな可能性はある。
正直なところ、ぼくは走るのが好きで100メートルを選んだ訳ではなかった。
ぼくは汗をかくのが嫌いだったし、疲れる事も嫌いだった。
だから野球やサッカーはしなかった。
それよりも歴史や科学など机上の学びの方が性に合っていた。
そんなぼくが100メートル競技を始めたのは、誰よりも速くそして誰にも負けない唯一のものだったからだ。
もしぼくが綾乃のように短距離よりも中距離により高い可能性があると知ったら、しんどいのは嫌だけど、頂点に立てる方を選択していたに違いない。
「早瀬さん、すごいよ」
「綾乃ちゃん、さすがね」
笑顔を見せる綾乃の周りには人が集まっていた。
その光景にぼくは中学時代の自分を重ねた。
(もうおれにはあんな笑顔は出来ない)
めぐみが大好きで、大切で、信じていたぼくは、もうここにはいないのだ。
ふと、綾乃がこちらを見た。
ぼくは慌てて目を逸らした。
(そんな事、どうでもいいや)
ぼくが考える問題ではないのだ。
「堀内君。ちょっといいかな」
四時限目の授業が終わって、購買部にパンを買いに行こうと教室を出たところで綾乃に呼び止められた。
「悪いけどパンを買うんで話聞いてやる時間がないんだ」
「お弁当作ったの。食べてよ」
「はぁ?」
綾乃は左右の手に持った二つの弁当袋をぼくに見せた。
「お弁当食べながらこの前の続きを話したいの」
「話の続きって、コーチの事か?」
「そう」
「あれは断っただろ。それに、よく知らない女子から手作り弁当って、おかしいだろ」
ぼくの横を通り過ぎるクラスメイト達の好奇の視線が痛かった。
その視線を綾乃も感じたようだが、何か悪だくみを思いついたようないたずらな笑みを浮かべた。
「それなら教室で話しましょ」
「お、おい。ちょっと」
綾乃はぼくの腕を引っ張るとぼくの教室に入っていった。
そして持っていた二つのお弁当をぼくの机の上に置くと、前の席に手を掛けた。
「ねぇ、この席の人、このイス借りていいかな?」
「いいよ、綾乃ちゃん」
と窓際の前列で固まっている女子の一人が笑顔で手を振った。
「佳代ちゃん! 二組だったんだ」
「そうよ。わたしはいつもここで集まって食べるから勝手に使ってよ」
「ありがとね」
許可を得ると、綾乃はイスを反転させてぼくと向かい合わせに座った。
何か文句の一つでも言ってやりたかったが、綾乃が開いた弁当は見た目もよく美味しそうだった。
お腹が空いていた事も手伝って何も言い返せなかった。
「どうぞ。美味しいよ」
綾乃が先に開けた弁当箱よりひと回り大きな方をぼくに差し出した。
ぼくが戸惑っていると、
「食べていいよ」
促され開けた中身は同じものだったが、全て綾乃のそれより多く入っていた。
「これを食べたら、商談成立って訳か」
ぼくが言うと綾乃は可笑しそうに笑った。
「違うよ。これはお近づきの印。サギみたいな事しないわよ」
「わかるものんか。女はズルイから…」
言いかけてぼくは口をつぐんだ。
綾乃は少し箸を止めたが、何事もなかったように卵焼きを刺した。
「家の近所に庭で放し飼いにしてる鶏がいるの。その子が産んだ卵とても美味しいのよ」
美味しそうに食べる綾乃に触発されて、ぼくは卵焼きを一切れたべた。
「うまい」
「でしょ?」
綾乃は得意気に笑った。
「さあ、もっと食べて、野菜炒めもキンピラゴボウもわたしの手作りよ」
綾乃に勧められるまま食べたが、いずれも美味しかった。
(やばい。母さんより上手かも)
本当にそう思った。
すべて食べ終えた後、綾乃はポットと紙コップを取り出して飲み物を注いでくれた。
暖かいレモンティーだった。
「美味しかった?」
「うん、美味しかった」
自信満々の綾乃の笑顔は
「じゃあ、毎日作ってくるね」
「いやいや、それはいいよ」
「コーチしてくれるくれないとか関係なく作るよ」
「そんなの、早…え~と…」
「早瀬よ。早瀬綾乃」
「だから早瀬に悪いし、おれもコーチしたくない」
「だからそんなの関係なく作ってくるよ。コーチも諦めないけどね」
言いながら綾乃は空いた紙コップにレモンティーを注いでくれた。
(ズルイな、やっぱり)
それから毎日昼休みには、綾乃は弁当を持ってぼくの向かいの席にやってきた。
綾乃は気にしなくていいと言うが、それでもぼくは食材の費用や手間なんかを考えると、無神経ではいられなかった。
ぼくの家は母子家庭だから、正直なところお金はあまりなかった。
お金を稼ぐために朝早くから仕事に出ている母を思えば、消しゴム一つ鉛筆一つ買うのでさえ、一円でも安いところを探して買う事を心掛けている。
だから綾乃がぼくのためにしている毎日の出費なんかを考えると居た堪れなかったのだ。
「なあ、やめろよ、こんな事」
とぼくは綾乃に切り出した。
「食費だって馬鹿にならないだろ? 申し訳ないんだよ」
「だから、気にしないで。わたしお父さんの分もこしらえているのよ。二人分作るも三人分作るもそんなに変わんないから」
ぼくはこの時、綾乃が父親と二人暮らしではないかと感じた。
だが知り合って間もない間柄で、お母さんはいないのか? なんて聞ける訳もなかった。
「お父さん大手の商社マンなの。暇はないけど、しっかり稼いでくれているから、その辺りは心配しなくていいよ」
ちょっと自慢しちゃったね、と綾乃は付け加えて笑った。
ぼくは放課後のグラウンドを走る綾乃を見かけるようになっていた。
意識し始めていたと言うべきだろうか。
陸上では無名の狭原高校だが、スタブロを使った練習はやれているようだった。
でも……。
(ボロボロじゃないか)
かなり使い古したスタブロは手入れもされてなさそうだった。グラグラしていて、クラウチングスタートを切る時の安定感のなさが見て取れた。
短距離走は0.01秒を争う競技だ。
こんな不安定なスタブロを使っての練習では成果は上がらないし、足を痛める事だったある。
(でも、おれには関係ない)
高校受験に失敗したぼくは、大学受験では絶対に同じ過ちを犯してはいけなかった。
(陸上なんかに構ってはいられないんだ)
ぼくは帰宅部を選んだ。
一流大学を目指して今から勉強するためだ。
大学に行くにはお金がかかる。
ぼくの家計からすれば大金だ。
最初はアルバイトも考えたが、それでは勉強の時間が削られる。
本末転倒という訳だ。
だからぼくは四年間無償の特待生枠を狙って勉強する事にしたのだ。
「早瀬、走ります!」
元気な綾乃の声が聞こえて、ぼくは帰宅の足を止めた。
ホイッスルが鳴り、クラウチングスタートを切った綾乃はどこかぎこちなかった。
傷んだスタブロのせいで変な癖がついているのかもしれない。
(このままでは膝をやられる)
気にはなったが、ぼくには関係のない事だ。
再び帰路についたが、割り切れない思いが込み上げてきて、再び足を止めた。
もう一度グラウンドを振り返った時、ぼくに気づいた綾乃が駆け寄ってきた。
「今、帰り?」
「ああ、帰って勉強しなきゃいけないんだ」
コーチの件を持ち出される前に言い訳をした。
「残念ね。暇なとき教えてね。じゃあ」
それだけ言うと綾乃は反転して駆け出したいった。
後姿の綾乃が一瞬だが、膝を
「早瀬。膝が痛むんじゃないのか?」
翌日の昼休み。綾乃が持ってきた弁当をつつきながら尋ねた。
綾乃は少し眉をひそめたが、すぐいつもの笑顔を見せた。
「大した事はないと思うよ。時々、右膝の裏あたりがチクッてするの」
「いつからだ」
「ここ、三日くらい前からよ」
「それ以前に痛みを感じた事はあるのか?」
「うん。中学三年生の時に、南河内地区予選でズキッって来ちゃって予選敗退」
綾乃は苦笑した。
「中二の時は全国大会準決まで行ったのにって、周りから散々な言われようだったけどね」
「確か……早瀬は東中だって言ったよな」
「そうよ。どうしたの?」
「いや。なんか覚えがあってね。100メートルで同じ狭原市の女子が全国大会に出てるって」
「な~んだぁ、つまんない。わたしの事あんまり覚えてないのね。中学が違ったから隣に立つ事はなかったけど、わたし何度も堀内君の傍を通ったよ」
「そうなのか。気づかなかった」
話が逸れた。
「それより、それ以前に痛みはなかったのか?」
「そうねぇ。痛みっていうのはなかったけど、どう言えばいいの? 膝に違和感? みたいな感じがあったの」
「詳しく話してみろよ」
綾乃の話は大筋でこうだった。
スタートダッシュに弱い綾乃に対して、専属のコーチがスタートダッシュに重きを置いたトレーニングをスパルタ的に始めたらしい。
「つまり、違和感を抱えたまま練習を続けていたのが、競技本番に爆発したって言うんだな」
「そうよ」
「その後どうしていた? 痛みを引きずったまま練習していたのか?」
「ううん。受験もあったし、そのまま引退した。しばらく普通の生活していたら痛まなくなっていたわ」
「治療した訳ではないんだな」
「そうね。放置していたら自然に治っていたわ」
ぼくは中学の顧問の葛城先生の指導を思い返していた。
『堀内は最高にスタートダッシュがいい。その反面後半のパワーが足りないけど、それを補えば、鬼に金棒、なんて考えを持っちゃいけないよ。スタートダッシュに強い人、後半伸びてくる人。それぞれ持って生まれたものがあるとおれは考えてる。それを無理して自分にないものを補おうとすれば、きっと破綻する。だから特技を生かした練習をするんだ。練習が自分に合っていれば怪我はしにくいものだ。一番大切なのは怪我をしない事なんだよ』
ぼくはそれを綾乃に告げた。
「おれが見る限り、早瀬はスタミナタイプだから後半に強いはずだ。スタートダッシュに固執しないで、後半の伸びに磨きをかけるトレーニングをするべきだと思うよ」
ぼくの言葉に綾乃は目を大きく見開いた。
「ありがとう堀内君。わたしね、その事がずっとジレンマだったの。でも、今の言葉で吹っ切れた。これからはスタートダッシュに
「それよりも、今ある痛みを直さないと。二週間はテーピングして休養した方がいいと思う。たぶんだけど」
「だめよ。それは出来ない」
綾乃は笑顔ではなかった。
「早瀬。でも…」
「分かってる」
ぼくの言葉を
二週間後にゴールデンウィークに入る。その辺りでインターハイの大阪大会の各地区予選が始まるのだ。
だからそれ以上強く制止する事はできなかった。
「練習を辞める訳にはいかないの」
綾乃は
「お願い。力になって欲しい」
真顔を向ける綾乃に、
「分かったよ」
ぼくは頷くしかなかった。
「その代わり医者にはちゃんと見てもらうこと。それがコーチの条件だ」
その日の夕方、ぼくは綾乃を伴って狭原池北西湖畔近くにある スポーツ整形外科 葛城医院 を訪ねた。
正直言って、葛城先生と顔を合わせるのは、気まずかった。
大事に育ててもらったのに、いい終わり方とは言えない引退をしてしまったからだ。
「葛城って、もしかして南中陸上部の顧問の先生?」
唐突に綾乃に言われてぼくは少し驚いた。
「葛城先生を知ってるのか? 」
綾乃はクスクスっと小さく笑った。
「知ってるのかって? 本当に何にも覚えてないのね」
「どういう事?」
「何でもない」
「なんか気になるな」
ぼくは更に食いつこうとしたが、診察室に葛城先生が入ってきた。
「よお、久しぶりだな堀内」
「先生…お、お久しぶりです」
ぎこちないぼくの挨拶に続いて綾乃が、
「ご無沙汰しています、早瀬綾乃です。その節はご指導いただいてありがとうございます」
葛城先生は綾乃をまじまじと見つめて、
「ああ、東中のあの時の彼女か」
と面識があるようだった。
「先生、早瀬と面識あるんですか?」
「なに言ってるんだ、堀内。お前も知ってるだろ?」
「ええ??」
「なんだ覚えてないのか。なら、ちょっと外に出るか」
そう言って戸惑っているぼくと、何故か可笑しそうに笑っている綾乃を伴って医院の外に出た。
葛城医院の外は狭原池が広がっている。
狭原池は十六年の歳月をかけて、最近ようやく湖岸整備が終了し、池を取り囲む堤には、約2800メートルの周遊路が設けられていた。
葛城先生はぼくたちを池の周遊路に誘った。
散歩している人や走っている人がいた。
堤の下のちょっとした広場ではドッチボールやバレーボール。それに加えて中学・高校の部活らしいことも行われていた。
「堀内、スタブロやってくれないか」
「えっ?」
いきなり葛城先生にそう言われぼくは戸惑ったが、綾乃は意味あり気な笑みを、ぼくにではなく葛城先生に向けていた。
ぼくは言われるまま四つん這いになり、スタブロ役スタイルを取った。
ぼくの靴裏に綾乃の靴が重なり、綾乃はクラウチングスタイルを取った。
「セット」
葛城先生の合図で綾乃は腰を上げた。
そして葛城先生の柏手と同時に綾乃がスタートを切った時、ぼくはいつだったか味わった、この感触を思い出した。
ぼくは誰よりもスタブロ役が上手だと自負している。
だけど誰とでもベストなスタブロ役が出来るわけではなかった。
相性というのがあるのか、相手のキックをしっかり受け止め、その力を相手に伝え返すタイミングの合う相手が存在した。
そしてぼくが一番それを強く感じたのが三年前、中学一年で初めて参加した大阪中学選手権選考会で練習に付き合った、名も知らぬ女子だった。
あの時と同じ感覚が足に伝わってきたのだ。
20メートルほどダッシュして戻ってきた綾乃を、ぼくは呆然と見つめた。
そう、この夕日に照らされ亜麻色に輝く栗色の髪の女子は、間違いなくあの時の女子だった。
「堀内、思い出したようだな」
と葛城先生は綾乃に目配せしながら言った。
「お前というより、お前の体が覚えていたみたいだな」
ぼくは立ち上がり綾乃を見つめた。
「三年前のあの時の相手……早瀬だったのか。背も高くて、おれはてっきり年上だと思っていたよ」
綾乃は今までにない柔和な笑みを見せた。
「わたしはずっと覚えていたよ。わたしね……」
綾乃はまだ何か言いたそうだったが、ふいに葛城先生の方を向いた。
「それより、葛城先生って学校の教師じゃなかったんですね」
「ああ、医者だよ。スポーツ障害専門の整形外科医をしている。教師じゃないけど、南中学の校医も兼ねていて、その流れで陸上部の顧問をさせてもらっているんだ」
「先生はすごいんだよ」
とぼくは尊敬する葛城先生の事を喋りたかった。
「全日本100メートル三位に入ったこともあるんだ。医大生で100メートル全日本ファイナリストってすごいと思わないか。だからこそ、怪我しない練習とか、怪我した後の処置とかちゃんと分かっていて、だからおれは安心して走ることが出来たんだ」
葛城先生は頭をかいた。
「ちょっと褒めすぎ。それよりなんだい? 医院に来るってことは怪我かい?」
「ええ。早瀬の足の具合とこれからの練習方法について相談があるんです」
ぼくは早瀬を促し、葛城先生にすべてを話させた。
(早瀬、サンキューな)
ぼくは綾乃に感謝していた。
綾乃が一緒じゃなかったら、何事もなかったように葛城先生の間合いに入って行くなど出来なかったはずだ。
この時ぼくは、綾乃の力になってやろうと本気で思った。
翌日の放課後、ぼくはグラウンドに立っていた。
「いいよ別に。ちゃんとした指導できる人がいないんだから、全国大会優勝経験者ならありがたいぐらいよ。綾乃の事、頼んだよ」
陸上部のキャプテンで東中時代の綾乃の先輩でもある黒木さんが、部外者であるぼくの出入りを許可してくれた。
「とにかく、葛城先生が言った通り一週間はダッシュ禁止だ」
「分かったわ」
ぼくは葛城先生からいくつかテーピングとサポーターを預かっていた。
『いいか。テーピングのやり方は堀内が熟知しているから、彼に任せていればいい。トレーニングについても堀内に指示しているから、彼に従うこと。走り込みは一週間禁止。消炎剤を朝夕5日分出しておくから、食後胃腸薬と一緒に吞むこと。ムリしなければ二週間後の地区大会にはまずまずの体調で出場できるはずだ。とまれ、堀内の指導に従ってトレーニングしておけば、心配しなくても大丈夫だ』
葛城先生の言葉は綾乃も理解しているはずだから敢えて言う必要はないだろう。
ぼくはカバンの中からテーピングを出して綾乃の前に差し出した。
「筋肉への衝撃を軽減しながら練習する方法をとることにした。今の状態だと膝は自然治癒できる範囲だと先生は言っていただろ?」
「うん。色々ありがとう、堀内君」
「別に気にしなくていいよ。とにかく、焦りはあるかもしれないけど、速く走るのはしばらく我慢しろよな」
綾乃は頷き、そしてぼくの前に足を差し出した。
今から始まるトレーニングのため綾乃の右膝にテーピングをするのだが、ここに至ってぼくは少し戸惑ってしまった。
綾乃の足は白くてきれいだった。
(綾乃の肌ってきめ細やかできれいなんだな)
テーピングを施しながら、
綾乃と目が合う。
二度・三度繰り返した。
そのたび互いに目を逸らした。
夕暮れの少し肌寒い風に乗って綾乃からいい匂いがした。
(めぐみの匂いににてる……)
そう感じた時、酔いしれそうになる気持ちが覚めてしまった。
あんなに楽しかった思い出さえも、今となっては何もかも苦いものでしかなかった。
テーピングを終え、その上からサポーターを被せると、ぼくは立ち上がった。
(深入りしてはいけない)
あんな思いはもうゴメンだ。
「トレーニングを始める前に一つだけ言っておくよ」
とぼくは切り出した。
「コーチを引き受けるからには責任もってやるよ。ただし、インターハイまでだ。途中で負けてもそれで終わりだ。いいな」
綾乃は何か言いたげだったが、しばらくして頷いた。
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