第2話 ガールミーツボーイ
貴樹君がトラックの中間ラインに近づくと、わたしは目をつむった。
フライングだけは切りたくなかったので西村君のホイッスルにのみ全神経を注いだ。
間もなく西村君のホイッスルが聞こえた。
でもわたしは、すぐにはスタートせず、ホイッスルが鳴り終えてからスタートを切った。
(ズルいなんて言われたくない)
わたしは意地になっていたかもしれない。
(特に堀内君、あなたにだけはそんなこと言われたくない)
だってわたしは、三年前から貴樹君のことを追いかけていたのよ。
だから正々堂々あなたと真っ向勝負がしたい。
(この勝負、負けたくない)
わたしは半周先にいる貴樹君の背中を見つめた。
(負けないよ堀内君)
*
わたしが貴樹君に出会ったのは三年前の春。中学に入学して間もない新緑の頃だった。
走ることが好きだったわたしは、中学に入ると迷わず陸上部に入部した。
間もなく最初の大会、南河内地区春季陸上競技大会が万博記念競技場で行われ、わたしは一年生でただ一人出場する事になっていた。もっとも一年生の部員はわたし一人だったのだが。
種目は中距離。3000メートル走。
そのつもりだった。
だけど、三年生の先輩に一人だけわたしより早い人がいたので、わたしが一番早い100メートル走に回されてしまったのだ。
わたしはかなり緊張していた。
とにかく東中陸上部はかなりアバウトな部活だった。何よりもクラウチングスタートに必要なスターティングブロックがなかったのだ。
スターティングブロックはスタブロと略されている。
一応クラウチングスタートの練習はしていた。
だけどスタブロを使ってのスタートは今大会が初めてだった。
(どんな風に蹴り出せばいいのよ)
観客席越しにトラックのスタートラインに設置してあるスタブロを睨みながら、わたしは悶々と考え込んでいた。
ただ一人出場する一年生という事で、先輩たちから距離を取られていたわたしは、集合時間まで単独行動を取っていた。
東中陸上部はわたしにとってあまり居心地のいい場所とは言えなかった。
イジメられているわけではない。
馴染めないだけなのだ。
ただ一人の一年生の部員という事もあってか、わたしと先輩たちの間には一言では表現できない距離があった。
そのせいか、顧問の先生や先輩たちから野放しにされていた。
「ピストルが鳴ったら、前に走り出せばいい」
ただそれだけ。
指導できる者がいないということも、無きにしも非ずだが…。
(はぁ)
溜息越しに
「きみ、東中の選手だね。何か困っているのかな」
と声を掛けられた。
顔を上げると二十代後半くらいの男の人がいた。
「あのぉ、どちら様でしょうか……」
わたしが
「いやぁ、ごめんごめん。おれは南中の陸上部顧問・葛城という者だよ。もしかして、きみもスタブロを使うのは初めてなんじゃないのか?」
「えっ? あたりです。どうしてわかったんですか?」
「同じ狭原市だからね」
狭原市のロゴの入ったわたしのジャージの背中を指さした。
「うちの部もスタブロの予算が下りなくて困っているんだよ」
狭原市は陸上競技にあまり関心がないような口ぶりだった。
「きみは短距離選手なんだろ?」
「はい。100メートルに出ます」
「それじゃ、少しスタブロに慣れておくか」
「ええ…できればそうしたいのですが…」
わたしが口ごもると葛城さんはニコリとした。
「心配ないさ。代用できるものはあるよ」
葛城さんはそう言ってから肩越しに
「堀内、こっちに来てくれるか」
と少し離れたところにいる男子に声をかけた。
「なにか用ですか? 葛城先生」
と堀内と呼ばれた男子が駆け寄ってきた。さわやかな笑顔が印象的な男子生徒だった。
貴樹君との出会いだった。
「堀内、スタブロやってくれないか」
「わかりました。でも、ここでは」
「分かってるさ。一度スタジアムの外に出よう」
そう言うと葛城先生は、わたしと貴樹君を促してスタジアムの外にある芝生広場に連れ出した。
人の少ない場所を見つけると葛城先生は立ち止まった。
「この辺なら大丈夫か」
葛城先生がそう言うと、貴樹君は膝に当て物を入れてその場で四つん這いになり、靴の裏面を45°くらいの角度をつけてこちらに向けた。
「さあ、彼の足の裏スタブロだと思って合わせてみなさい」
「えっ…でも…」
咄嗟の事でわたしは少し戸惑った。
「遠慮しなくていいですよ」
スタブロ役の貴樹君が背中を向けた姿勢のままで声をかけてきた。
「同じ狭原市民の
そう笑いかけてくれる貴樹君に、わたしの気持ちは和やかになった。
数回練習をさせてもらい、なんとなくコツを掴んだわたしは、葛城先生と貴樹君にお礼を言った。
「ありがとうございます、葛城先生」
「がんばれよ」
と葛城先生は背中を向けた。
「それに堀内君も、ありがとうね」
「どういたしまして。これから男子100メートルがあるんで、それじゃ、失礼します」
さわやかな笑みを残して貴樹君も葛城先生の後を追った。
貴樹君は身長160センチ超えるわたしより少し背が低かったが、その年頃は女子の成長が早かったから、当時の彼はおそらく平均的な身長だったと思う。
何故かわたしは、走り去る貴樹君の後ろ姿から目を離せないでいた。
(なんだろう,この感じ…)
胸の奥から込み上げてくる不思議な感覚に、わたしは戸惑った。
スタジアムに向かう貴樹君の周りに、同じジャージを着た選手達が笑いながら集まって来た。
先輩達だろう。貴樹君は背中を軽く叩かれたり、頭を撫でられたり肩を抱かれたり、みんなから何らかのスキンシップを受けていた。
貴樹君の笑顔がみんなの笑顔を誘っている。そんな感じだった。
(先輩達から好かれているんだわ)
そういえばわたしはこんな風に先輩たちに笑顔を向けていただろうか。
先輩たちを差し置いてわたしが選ばれたことでやっかまれている、と思っていたが、本当にそうなんだろうか。
わたしは遠ざかる貴樹君の横顔にもう一度目をやった。
その爽やかな笑顔は、やはり
(わたし、先輩たちにこんな笑顔向けたことあるだろうか)
わたしは貴樹君との出会いに何かを
彼らがスタジアムに消えた後、わたしも観客席に座った。
100メートル予選の開始だ。
貴樹君の出番は第三組だった。
一組・二組のトップは13秒をようやく切るタイムだったし、いずれも3年生だった。
貴樹君が第一レーンで狭原南中学の代表が一年生だとコールされると、会場がどよめいた。
わたしも含めて、この間まで小学生だった一年生が、いきなり部の代表として出るのは珍しいようだ。
(うわぁ、緊張しちゃうじゃないの)
わたしは自分の事のように体が震えた。
(堀内君、緊張しているだろうな)
と気にかけたが、当の貴樹君は何事もなかったようにあの爽やかな笑顔で手を振り、深々とお辞儀をしていた。
八人のランナーがスタブロに足を掛けた。
「セット」
みんな緊張した面持ちで、クラウチングスタートの姿勢をとった。
その中で貴樹君だけが笑っていた。
笑っていたというよりは、それから始まることを楽しみにしている感じだった。
(走るのが楽しいんだわ)
ピストルが鳴ると真っ先に飛び出したのは貴樹君だった。
(早い!)
しかも微笑みを浮かべたまま。
そして二着を10メートル程離してゴールしたタイムは驚くべきものだった。
11秒45
スタジアムにどよめきが走った。
昨年の全日本中学校陸上競技選手権大会に出場した、大阪選抜選手の最低タイムは11秒66と聞いている。
(中一にしてすでに全国レベルって事?!)
先輩たちに揉みくちゃにされながらベンチに消えてゆく貴樹君を、わたしはただ、
「すみません。遅くなりました」
わたしは満面の笑みを浮かべて顧問と先輩たちが集うベンチに駆け寄っていった。
「観客席から、スタブロを使ったクラウチングスタートを見学していたんです」
笑顔を絶やさずに喋るわたしに、先輩たちは呆気にとられたような顔をしていた。
(キモイって思われたかな?)
でもそんなことはどうでもいい。
(笑顔。笑顔)
わたしは貴樹君を見習って内向的な自分を変えてやろうと思った。
そしてわたしの出番が来た。
わたしはメインスタンドのベンチからトラックに足を踏み入れた。
震えそうになった。
(忘れるな。笑顔よ。笑顔)
ホームストレートのスタート位置につくと、一直線に伸びる八本のレーンの先100メートルが、とてつもなく遠くに感じた。
わたしはスタジアムの雰囲気に吞まれそうになっていた。
(どうしよう。だめだ、わたし……)
緊張が
(えっ? なに、この感触?)
その瞬間、貴樹君と合わせた足の裏の感覚がふいに戻ってきた。
『ぼくはスタブロ役、結構得意なんですよ』
その言葉と貴樹君の爽やかな笑顔が脳裏に浮かんだ。
(ほんと、スタブロ上手ね。まるで貴樹君の足の裏のよう)
そう思うと嬉しくなってクスクス笑っていた。
「セット」
クラウチングスタートの姿勢をとった。
(楽しもう)
パーン
ピストルの音に不思議なくらい自然と体が反応した。
わたしは風になっていた。前を向くわたしの視界には誰もいなかった。
ひたすら走った。
飛んでいるようにも感じた。
(楽しい)
笑みを浮かべて走る貴樹君の気持ちが分かった気がした。
観客のざわめきが聞こえた。
スリットカメラのシャッター音が聞こえた時、わたしはフィニッシュラインを超えた事を確信した。
予選とはいえわたしは一着だった。
そして電光掲示板に12秒88のタイムが表示されたとき、スタジアムに歓声が上がった。
(えっ? わたし13秒を切ったの?)
一番驚いたのはわたしだったのかもしれない。
「綾乃、すごいじゃないの!」
ベンチに戻ると、先輩たちが駆け寄ってきた。
「わたしも頑張るから綾乃のパワー頂戴」
「わたしもゲット!」
ハイタッチの波の中心にいたのは意外にもわたしだった。
先輩たちの賛美と笑顔が今わたしに向けられている。
今までどうでもいいと思っていた先輩たちとのコミュニケーション。
こんなに暖かく、嬉しいものだとわたしは初めて知った。
(堀内君のおかげね。ありがとう)
トイレを口実に、先輩たちから解放されると、わたしは貴樹君の姿を探した。
お礼を言いたかったのもあるけど、話しかける切っ掛けが欲しかった。
(いた!)
メインスタンドの一角に葛城先生と貴樹君たち一行の姿を見止めた。
近寄ろうかと一歩踏み出したが、同じ学校の生徒でもない内気なわたしには高すぎるハードルだった。
貴樹君は相変わらず輪の中心にいた。
南中陸上部勢ぞろいといったところだろうか、スポーツウェアーの男女とマネージャーらしい三人のセーラー服の女子生徒がいた。
ふと、その中の一人、ロングできれいな黒髪の女子に、わたしは何らかのシンパシーを感じた。
その女子生徒は、先輩らしい二人のセーラー服の女子のように正面から貴樹君に語ることもなく、彼の左斜め後ろで静かに
だが、注意して見ていると、そうではなかった。
時折見せる貴樹君の流し目の先に彼女がいた。そして彼女も小さな反応を貴樹君に返していた。
わたしは自分の肩の力が抜けて行くのが分かった。
(この二人好き合っているんだわ……)
13秒を切って浮かれていた気持ちが嘘のように冷めてしまった。
そんなわたしの視線に気づいたのは、彼女の方だった。
わたしと目が合うと小さく会釈をした。
わたしも慌てて会釈を返したが、彼女の意図するものは分からなかった。
一年生ながら13秒を切った同じ狭原市民に対する社交辞令なんだろうか。
それとも貴樹君に惹かれたわたしの心を見透かしての事なんだろうか。
(もう、どっちでもいいよ)
わたしは背中を向けてメインスタンドを後にした。
予選タイムをトップで通過したわたしだったが、決勝では大きくタイムを落として、期待された府大会出場の切符を手に入れることはできなかった。
(陸上部、辞めようかな)
そう思った。
陸上部にいると貴樹君の話題が否応なく耳に入ってくるのだ。
「南中の堀内貴樹、大阪大会でも一着だったのよ」
「何を古いこと言ってるのよ。堀内は近畿大会も一位で、一年なのに全国大会出場が決定したのよ」
その名前を聞くだけでちょっと胸が痛む。
貴樹君と一緒にいた時間はほんの僅かだったのに、悔しいけどわたしは彼に恋をしてしまったようだ。
(でも…)
彼にはあのロングヘアーの女の子がいる。確認したわけではないけど、わたしには分かった。
(佐藤めぐみ)
大会登録の名簿にあった彼女の名前だ。
物静かで清楚な雰囲気を持つ彼女は、きっと男子なら誰もが憧れる女の子に違いない。
わたしは短く揃えた自分の栗色の髪に指を入れた。
「ねぇ、早瀬はどうするの?」
と3000メートルで唯一大阪大会に出場した、黒木先輩が聞いてきた。
「えっ、何がです」
黒木先輩は苦笑した。
「何がって…、聞いてなかったの? わたしはこれで引退するから3000メートルの空きができるでしょ? あんた本当は中距離やりたかったんじゃないの?」
「ああ、その話ですか」
「早瀬は短距離もかなり魅力的だけど、短距離と中距離はトレーニングの質が違うから、両立は難しいと思うよ。どちらか選ばないといけないけど……考えてる?」
そうだった。大会が終わってから考えて置くよう言われていた事だ。
(中距離に乗り換えようかな……でも、競技場に行けばあの二人と顔を合わせることになるし……)
そうなのだ。短距離か中距離かの話ではなく、貴樹君たちが仲良くしているところを見るのがキツイだけなのだ。
(じゃあ、やっぱり陸上をやめる?)
そうしようかと思うと、それも決められなかった。
人の輪の中に入る事が苦手だったわたしが、貴樹君との出会いで陸上部員のみんなと仲間になれた。
笑顔で接する事で居心地のいいクラスへと変わった。
(それなのに…)
わたしはまた
それは嫌だ。
(やっぱり、彼とのつながりをここで切りたくはない)
たとえ叶わない想いでもわたしは彼を見つめていたい。
わたしは前を見て走りたいと思った。
「わたし、やっぱり100メートルで行きたいです」
片思いでもいい。
わたしはこの気持ちを大切にしたいと思った。
大会だけではなく記録会や大阪府の強化選手会など含めたら、月一回は貴樹君を見る機会があった。
それは嬉しくもあり、それ以上の切なさもあった。
初めて会った時以来声をかける事はなく、すぐ傍まで近寄っても貴樹君はわたしに気づく様子もなかった。
(わたしとの事、忘れているのね)
わたしを意識しているのはむしろ佐藤さんの方だと感じた。
(思い過ごしかもしれない。でも…)
わたしが貴樹君に近寄ろうとすると、彼の斜め後ろにいる佐藤さんは、僅かではあるが彼との距離を縮めてくるのだ。
それでいて体が触れる距離には近寄らない。
(二人は、付き合っていることを周りにはアピールしてないんだわ)
貴樹君たちを見ていて何となくそれが分かった。
二年になった頃、貴樹君はわたしより少し背が高くなっている事に気が付いた。
爽やかで明るい貴樹君の周りには人が集まっている。
佐藤さんはと言うと、相変わらず貴樹君の斜め後ろで、静かだけどその存在をアピールしていた。
わたしもただ単に100メートルに出ていたわけではない。
確実にタイムを上げ、全国大会決勝戦レベルの自己ベスト12:48を叩き出していた。
そして二年の夏は、彼とともに大阪代表として全国大会に出場することになった。
わたしは体調が悪くタイムを落として準決勝で敗退したが、貴樹君は10秒93のタイムで100メートル走の頂点に立ったのだった。
(おめでとう、堀内君)
トラックのホームストレートで、仲間に囲まれて宙に舞う貴樹君の姿を見ながら、わたしは心から祝福を送った。
途中で敗れた悔しさはあったが、おめでとうの気持ちは本物だった。
(ただ……)
貴樹君の斜め後ろで涙ぐむ佐藤さんの姿がうらやましかった。そして彼女を
(それでもいつか。わたしの思いが届けばいい)
たとえ片思いで終わっても構わない。
(堀内君へのこの恋心に、酔いしれていたい)
そう自分に言い聞かせた。
わたしの中学二年の夏は終わった。
中学三年生のわたしはまた身長が伸びていた。165センチ。
伸びたのは身長だけではなくタイムも12秒30を切った。
四月の大阪記録会ではトップの成績だった。
貴樹君は相変わらず速かった。
何度走っても11秒を切る安定感があった。
彼の
(今シーズンも相変わらず仲いいね。二人ともよろしく)
わたしは
それから一か月後、万博記念競技場で南河内地区予選が行われる事になった。
「さあ、予選だから気楽に行こうね」
と井上真世先生がわたしに微笑みかけた。
井上先生は陸上部の顧問ではなくわたし専属のコーチだ。
わたしが中学二年で全国大会に出場したのを切っ掛けに、体育教員に空きができた事もあって、日体大出身で100メートルの全日本ファイナリストでもある彼女をスカウトしたというわけだ。
わたし自身も今大会で大阪代表に選ばれたら、スポーツ推薦で名門の私立高校に入学する事が決まっていた。
だけどわたしは井上先生が苦手だった。
得意でないスタートダッシュに重点を置いたトレーニングは、わたしには重荷だったし、最近少し膝に違和感を感じ始めていた。
「さあ、行くよ」
100メートル女子の部が始まろうとしていた。
しかし……わたしの心は激しく揺れていた。
貴樹君の姿が見えなかったのだ。
南中の陸上部の姿は確認できた。葛城先生もいた。受付で佐藤さんも見かけた。
でもその中に貴樹君はいなかった。
しかも貴樹君に関する妙なうわさ話が飛び交っていた。
「堀内出てないらしいぜ」
「マジかよ」
「なんでも怪我したとかで、引退したらしい」
「いや、おれは病気だと聞いたよ」
わたしはそのうわさ話を
(堀内君いるんでしょうね。どこにいるのよ。そうだ。彼女…佐藤めぐみさんを探せば……!!!)
と、わたしの瞳が佐藤さんを捉えた。
だが……。
(えっ? なに? )
わたしは自分の目を疑った。
佐藤さんは貴樹君ではない男子の
その男子の腕に手を掛け、貴樹君の時とは全く違って、周囲に気兼ねすることなく甘えるような仕草で寄り添っていた。
その男子生徒には見覚えがあった。一年からずっと南中陸上部に所属している高柳と言う400メートルの選手だった。
(なにがあったの? 一体、これはどういう事なの?)
目の前の現状を見る限り、佐藤さんと貴樹君が今まで通りの関係でないのは想像できた。
それはわかる。
(でも、どうしてなの? 堀内君は今どうしているの?)
わたしの心に荒波が渦巻いていた。
佐藤さんの顔が動いた。わたしに気が付いたのだ。
(ねえ、なにがあったの?)
わたしは佐藤さんを凝視したが、彼女は目を逸らした。
なおも佐藤さんとその男子を目で追いかけていたが、佐藤さんは二度とわたしと目を合わせようとはしなかった。
時間が来たのでわたしはホームストレートに入った。
動揺を抱えたままスタブロに足を掛けた。
(集中しなきゃ!)
「セット」
クラウチングスタイルについた。
パーン
ピストルの音と同時にスタートを切ったつもりだったが、立て続けにピストルが鳴った。
フライニングだった。しかもわたしだ。
「なに焦ってんのよ! 予選なのよ、余裕もちなさい!」
ベンチから井上先生の荒げた声が聞こえた。
(わかってるわよ、そんなこと)
だがわたしは、自分の中の焦りに気づいてはいなかった。
やり直しのスタートで、わたしは大きく出遅れてしまったのだ。
そして焦った挙句バランスを崩してしまった。
(痛い!)
この時、今まで感じたことのない痛みが膝を襲った。
(負けてたまるか!)
すぐに立て直したが、一瞬を争う100メートルでそれは致命傷だった。
わたしは14秒66というとんでもないタイムを出して予選敗退となった。
井上先生の愚痴も、スポーツ推薦取り消しも、わたしには何のダメージにもならなかった
貴樹君が競技場に姿を現さなかった事に比べたら、取るに足らないものだっだ。
(南中まで会いに行こうか)
何度そう思い、何度踏みとどまったか。
(くやしいけど、わたしと堀内君には何の繋がりもない)
そうなのだ。わたしが一方的に恋しているだけなんだ。
(片思いなんだから……)
わたしなんかが訪ねて来たら迷惑なはずだ。
わたしはしばらく学校を休んだ。
落ち込んでいる自分を見られたくはなかったし、いつものように明るく振舞えるほど、わたしは大人ではなかったから。
わたしは膝の痛みを理由に、残りの大会すべてを辞退して、陸上部を引退した。
わたしは地元の府立高校を受験する事にした。
進学校ではないが、毎年四割ほどの学生が難関私立大学や国公立大学に進学しているまずまずの高校だ。
何よりも家が近い。歩いて10分ほどだ。
小学五年生の時お母さんが死んじゃったから、わたしはお父さんと二人暮らしだった。
お父さんは当然仕事で忙しいから、家事全般はわたしがこなしていた。
だから学校が近いと助かる。
(お弁当だって作る時間があるわ)
貴樹君の事は気になるけど、わたしがどうこう出来る問題じゃない。
高校に入ったら取り敢えず陸上部に入部しようと考えていた。
(陸上をやっていれば、どこかの大会で堀内君と会えるかもしれない)
何の根拠もない淡い期待だけがわたしを支えていた。
春が来た。
希望通り狭原高校に入学した。
わたしのクラスは一年一組。本校舎二階の右端の突き当りにある教室がそうだった。
わたしに転機が訪れたのは、入学して三日目の朝だった。
中央階段から上がって、四組・三組、そして二組を通り過ぎようとしたその時、わたしは奇跡を見た。
今まさに二組の教室に入ろうとする男子生徒……その見覚えあるその横顔に……。わたしは全身に電気が走ったようなショックを受けた。
いや、見覚えなんてまどろっこしい表現は不要だ。
(堀内君! 同じ学校だったんだわ! しかも隣のクラスなのね)
間違いなかった。堀内貴樹君だ。
(神様!! ありがとう)
わたしは思わず両手を合わせて廊下の蛍光灯を見上げた。
「早瀬、お前面白いやつだな」
とクラスメイトの西村君が笑いながら通り過ぎていった。
「よお、貴樹」
と貴樹君の背中から声をかけていた。西村君も南中だと聞いていた。
その声に貴樹君が反応して振り返った。
「西村か。おはよう」
挨拶だけすませて背中を向けた。
(何かが違う)
爽やかで明るい笑顔の貴樹君ではなかった。
わたしは窓際の一番後ろの席に着く貴樹君を廊下から見つめていた。
その日からわたしの目は貴樹君ばかり追っていた。
一・二組合同で行う体育の授業は男女別々だが、トラック競技は傍で見ることができた。
女子は鉄棒下の砂場で幅跳びが行われたが、競技者以外はいたって暇なのでわたしは男子の方に意識が向いていた。
貴樹君は
男子は50メートル走だった。
(どんな走りをするんだろう)
わたしは胸をときめかせて見ていたが、貴樹君は7秒をギリギリ切る走りしか見せてくれなかった。
「あいつ、手を抜いてやんの」
近くにやって来た西村君が呟くように言った。
「本当ね。50メートルなら6秒切ってもおかしくないのにね」
わたしは彼の言葉に乗っかった。
「貴樹のこと知っているのか?」
わたしはニヤリとした。
「当然よ。だってわたし、中学の時100メートルで全国大会に出た事あるのよ」
「ああ、そういう事か。あっ、早瀬って、もしかして狭原東中の早瀬綾乃か?」
「ええ、そうよ」
「なら、貴樹とも面識あるよな」
「もっとも、堀内君はわたしの事なんて眼中にないみたいだったけどね」
「仕方ないさ、めぐみにゾッコンだったからな」
「めぐみ? 」
わたしはとぼけて見せた。
「いや、何でもないさ。アハハハ……」
西村君はバツが悪そうに頭をかき言葉を濁して去って行った。
わたしもそれ以上は踏み込まなかった。
その日のうちにわたしは陸上部へ入部した。
東中の先輩だった黒木さんに誘われたこともあったが、本音は別のところにあった。
(堀内君が入部してくれるかも)
だけど貴樹君は入部する気配すらなかった。
(わたしから声を掛けたらどうだろうか)
考えただけでも顔が熱くなった。
(でもそれしかない)
貴樹君に近づく切っ掛けは、陸上以外に考えられなかった。
(あなたが好きです)
なんて真っ向勝負、内気なわたしにはとてもできない。
毎日そんな事ばかり考えていたわたしに、西村君がいい情報を提供してくれた。
「あいつ昼めしにパンばっかり食べているんだよな」
「パンが好きなの」
「違うよ」
西村君は苦笑した。
「ここの食堂、結構激戦なんだよな」
「激戦?」
お弁当持参のわたしは、まだ利用していないこの学校の食堂事情を何も知らなかった。
「ここ一組と隣の二組は、体育館下の食堂から最も遠い場所にあるだろ? 」
(確かに、そうね)
この教室は実習棟には最も近いが、反対側にある体育館からは最も遠い位置にあった。
「A定食B定食のお得な人気メニューは食堂に近い教室から順番に売れて行くから、あいつがたどり着く頃には在庫豊富なラーメンやうどんしか残っていないんだ。最初のうちならそれでもいいけど、毎日ラーメンばっかりはちょっとキツイわな」
「た、確かにそうね」
わたしは苦笑した。
「お母さんとか、作ってくれないの?」
「あいつとこ母子家庭だし、お袋さんは仕事で朝早いから作れないんだよ。なんなら、お前が作ってあげたら?」
「な、なんでわたしが?」
「嘘だよ。冗談冗談。ハハハハ」
西村君は笑ってその場を離れた。
(心を読まれたのかな)
わたしは気恥ずかしさで一杯になったが、この事は
桜の花びらがほとんど落ちた二日後、わたしに千載一遇のチャンスが巡ってきた。
実習棟から教室に戻る渡り廊下で、前からやってくる貴樹君を見つけたのだ。
行き交う生徒は二・三人程だった。
(今よ! 声をかけるのは今しかないよ)
胸が高鳴った。貴樹君が近づくにつれ足も震えだした。
(きっと、真っ赤な顔をしているに違いないわ)
恥ずかしさで一杯になっていた。
(でも、声を掛けないと)
わたしは貴樹君とすれ違いざまに立ち止まり、そして振り返った。
貴樹君の背中がすぐそこにあった。
わたしは胸に手を当て、呼吸を整えると、無理矢理笑って見せた。
「ねぇ、南中の堀内貴樹君よね」
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