女はズルいよ

白鳥かおる

第1話 プロローグ

これは、携帯電話が高校生に普及し始めたころの、平成時代半ばのおはなしです。


                              白鳥 かおる





(暑い…)

 9月上旬の夕方は、まだ夏だと実感した。

 ぼくは今、大阪府立狭原高校のグラウンドにある300メートルトラックのスタートラインに立っている。

 そしてぼくのすぐ隣には、ランニングウェアを身に着けた早瀬綾乃はやせあやのがいた。

 綾乃はウォーミングアップしながら時々ぼくを一瞥するものの、寡黙だった。


『わたしと勝負して』


 二日前の金曜日、綾乃の果たし状にぼくが同意して成立したこの勝負だ。

 これから始まるのは1500メートル走。

 でも普通の1500メートル走ではない。

 ぼくが先にスタートを切り、150メートル先にある中間ラインに到達したとき、綾乃がスタートするというものだ。

 ぼくの1500メートル走のタイムは、男子高校生平均タイムを1分少々上回る5分フラットだ。

遅くはない。いや、学年でもかなり早い方だ。普通に考えたら、女子に負けるはずなどないのだ。


 だが綾乃は別格だった。

 狭原高校の女子は1500ではなく1000メートル走を必須としているが、綾乃は3分03秒という驚異的な数字を叩き出している。

 そしてこれを1500メートルに換算すると、なんと4分35秒くらい。

 お解りだろう。綾乃が150メートルのハンデを背負う理由わけが。

 でもこれでは綾乃の方が3秒くらい不利になるのだが、

「それくらい大丈夫よ。必ず堀内ほりうち君に追いついてみせるから」

 いつもになく強気な口調でそう言い切っていた。

 

貴樹たかき、準備はいいか?」

 とホイッスルを手にした西村智一にしむらともかずがぼくに聞いた。

「ああ、OKだ」

 ぼくは頷きながら、綾乃に目をやった。

 西村も綾乃を振り返って尋ねた。

「準備はいいか?」

「いいわ」

 と綾乃が頷く。


 短く揃えた綾乃の栗色の髪が、夕日に照らされて亜麻色に光っていた。

「わかった。それでは、セット」

 西村がホイッスルをくわえた。

 ちょっぴり緊張感が走った。


 甲高いホイッスルの音色が夕焼けの空に響くと、ぼくはスタートを切った。

 顔を上げるその先に、実習棟へ向かう渡り廊下が目に飛び込んだ。


(ここが、始まりの場所だったんだな)

 そこは綾乃と初めて会った場所だった。

 背後にいる綾乃もそれを感じているのだろうか。

 ぼくは五ヶ月前のあの日を思い返していた。




 

                     *





「ねぇ、南中の堀内貴樹君よね」

 本校舎から化学実験室に向かう渡り廊下を歩いている時、背後から声を掛けられた。

 振り返ると、人影まばらな中、長身でショートカットの女子が、不自然なくらい満面の笑みを浮かべて近づいてきた。

春の日差しを受けてキラキラ輝くその栗色の髪と端正な顔立ちに、ぼくは言葉を出せないまま立ち尽くしてまった。

「わたし、東中出身の早瀬綾乃よ。よろしくね」

 狭原市には三つの中学校があってそれぞれ北中・東中・南中の愛称で呼ばれていた。


「なにか用か?」

 われに返ったぼくは不愛想な物言いで対した。

 早瀬綾乃と名乗った女子は一瞬緊張したようだったが、すぐに笑みを作って見せた。

「二年前、二年生で全国中学陸上大会の100メートルで優勝した堀内君でしょ?」

「チッ、それかよ」

 ぼくは軽く舌打ちした。嫌悪感を隠すつもりもなかった。

「だったらどうなんだ?」

「もう一度走ってみない?」

 ぼくは首を横に振った。

「おれはもう走らない。陸上部の勧誘ならお断りだ」

 それじゃな、と軽く手を振って背中を向けると、

「待って」

と綾乃はぼくの手首をつかんだ。

「確かに、陸上部に誘うつもりで声をかけたわ。でも、入部が嫌なら、無理には誘わないから、お願いがあるの」

「お願い?」

 ぼくは綾乃につかまれた手を払いながら振り返った。

「わたしにコーチしてほしいの」

「コーチ? なんだよそれ」

「無理言っているのはわかっているわ。でも、早く走るコツとかポイントは知っているはずよ。それを教えてほしいの」

「そんな事は顧問に頼めよ。おれはもう陸上はやらないんだ」

「頼めるものなら頼むよ。ねぇ、陸上部の顧問って誰か知ってる?」

「そんなの知るかよ。もう行くよ」

「ちょっと待ってよ。ラムセス二世よ、顧問は」


 ラムセス二世……。

 ぼくがこれから向かう化学実験室を仕切っている小山先生だ。

 定年前だというのに、見た目に後期高齢者みたく見える丸坊主の先生は、いつかテレビで見たラムセス二世のミイラにそっくりだったという事で、先輩達から伝承されているあだ名だった。

 父親も先生だったらしく、二世教師という事もそのあだ名に起因しているらしい。


 綾乃の言いたいことはよくわかった。

 ラムセス二世こと小山先生はバリバリの文系で、見た目にわかる虚弱体質は陸上とは無縁の存在だった。

「名ばかり顧問ってわけか」

「そうなの。だからー」

「だめだ。おれには関係ない」

「そこをなんとか! お願い」

 片眼をつむり顔の前で手を合わせる綾乃の仕草は、その素材の良さもあって、素直に可愛いいと思った。


 もしこれが、佐藤さとうめぐみの裏切りを知らない以前のぼくだったら、コロリと騙されていたに違いない。

(笑みを振りまけば、男は誰でもなびくと思っているんだろうな)

 綾乃は確かに美人だ。

 だからこそ、それを意識したそのあざとさが気に食わなかった。


 ぼくは無言のままきびすを返して実習棟へ向かった。

「エーッ! 無視なんてひどいよ」

 綾乃の甘えたような物言いに、ぼくはまたムカッとしたが、相手にしなかった。

「ちょっと待ってよ。話しはちゃんと聞いてほしいわ」

 怒る風でもなく到って穏やかな口調で、綾乃が横に並んで歩きだした。

「おまえ、しつこいぞ」

 ぼくは少し苛立った。

「これから科学実験室に行くんだよ。こんなことしていたら遅刻するじゃないか」

 ぼくが怒ると,綾乃は意外にも弱気な表情を見せた。

「わかったわよ。不躾ぶしつけだったのは謝るわ」

 と深く頭を下げた。

「また改めて伺うから、その時は話を聞いてね」

「ちょっと待てよ。話なんて聞かないからな」

 ぼくは念を押すようそう言ったが、

「じゃあ、またね」

 と、綾乃は人の話も聞かず本校舎の方に駆け出して行った。

(なんなんだあいつ。いきなり現れ、嵐のように去っていきやがって)

 とにかくこれっきりにしてくれたらそれでいいと思った。

(ちょっと待てよ……)

 ぼくは急ぎ足を止めて振り返った。

(どこかで会った事がある気がするな、あいつ)


 すでに視界の先に綾乃の姿はなかった。

(まあ、どうでもいいや)

 受験に失敗して入学したこの高校にいるぼくは、ぼくであってぼくでないのだ。

 めぐみの裏切りにあったあの時から、その後この身に降りかかることは全て他人事だと感じるようになっていた。

(とにかく、勉強だけはしっかりやっておこう)

 大学受験はもう失敗したくなかった。


 と、始業のベルが鳴った。

(い、いけない!)

 ぼくは実習棟に駆け込んだ。

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