47.重なる吐息

 ハルピュグルの里から戻って、もう五日になる。

 お仕事をお休みにしたわたし達は、のんびりとした時間を過ごしていた。


 新しいレシピに挑戦してみたり、模様替えをしてみたり。お散歩やお買い物もいつもよりのんびりと。お互いに本をテーブルに積んで、興味のあるものから読んでいくなんて事もした。


 ラルはやっぱり塞ぎ込む事もあるけれど、わたしに何かを零したりはしない。無理をしているようなら聞き出すけれど、まだその時じゃない気もしている。それにきっと、抱えられなくなる前に話してくれるだろうとも信じている。


 

「名前?」


 今日も穏やかなお休みの日。明日辺りから、またお仕事に戻ろうかとそんな話が終わった時の事だった。


「そう、名前。アヤオの名前って、アヤオの世界ではどんな字で書くのかなって思って」


 ダイニングテーブルに向かって、お茶とおやつを楽しんでいる最中のラルの言葉。濃いめに淹れたコーヒーが、芳しく湯気を立ち上らせている。


「元の世界では苗字……家の名前が先にくるの。ユキシロ アヤオって。字はね……」


 わたしは手近な棚にあるメモ帳とペンをへ手を伸ばす。座ったまま椅子をそちらに傾けているから、椅子の脚が床から浮いた。倒れないぎりぎりのバランスで、やっとメモ帳に手が届いた。


「危ないなぁ」

「立つのがちょっと面倒で」


 苦笑いのラルに肩を竦めて見せる。何度か椅子を倒しているのを見ているラルからしたら心配なのかもしれないけれど、この距離で立つのがどうにも億劫なのだ。


「わたしの名前はこうやって書くの」


――雪白 綺緒――


 久しぶりに書いた字は、何だか少し角張ってしまった。

 ラルはテーブルに身を乗り出して、わたしの書いた名前を指で辿る。


「意味ってあるの? この名前の意味」


「これは雪。これは白。これで家の名前、ユキシロだね。綺の字は綾織りの絹とかって意味があるって聞いたかな。美しいとか華やかとか、そういう意味もあるみたいだけど」


 ラルはペンを持って、空いた場所にわたしの名前を書き真似ている。書き順がばらばらで、なかなかに苦戦しているようだ。


「緒の字は細い紐とか、糸の端とか。綾織りと、細い紐。沢山の人と縁を結んで、交差して生地を紡ぐように強く美しく在れますようにって、そういう意味が込められてるってお母さんに聞いた事があるの」

「素敵な名前だね。この文字も綺麗だ」


 そう言ってラルは綺緒の文字を指でなぞる。愛おしむかのようなその指先に、なんだか気恥ずかしくなってしまう。顔に宿る熱を誤魔化すようにコーヒーを飲む。やっぱり苦くて、ミルクを注いだ。


「ラルの名前にも意味があるの?」

「うん、あるよ」


 ラルは持っていたペンで、流れるように名前を書き記す。


――ジェラルド・アストルム・フォン・ルプス――


「ジェラルドっていう名前は、昔、ハルピュグルと契約してその力を自分のものにしたって言われている祖先の名前。ハルピュグルはハルピュイアって魔物の名前を持つ鷲の事なんだけど、元々ハルピュグルはハルピュイアの呪いに苦しめられていた。その呪いを解き放った事でハルピュグルに認められたっていうのが、俺達一族の始まり……らしい」


 本当かどうかは分からないくらい昔の事だけど、なんて言ってラルは笑う。カップを口に寄せ、濃いめのコーヒーを飲んだラルは苦味も気にならないようだ。


「アストルムっていうのは、天の加護っていう意味。フォン・ルプスの家名は初代からずっと名乗っていて、長の一族だけが家名を持つんだ」

「天の加護。なんか格好いいね」

「オレが生まれた夜は流星群が綺麗な夜だったんだって。それでこの子には天の加護があるのだろうと、爺様がつけてくれたって」

「……愛されてたね、ラルもわたしも」


 互いの名前に込められた想い。

 それを改めて実感したわたしの目の奥が熱い。浮かび上がる涙を堪えようと細く息を吐くけれど、あまり効果はないみたいだ。


「うん、大事にされていたね。お互い」


 テーブルの上に置いたままのわたしの手に、ラルの大きな手が重なった。包み込まれるとその温もりに、込み上げるものが我慢出来なくなってしまう。

 ぽろりと零れた涙を誤魔化そうと笑って見せる。しかし腰を浮かせたラルの行動に、わたしの涙は一瞬で引っ込んでしまった。


 ラルが、わたしの目元に、唇を寄せている。


 目尻に溜まっていた涙を拭うように、その唇はどこまでも優しい。

 触れる吐息が擽ったくて、肩が跳ねる。


 唇が目尻から頬へと、涙の跡を辿るように滑っていく。間近で見た青藍の瞳はいつもよりも色濃くて、吸い込まれてしまいそう。目が離せなくて胸が苦しい。


 わたしの片手は相変わらず、ラルの手に包まれたままだ。テーブルにその手が縫い止められて動く事も出来やしない。

 ラルがわたしの顎に逆手を掛ける。その先に何があるか、分からないほど子どもでもない。溺れるくらいに深い青藍から逃れるように、わたしが目を閉じたのとほぼ同時だった。


 唇が重なる。

 早鐘をうつ鼓動が喧しい。恥ずかしいのに離れたくない。ふわふわと心が浮き立つような不思議な感覚。


 唇がゆっくりと離れていく。

 促されるように目を開くと、まだ近い場所にラルの顔がある。離れた温もりが恋しくて、わたしはラルの唇を指でなぞっていった。


「……アヤオ、煽らないでくれると助かるんだけど」

「え?」


 呻くような声に、我に返る。びくりと指先を離すと、困ったように笑うラルと目が合った。


「そんな事してたら食べられちゃうよ」


 食べる。

 ええと……それはそういう意味なのでしょうか。耳まで熱くなってしまって、わたしはテーブルに視線を逃がした。


「真っ赤で可愛いねぇ」

「そういうラルだって、耳が赤いんだけど」


 お揃いのピアスが揺れる耳が、ラルだって赤くなっている。指摘してやるとわざとらしく肩を竦められた。


「好きな人に触れるのは緊張するから仕方ないでしょ」

「ラルも緊張するの?」

「もちろん。確かめてみる?」

「……結構です」


 ラルは自分の胸元を指でとんとんと叩くけれど、さすがにそこに触れて確かめるのは恥ずかしい。残念、なんて笑うラルにまた揶揄われたと気付くのは難しくなくて。

 それでもラルが嬉しそうに表情を緩めるものだから、わたしまで口元が綻んでいた。


「……何だか胸がおかしくなりそうだったけど……好き、かも」


 ふわふわする気持ちが残っていたのか、小さく本音が漏れた。

 それを耳にしたラルの顔から表情が消える。何かまずい事を言ってしまったかと思った時には、わたしの体はラルに抱き上げられていた。


「アヤオは本当に煽るよねぇ」

「はい?!」

「今日は離してあげられない。ずっとオレの膝の上に居て」

「待って待って待って」

「待たない」


 ラルはわたしを抱いたまま、リビングのソファーに腰を下ろす。その上にわたしを座らせるけれど、ラルを跨ぐようなこの格好は恥ずかしくてどうにかなってしまいそう。


「下ろして、お願い」

「無理」


 腰にはラルの片腕が回って、逃げる事も叶わない。

 わたしの後頭部に手が添えられて、また唇が重なっていた。拒むことなんて出来なくて、わたしは両手をラルの肩に添えていた。


 結局わたしは、ラルが満足するまで何度もキスをされていた。最後までラルは「煽るのが悪い」なんて言っていたけれど、理不尽過ぎる。

 すっかりと日も落ちて、夕陽の色がカーテンから透けて入ってきていた。

 

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