#3 忘却の姫

第23話 忘れられたとしても

 魔女の権利が移譲したのであれば、狙いは金色の髪をした少女だけだ。

 論理的に考えれば、魔女でなくなったアルアミカはこの戦いに参加していない……、

 徒労に終わるのだから、わざわざ相手にする必要はない――のだが。


 魔女フルッフの狙いはあくまでもアルアミカであり、アリス姫においては、ついでに過ぎなかった。

 役目が入れ替わったからと言ってそう簡単に標的を変えられるほど、感情を切って捨てているわけではない。


 ……許せない。

 心を開いたのは間違いだった。


 教室の片隅で縮こまって、本を読み続けていれば良かった……狭まった視界の先から伸びてきた眩しいほどの光を放つ手を、握らなければ……。


 アルアミカが引っ張り出してさえいなければ、簡単に信頼なんてしなければ……あんなに傷つくこともなかったのに。


「ぼくはずっと一人でいい。

 ……好き嫌いで他人を選ばない。

 利害が一致して初めて、手を組もうって思えるんだから」



「姫様が、一体どうしたんだ!?」


「いや、なんか、アタシのことを母様って……勘違いしてるわけがないし、なんだか前に見た時よりも甘えん坊になってるのよ……。

 だから多分、記憶が数年ほど飛んじゃってるのかもしれない……」


 甘えん坊なのは今も昔も変わらない。

 母親を前にすれば普段より幼く見えてもおかしくないため、記憶喪失と断言するのはまだ早いかもしれない。


「ほら……起きて……。ねえ、えっと……」


 再び眠りに落ちそうだったアリス姫を起こし、お互いに座って向き合う。

 アリス姫はかくん、と首が安定しておらず座っていながらも眠れそうだ。

 もしも、本当に記憶喪失なのであれば、一体どの程度を忘れているのか。


 さすがに、出会って間もないアルアミカには、質問の内容は考えられない。


 ……母親をアタシと勘違いしているなら、昨日の大火事は知らないのよね……。


 母親の死を、認めたくないがために本能的に彼女自身が記憶を切り落とした。

 記憶と現実の統合性を取るためにアルアミカという代替物を母親と認識した――という仮説を立ててみれば、反論の余地がないほど納得してしまった。


 だって、彼女はまだ十歳だ。

 母親と父親を亡くしてまともでいられる方が心配になる。

 大声で泣くとか犯人を恨むとか……感情的になってくれるのが理想だが、度を超えた感情を制御できないから、と記憶を消して逃げるのも、正常だと言える。


 きっと、時間が解決してくれる傷なのだろう……ただ、彼女が置かれている状況はゆっくりと療養を許してくれない切迫したものだ。


「あ、そうだ、ディンゴ……ディンゴは覚えてる!?」


 アルアミカを母親の代替物とした以上、アリス姫が見ている物語の登場人物にアルアミカは存在しないことになる。

 アルアミカの代替物が後々出てくるとややこしいが、記憶から切り捨てた人物を、(アリス姫にとっての)現在は存在しない人物に当てはめている、と仮説を立てていくしかない。


「……ん、母様、……なに?」


 頻繁に意識が朦朧としているのは脳への負担が大きいからなのか。


「あなたを守る騎士のことは覚えてる?」

「覚えてる、も、なにも……」


 彼女が口にした名は、アルアミカには聞き覚えがないものだった。


「父さんだ」


 背後の木製棺桶の中にいたディンゴが答えた。


「今姫様が言った名前は、僕の父さん……先代、姫様の近衛騎士であり、国の英雄だ」

「……じゃあ」

「僕のことは覚えていないみたいだ。なら……少なくとも四年前。姫様の記憶はそこまで遡ってることになる」


 四年……アリス姫は、体は十歳であるものの、記憶は六歳……少なくとも四年なので、もしかしたら五年、六年前の可能性だってある。

 だが、あまり長いこと遡り過ぎると年齢も下がるため、三歳や四歳として見れば彼女は成長し過ぎているだろう。

 五歳、もしくは六歳……と見るのが妥当だろう。


「記憶が飛んだだけなら……まだマシだよ。本当は死んでたんだ、命を取り戻したとは言え目を醒まさない植物状態だって覚悟してた。だったら、記憶が飛ぶくらい悲観することはない。姫様が笑って生き続けられるなら、経験の齟齬なんて小さなことだよ」


「あんたは大丈夫?」

「なにが?」


「だって、この子のためにずっと、守ってきたのに……親同然に大切にしてたのに、忘れられちゃったのよ? そんなの、すっごくショックでしょ……っ」

「君は勘違いしてるよ」


 表情が見えないので、彼の感情は読み取れなかった。

 強がっているようにも聞こえるし、本当にそう思っているようにも聞こえた。


「僕は、元から姫様からなにかを貰おうと期待なんてしてないんだ」


 一方通行で構わない。

 与えているのだから返してほしいなんて、押しつけがましく守っているわけではない。


 ディンゴは一番始めに彼女から大きなものを貰った。

 だからと言って返そうとしているのではなく、与える、返すなんて段階は、既に越えているのだ。


「愛情だってなくてもいい……極論、嫌われたって構わない。

 姫様が幸せに生き続けてくれるのなら、これ以上に嬉しいことはないんだから」


 そう。

 だから忘れられようが、ディンゴがアリス姫へ抱く想いは変わらないし、守る決意が揺らぐこともない。



「ふーん……」

 という声と共に。


 がさっ、がさっ、と敷き詰められた葉の上を歩く音。

 隙間から外の様子を見ていたディンゴの視界に現れたのは、

 人を小馬鹿にしたようなにやけ顔を見せる、アリス姫だった。


「そこから出れないの? ……いまなら、父上になにしても、怒れないね……?」


 木製の棺桶にアリス姫が飛び乗り、ぐらり、と。

 棺桶型だが多少は丸みを帯びているため不安定に左右に揺れる。


「日頃のうらみー!! あははははっ!」


 乱暴に揺らされる棺桶の内側でがつがつと体が突起に当たって地味な痛みに襲われる。

 声を上げるほどではないが、連続で当たるとなると苛立ちが募ってくる。


「姫様……っ、いい加減にしてください……!」

「うーん、父上は今日はおとなしい……?」


 ディンゴが知っているアリス姫と国王は不仲に見えたが、幼い日のアリス姫はそこまで嫌ってはいないようだ。

 日頃の恨みと言いながらも見せる笑顔は作りものではない。


 不満そうに首を傾げるアリス姫の背後に、アルアミカが近づいた。


「はい、もうおしまい。困ってるでしょ?」


 子供らしくすぐに興味を失い、はーい、と言葉を伸ばして木製の棺桶から下りるアリス姫と入れ替わるように、アルアミカが顔を見せた。


「気付いてた? あの子……あなたを父親と勘違いしてた」

「…………そうみたいだね」

「どうだった?」


 ……なにが? 

 とすぐに言えなかったのは、会話の前後で導き出された図星を自覚したからだった。


 家族には当然、愛がある。

 親愛が。

 小さな子供であれば、常識を取り払った好意が。


 お父さんと結婚する! 

 とは、多くの女の子が一度は言うのではないだろうか。


 近衛騎士であるディンゴに、本来決して向けられることのない、アリス姫からの純粋な親愛が、今の短い時間の中で充分に感じられた。


 それ踏まえて、どうだった? と彼女は聞いたのだ。


「これでも愛情なんてなくてもいいって、言えるの?」

「………………」


 即答できない時点で、ディンゴの心の隙間を突かれたようなものだった。


「格好つけてないで、最初からそう言えばいいのよ」

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