第10話 騎士ディンゴの誕生

 森の奥へ進むと、地面が途切れる場所がある。

 それが国の最も端だ。


 先に見えるのは空しかなく、下を見れば重たく溜まっている灰色の霧が見える。


 通称『足下』の世界。

 飛び降りて生還した者がいないことから、なんの情報も残されていない未知の領域だ。


 大抵の想像通り、死んでいるのかもしれないし、もしかしたら霧の真下は戻るのも嫌になるような楽園が広がっているのかもしれない。


 町で違法な賭博をしていたはずれ者たちにとってここは格好の自殺場所だと教えられた。

 確かに人はいないし、滅多に訪れる者だっていないだろう。

 そもそもこの場所は進入禁止の立て札と共に柵で仕切られている。

 同じ目的でない限り人と出会うことはない。


 すると、背後から足音が聞こえて振り向く。


「ディンゴじゃないか。見学、というわけでもなさそうだ。先に逝く気か?」

「……止めない、のか」


 違法賭博や窃盗をしなければ生活ができない最底辺の住人だ。

 見た目より実年齢は若いのだが、生きる希望を失ったことで一気に老け込んだらしく、もう老人にしか見えない。


「止めてほしいのか?」


 言われ、ディンゴは押し黙る。

 構ってほしい、と自覚していない気持ちがあり、透けて見られたのなら、とても恥ずかしかったのだ。


「止めた方がいいのだろう、大人としては。仲間としては」


 人の道からはずれた者にも輪があり友情がある。

 法を守らないだけで同じ人間だ。

 そうせざるを得なかった理由があるだけなのだから。


「しかし止められん。俺がこうしてここにいる以上、お前の気持ちも分かるからだ」


 この人たちといることは楽だった。

 ディンゴを、英雄の息子ではなく、ディンゴとして見てくれているからだ。


 当然、彼らだってディンゴの正体は分かっていたはずだ。

 だが触れられたくない事実がある気持ちを誰よりも理解できる集団だったのだ。


 分不相応な場所にいる理由は、それに類するものだと聞かずとも推測した者たちは、何も言わずにディンゴを受け入れた。

 彼を平気で侮辱した、暴力を振るった、色々な悪知恵を教えた――恐れ多くて表では決してできないようなことを、家と家の狭い隙間にある裏道では誰もがしてくれたのだ。


 心地良くて、だらだらと長く居続けてしまった。

 ディンゴにとってもう一つの居場所になっていたのだ。

 もう抜け出せないくらいに、深く入り込んでしまっている。


「……恐いなら一緒に逝こうか?」


 差し出された手を、ディンゴがはたいて拒絶した。


「一人で逝ける」

「そうかい。さて、こんな汚い人間でも竜は捕食して美味いと言ってくれるのか心配だ」


 大人より少し大きいくらいの竜が周りを飛んでいることが稀にある。

 彼らは決して国にいる人間を襲ったりはしない。

 だが、飛び降りたら話は別だ。

 大群が競い合うように、一人の人間をばらばらに分けて捕食する。


 多くの竜に噛みつかれた人間の末路は霧の中に消えて分からなくなったが、言わずとも想像できる。


 外は、そういう世界でできていた。

 もしかして楽園が広がっているかもなんて……信じる者などいるのだろうか。


「ディンゴ、さっき子供の声が聞こえた気がしたんだ。人目につく前に飛び降りるなら、さっさと飛び降りてしまえよ」


 子供の声? 

 振り向いて確認したが、見える柵の向こうに人は一人もいなかった。


「いや、誰も――」


 視線を戻すと、いたはずの男が、もういなかった。


「え」


 と真下を覗くが、男の姿は見当たらない。

 霧に飲まれた後だったのだろう。


 ……別れの挨拶も、感謝の言葉も言えなかった。

 父親から学べないことを、たくさん教えてもらったのに。


 それは違法だとか犯罪だとか、だけではなく。

 悪の道に進んだ人間が言える、矜持みたいなものだって――。


 自分が死ぬ時、誰にも見つからない場所を選ぶ。

 これも一つの矜持だろう。

 後ろに気を逸らしたのは、それを再現するためか。


 ……風が頬を撫でた。

 次は自分の番だと教えてくれたのかもしれない。


 端に立つと、心の中が空っぽになり、清々しい気分だ。


 生きているべきではない、生きているだけで、多大な迷惑が拾ってくれた父親にかかってしまう……。

 だったらもう……、守りたいものなんてないし、贅沢かもしれないがあの重圧にはもう耐えられなかった。


 だから死のうと、この場所を思い出して来たのだ。


 楽になろう。

 ずるいかもしれないが、恩人である父親がこれ以上苦労しないように、自分が消えてしまえばいいと答えを出してしまえば、心の負担が一気に消えた。


 人は、誰かのためならば自らの命を犠牲にすることだって、簡単にできてしまえる。

 誰かのために命を絶つことができる勘違いした強さで弱さに蓋をしてしまえるからだ。


 結局、自分の中に納得を得たいがための自己満足。

 残された側がどう思うかなど考えない。


 エナがどれだけ悲しむかなんて、直前になってからでないと気づけないなんて……。


 その一瞬の躊躇いが、ディンゴの命を繋ぎ止めた。




「ダメぇえええええええええええええええええええええええええええええ!!」




 横から突撃してきた小さな物体に、ディンゴの体が押し倒された。

 勢いが強くごろごろと転がり、泥や土の上を通過したことで服装が汚れてしまった。


 ディンゴはまだいい、綺麗な身なりをしているわけではないのだから。

 だが、突撃してきた彼女は別だ。


 純白のドレスが泥に染まり、金色の髪に土が付着する。

 白い肌には少しのかすり傷が。

 高価なドレスに見えるそれを汚し、破ってしまったのに、彼女の怒りは自分ではなく、


「飛びおりるなんて、ぜったいにダメっっ!!」


 密着した格好で、そう説教される。


「あん、たは……――」


「アリス!? 急に飛び出して――ここは侵入禁止って書いてあるでしょう!?」


 遅れて小走りで現れたのは、ディンゴの腹の上に跨がる少女を、そのまま大人まで成長させたような絶世の美女だった。

 知らぬ者などいないだろう、国の王女――。


 王女の後ろからは彼女の一人娘であるアリス姫を護衛する騎士……国の英雄が姿を現した。


「父さんも……」

「ディンゴ……お前、数日いないと思えば、こんなとこに……!」


 英雄が、アリス姫の惨状を見て剣を抜く。


「お前、姫様をなんて姿にさせている!」


 父親は一瞬で顔が青ざめ、ディンゴよりもまず王女に跪くことを優先させた。


「申し訳ありません! 我が愚息に、多大な罰を与えますので、どうか――」


「構いません。それよりもお前は、私の可愛い娘が一人の男の子の命を救ったと言うのに褒めもしないのですか?」


 王女がゆっくり、凸凹と足場の悪い道を歩いてディンゴの傍へ屈む。

 ドレスが汚れようが構わないと言った様子だ。


「よく気付いたわね、アリス。偉い偉い」

「……でも、もう一人、いたと思うんだけど。見つけたのはそっちだったし」


 先に飛び降りた男のことだ。

 人目がつかない場所だが、気付かれて尾行されてしまえば辿り着くのは当然だ。


 ……いや、あえて気付かせた、のかもしれない。

 なんのために? 

 こうして、救ってもらえることを、期待して……?


「でも、突撃するなんて危ないわ。もしも、少しでもずれていたら、この子と一緒に竜の上から真っ逆さまよ?」


 今更理解したアリス姫が、もしもの想像にゾッと背筋を凍らせたようだ。

 母親に抱きつき、ガクガクと体を震わせる。


「大丈夫よ」

 と、王女が娘の頭を撫で、安心させていた。


「あの……」

「どうして死のうと思ったのか、話すべき相手は私ではないでしょう?」


 王女の視線が、後ろで跪いたままだった父親に向けられた。


「謝罪と感謝は後でいいです。今はなによりも、親子で話し合うべきよ。いいわね? あなたも父親として、きちんと息子と話し合いなさい」


「耳の痛い話です」

「あまり子供を恥じないように。……私は、アリスを恥じたことなど一度もありません」


 それはそれで甘やかし過ぎているため、別の問題が浮上しているのだが。


「話し合った結果を報告しに来なさい。……今日の仕事はもういいから」


 男二人を残し、立ち去る王女の肩から、抱かれていたアリス姫が顔を出した。


 ディンゴと目が合い、にかっと、姫が笑顔を見せた。

 騎士でもなく、国に貢献もせず、多くの人に迷惑ばかりをかけた、自分に――。


「わたしの国に、いていいんだよっ」


 この瞬間、その笑顔、言葉によって――ディンゴの中にあった、無駄な部分に割いていた多大な力が一気に抜けた。

 英雄の息子である自分に居場所はないと勘違いして張り詰めていた緊張感が、ふっと弛緩したのを彼は後々になってもよく覚えている。


「国のみんな、大好きだから、いなくなったらさびしいもんっ!」


 だから、きみも。


!」


 ……遠目から何度も見ていたが、こうして顔を合わせ、話したのは初めてだった。

 ディンゴとアリス姫に接点などないのだから当たり前だが。

 騎士をやめれば、本当に、一生会うことはないのだろう。

 そう思ったら、自然と拳を握り締めていた。


「ディンゴ、話を」

「父さん、俺、騎士になる。真面目に修練をする、従者の仕事も我慢する」


 父親に話しているようで、彼は別の方向を見つめていた。


「…………なにがお前を、そこまで変えたんだ」


 ディンゴが生きようと思える、理由だ。


「守りたい人ができたんだ」

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